彷徨(KWAIDAN)第十一話 全十七話

彷徨(KWAIDAN)第十一話 全十七話

 田村美奈と岸川朝雄はお見合いから二週間後の日曜日、岸川の車に乗って長野の駒ヶ根に向かっていた。そこには日本でも除霊、浄霊で権威のある霊媒師がいる。

「すみません。今日はわざわざ僕のために」

 岸川が運転しながら美奈に礼を言った。

「気になさらないでください。これも何かのご縁でしょう」

 岸川の車は六人乗りのワゴン車で乗り心地は悪くなかったが美奈はこの車に乗ってからずっと気分が重かった。それは後部座席に相変わらず岸川の彼女が座っていたからだった。

 東京から三時間半で中央道の駒ヶ根のインターまで、さら一時間程夕暮れの山道を走ると霊媒師の家に着いた。

 

 美奈はこの霊媒師に久しぶりに会う。霊媒師の名前は鳳来心明と言った。美奈が大学の夏休み、長野の山にハイキングに行った時、心明に出会った。

 美奈は少し離れた川下の方から褌一つで滝に打たれ祈祷を唱える初老の男を遠目で見ていた。やがて祈祷の声が一際大きくなり、心明の体から四、五体の霊が離れそして消えて行くのを見た。その刹那、心明が穏やかな声で美奈に手招きをして呼んだ。

「こっちへいらっしゃい」

「すみません。邪魔をしてしまって」

「どちらからいらしたんですか?」

 鳳来は体を拭きながら美奈に聞いた。

「はい、東京からです」

「そうですか」

「修行をされていたんですか?」

「いや、月に一度、滝に打たれてお祓いをしているのです」

「……お祓い?」

「浄霊ですよ」

「浄霊?」

 美奈は敢えて霊の世界から自分を遠のけていたので普通の人より霊の知識には疎かった。

「そう、私に憑いた霊を祓っているんです」

「そんなにいつも霊が憑くのですか?」

「はい、私は人に憑依した霊を取り除いてあげているのです。ところが殆どの場合、霊は成仏せずに私に憑いてしまうことが多いのです。世の中の殆どの霊媒師が自分に憑いていることを知らずに浄霊に成功したと思い込んでいます。しかしそのままにしていると災いが起きます。病気になったり悪ければ命を落としたり……で、こうして滝に打たれて浄霊しているのです……もしかしてあなたにも何か力があるんじゃないですか?」

「力と言う程の物じゃありませんが、たまに霊が見える時があります」

「そう、それは大変でしょう?」

「もう慣れました」

「でもお気をつけなさい。霊能力のある人は霊媒体質もあって霊による障害、つまり霊障に遭う機会も多いのです。……直ぐそこが私の家です。良かったらお昼でも一緒にどうですか?」

 鳳来は普段着に着替え終わっていた。

「はい、でも……」

「取って喰いはしませんから付いて来なさい」

 地味な風貌と穏やかな口調でそう言われると美奈も安心した。

 そして鳳来の家に招かれ、昼に麦飯と豚汁をご馳走になった。

 そして霊界全般について、霊に対してどう向き合うか、霊への対処策、例えば最善の策はなるべく霊に近付かないこと、中途半端な浄霊の真似事はしないこと、基本的だが肝心なことを美奈に伝授してくれた。

「ありがとうございました。勉強になりました」

 美奈は鳳来に礼を言った。

「いや、普通の方なら何も家に招いてまでこんなお話しはしません。あなたはこれからも一生、霊と付き合って行かなければならない。だからお話ししたのです。何か困ったことがあればいつでも相談に乗りますよ」

 そう別れ際に言われ鳳来とは七、八年振りの再会だった。

 後日、東京に帰り鳳来についてウェブで検索すると日本でも有数な霊媒師だと分かった。しかし記述は少なく自ら名を売ることも避け静かに隠遁生活を送っているようだと書かれてあった。鳳来は今ではもう八十近い歳になっているはずだ。

 

 鳳来の家に着いたのは夕方五時頃だった。七、八年前に訪れた時となんら変わりなく静かな山の中の一軒家だった。無気味さの漂う家でも貧相な家でもなく、ただ築四十年は経っている古めかしい家だった。

