白黒画像をAIがカラー化 - 無料WEBアプリ - DataChef | TechLagoon
昭和27年
亡父は福岡の小倉駅のすぐ側、魚町と言う街で本屋を営んでいました。10坪くらいの小さな木造の店内に本が山積みにされていました。私の母と父の妹たちも店を手伝っていました。時々、羽織,袴姿で下唇の厚い眼鏡をかけた男が年がら年中立ち読みに来ていました。その風采の上がらぬ男は、父の店で一度も本を買った事がなかったそうです。そしてその男は数年後、芥川賞を受賞して、日本を代表する推理小説家になります。また本屋の隣は洋品店があり、父はその店の主人と折り合いが悪く、本の木箱が自分の敷地にはみ出していると文句を言われます。その店の主人には四人の息子がいました。その中の三番目(多分)の中学生の息子はいつもボーっとして、父の本屋でいつも漫画を立ち読みしていました。やがてその息子は銀座に「源」のマークの付いたいくつものビルを所有する開発会社の社長になります。
父は映画好きで、青春時代はシナリオライターになりたかったそうです。九州の映画制作会社に自分の書いたシナリオを売り込みに行きますが、門前払いを食らいます。
母と結婚して、本屋を始め、ある程度は儲かった様ですが、父は趣味の映画が高じて、映画館経営の夢が膨らみます。全く元手のない父に当時の銀行は、簡単に映画建設の資金を無担保で貸してくれました。そして本屋をたたんで、繁華街から少し離れたお寺や事務所が立ち並ぶ堺町と言う街に映画館を建てました。
この頃の小倉には、有楽座、日活館、松竹館、常磐座、喜楽館、中央劇場、太陽劇場、昭和館、大成館など9館と数多くの映画館がありました。父の映画館は10番目の新参者でした。そして下関から商売を広げ、小倉にも顔の利く大物興行師がいました。かたやGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導で設立されたアメリカ人経営のセントラル・モーション・ピクチャー・エクスチェンジ(CMPE)と言う配給会社がありました。このCMPEは、日本のハリウッド映画の管理、配給をすべて任されていました。そしてこのCMPEと大物興行師との間に亀裂が入りました。配給会社がフィルムの貸し出し料を興行収入益の50%から60%にアップしたのが原因です。双方は対立して、取引がなくなりました。それから暫く小倉ではアメリカ映画が上映されない空白の時期が続いたそうです。そこへ新参者の父に配給会社から声がかかりました。しかもCMPEはフィルム1本、一週間の貸し出しで10万円と言う値段を提示して来たのです。当時の10万円はフィルム配給の相場として安くはなかった様です。しかし上物(映画館)だけ作って、上映するフィルムがなかった父は嬉々として承諾しました。映画は一週間に1本と目まぐるしく変わりますが、メトロゴールデンメイヤー、コロンビア、20世紀フォックス、ワーナーブラザーズ、ユナイテッドアーティスト、RKOラジオ等すべての配給会社の上映権利を手にする事ができたのです。上映する映画は父が配給会社に行ってフィルムを選びます。何をかければ当たるのか予想してフィルムにお金を払うのです。父は賭け事は嫌いでしたが、正にギャンブルだと言っていました。
映写機はフジセントラル製、発声器はビクター製とかなり高額な装置を運良く格安で手に入れる事ができました。画像のブレも音割れもない環境は他の映画館と比べて抜きん出ていました。
映画館の名前は「名画座」という名前にしました。二番館の様な名前ですが、一番館として立派に経営していました。因に江戸時代、新刊本は紙に入れてあり、その封を切るので封切り、それが明治になって映画界で使われた様です。誰かが勝手にフィルム缶の蓋を開けない様に封をしていたのです。そして最初にその封を切って、上映する映画館を一番館、暫く経って二番目に上映する映画館を二番館と呼んでいました。名画ばかりかけるから名画座という名前にしたいというのは父の発案でした。それ以降、映画協会に加入している館主たちは「名画座」という名前を映画協会の会報で知り、全国にたくさんの「名画座」が生まれることになったのです。
繁華街の中に映画館を持つ同業者たちは、父の素人経営と映画館の立地の悪さを馬鹿にした様です。全く映画経営の経験のない父は、彼らにとって格好の酒の肴になりました。
ところが名画座は流行りました。
「若草物語」、「アニーよ銃をとれ」、「黄色いリボン」、「わが谷は緑なりき」、「第三の男」、「風と共に去りぬ」、「誰が為に鐘は鳴る」、「遠い太鼓」。満員御礼が続きます。アメリカ映画は名画座でしか見られませんから、小倉中の洋画ファンが集まりました。劇場には700の座席がありましたが、座り切れず200人の観客が立ち見をしていました。
この頃の地方の映画館は、まだ地味な私服のもぎり(映画のチケットをちぎる店員)のお姉さんやエプロン姿のお菓子売り場のおばちゃんたちが働いている時代でした。私の父は洋裁店で働く妹に真っ赤な制服を何着か作らせ、女性従業員たちに着てもらいました。小倉にはまだ制服姿で働く映画館がなく、お客さんたちの目にも洒落た映画館に映りました。たまに映画館の中で抽選会も開いた様です。1等は自転車でした。