 植え込みの垣根で造られた門を通って玄関の横の壁にある呼び鈴を押すと足音が近付き年老いた男の声が聞こえた。

「どなたですか」

「昨日お電話致しました田村です」

 引き戸の扉がガラガラと音を立てて開き老人が現れた。鳳来だった。あれから七、八年経っているもののまだ矍鑠としていた。

 鳳来の身なりは白装束でも羽織り袴でもなく霊媒師とは思えない程の地味な茶色いセーターとグレーのズボンだった。顎には無精髭が生えどこにでもいそうな老人だった。

「ああ、お待ちしていました」

 鳳来は美奈を暖かく迎え入れてくれた。

「お久しぶりです」

「ふむ、そちらのお若い方、憑いてますな……まあ、上がりなさい」

 美奈と岸川は鳳来の後に付いて行くと火燵と神棚のある畳敷きの奥の間に通された。鳳来は神棚の蝋燭にマッチで火を点け一礼した。

 霊媒師の祈祷する場は板の間の道場だったり、ご神体があったり、護摩焚きの囲炉裏があったりするものと想像していたが実際には随分質素で平凡だった。

 岸川に憑いている女の霊は鳳来を上目遣いでずっと睨んでいる。美奈は女の霊の強い念を体で感じていた。夕起は岸川の体から引き剥がされようとしているのが分かっているようだった。

 鳳来が岸川に聞いた。

「お若い方、この霊は成仏できない心残りがあるようです。この方はあなたの恋人ですか?」

「はい、私の婚約者でした」

「彼女はまだ死んだことに気付いていないようです。それに彼女が側にいるのにあなたが気付いていないから悲しんでいます。それにしても随分強い念を感じます。生前はかなり一途な性格だったようであなたを相当愛していましたね。こう言う霊は中々成仏できないのです」

「夕起!」

岸川は畳の上に涙を落としながら夕起の名前を呼んだ。

「あなたのその未練も恋人があの世に行けない原因です。その気持ちが彼女をこの世に引き留めているのです」

「私が引き止めている?」

 岸川は困惑した表情になった。

「まだあなたに霊障はないようですな」

「れいしょう?」

「そう、霊のせいで起こる障害のことです。例えば頭痛や酷い肩凝り、癌や心筋梗塞など死に繋がる病気、事故や家族の不幸。悪いことは全て霊のせいで起きる場合があります。今は何も起きなくてもこれからどうなるか分りません。霊になると強い愛が怨念に変わる可能性もあるのです。もしあなたが誰かと結婚すれば相手の女性やその女性との間にできる子供にどんな不幸が降り掛かるやも知れません」

「分りました。浄霊してください!」

 少し間を置いて岸川が答えた。

「はい、できるだけのことはしますが、浄霊できるかどうかは霊媒師の力が強いか霊の力が強いかによって決まります……まあやってみましょう!」

 そう言うと岸川を南向きに座らせ鳳来はその真向かいに座って息を吐き始めた。そして東に向かって息を吸い込んだ。暫くすると祈祷を唱え始めた。

 臨兵闘者皆陣列在前、臨兵闘者皆陣列在前、臨兵闘者皆陣列在前(りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん)

 両手で手印と呼ばれる印を指で結びながら何度も祈祷を唱えている。顔半分しかない夕起の霊は鳳来の眼前に迫り威嚇している。いつもは穏やかな鳳来の顔が険しくなり額に汗を滲ませながら手印を切っている。

 悪魔降伏、怨敵退散、七難速滅、七復速生、秘(あくまこうふく おんてきたいさん しちなんそくめつ しちふくそくしょう ひ)

 そして右手を刀に見立てた刀印を結び四縦五横と呼ばれる直線を空中で切り最後に静かに右手に持った刀を左手の鞘に収める所作をして浄霊は終了した。

 時間にして僅か十分程で岸川の側にいた女の霊はいつの間にか消えていた。美奈は子供の時に見た映画のようにポルターガイスト現象でも起こるのかと思ったが案外あっけなく終わり安堵した。

「夕起はもういなくなったのですか?」

 岸川は不安げな顔で鳳来と美奈の顔を交互に見ながら尋ねた。

「多分、大丈夫でしょう」

 鳳来は微笑みながら言った。美奈が礼を言うと岸川も頭を深く下げながら礼を言った。謝礼は幾らか聞くと鳳来が笑いながら指を三本立てた。

「それじゃ、今日の飲み代、これぐらい置いて行ってください」

 岸川が一万円札を三枚財布から取り出そうとすると

「いやいや、千円札三枚で結構」

 そう言って、岸川の財布を取り上げ千円札三枚を摘まみ上げ岸川に財布を返した。

「ではまた」

 もう用は済んだと言うような言い方だった。美奈と岸川はもう一度頭を下げ礼を言った。

「それでは先生、お元気で」

「はい、あなたもお元気で」

 岸川と美奈はまた車に乗り込み東京へ引き返した。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。