開業して2年ぐらいは好調でした。しかし名画座は元手がなく、借金からのスタートでしたから、持ちこたえる力がありませんでした。税務署に納める入場税はかなり高い税率でした。入場料金120円に60円の入場税と言う関税が掛かります。(当時公務員初任給〈上級〉7,650円、タクシー代80円、銭湯入浴料12円)また、観客増員のために劇場の拡張工事を行い、それも銀行からの融資で賄っていました。借金はさらに増え、ついに経営は行き詰まってしまいました。開館3年後に名画座はあっけなく幕を下ろす事になったのです。
私は、昭和30年、小倉の船場町という街で生まれました。
小倉は小笠原藩の城下町でしたから、町名には、魚町、米町、鍛冶町、京町、紺屋町と風情のある名前が並びます。7月の中旬には、毎年町内ごとに山車を曵きながら太鼓を打つ祇園祭あります。(アイキャッチ画像)生まれた頃から鉢巻き、法被の出で立ちで、祭りに加わっていました。
近くには井筒屋という大きなデパートがありました。創業昭和10年と、かなり歴史のあるデパートです。今でも小倉の人たちに愛されている老舗です。また井筒屋と肩を並べる玉屋というデパートにもよく行きました。しかし玉屋は残念ながら閉店してしまいました。どこへ行くにもすぐ近くで用が足せましたから便利な街です。地方都市の便利さだと思います。
この頃、父は興行師の仲間の紹介で、映画館の支配人として雇われていました。しかしやはり自分の映画館経営の夢が捨て切れず、また仲間のつてで、熊本の田舎の映画館を経営します。この映画館は貸店舗で、設備が整っていましたから少ない借金で開業する事ができました、と言っても古くて狭い映画館でした。そして父は熊本の映画館に小倉から単身赴任します。
この映画館は「彩映館」という名前で、日活をメインに、また東宝、松竹のフィルムも上映していた二番館でした。開業当初は日活ニューフェイスの黄金時代でした。石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、二谷英明、赤木圭一郎と蒼々たる顔ぶれが連なっていました。(因みに日活ニューフェイスとは日活の公募による新人俳優の事で、石原裕次郎は水の江滝子に発掘された俳優なのでニューフェイスの一員ではありませんでした)
石原祐次郎の映画をかけると、外にはいつも200人から300人ぐらいの行列ができたそうです。「狂った果実」「嵐を呼ぶ男」小林旭の「ギターを持った渡り鳥」、田舎の劇場も大盛況でした。
石原裕次郎、小林旭のおかげで小倉の駅前に父は新築の一戸建てを購入する事ができたのです。
父は2か月に一度、小倉に帰って来ました。
帰宅すると夕食はとてもにぎやかでした。私の父は社交的で、仕事仲間や友人が集まるのは好きだった様です。食べ盛りの若い人たちばかりが集まり、すき焼きで母がもてなすと、あっと言う間に牛肉がなくなり、さながら戦場の様でした。
夕食後、父はキャバレーに行きます。名画座の全盛期には毎週40万円程(当時小倉の駅前の一戸建てが50万円で買えました)飲み代で使い切ったそうです。幼い私もたまにキャバレー(クラブとはまだ呼ばれていませんでした)に連れて行かれました。たぶん父は、私を出汁に使って、母の目を盗んで外出していたんだと思います。きれいな若い女性が沢山目の前に座り、ちやほやされたのを覚えています。大人たちの世界に幼くあどけない私は、ホステスさんたちの玩具です。18歳未満なんてうるさいことを言う人もあの頃は誰もいませんでした。私のクラブ遊びは3、4歳からすでに始まっていたです。
昭和35年頃から、日本は映画に代わってテレビが急速に普及し始めました。そして日本の映画産業は斜陽化に向かうのです。
またも父は借金苦を味わいます。小倉の一戸建ても人手に渡り、私たち家族は小倉の街を離れ、熊本に移り住みました。この頃はかなり生活が苦しかった様で、母は良く熊本市内にある配給会社に行き、そこの社長に頭を下げてお金を借りていました。私もたまに母のお供に付いて行きました。借金ができると、帰りに肉屋に寄ってステーキ用の牛肉を買って帰りました。久しぶりにご馳走したかった母の思いやりだったのでしょう。
また従業員が次第に少なくなり、父自ら工具箱を持ち、客席の修理をしていました。父は丹念にひとつひとつ不具合がないか調べます。私は父の側にくっついて、修理をしている父の姿を見ていました。
当時、住んでいる家は釣具屋の2階を間借りしていました。
土間のある1階には竹の釣り竿がたくさん並んでいて、釣り糸や浮きなどの小物も置いていました。家の前には氷川という大きな川があり、とても透明度の高いきれいな川でした。その川で鮎が釣れるので釣具屋を開いていたのでしょうが、私は客が入っているのを一度も見たことがありませんでした。
ある夏の日、私は近くの友だちといつもの様に川へ泳ぎに行きました。私の浮き輪は古く、安全弁がちぎれてしまい、祖母は代用品として丸箸の先を切って、差し込みました。泳いでいる内に、深い場所で丸箸の栓が抜け、浮き袋はどんどん縮んでいきます。体はどんどん沈んで行きます。岸にいた友だちも同じ様な歳でまだ幼く、何もできずにただ見ているだけでした。水面はどんどん遠くなり、自分の吐く息の泡が昇って行くのが見えます。この瞬間は、大人になった今でも鮮明に残っています。滅多に人の通らない河原にたまたま大人が通り掛かりました。その人は洋服のまま、川に飛び込み、私を助けてくれました。河原の近くの竹屋さん(物干竿を作る町工場)でした。私は父と一緒にお礼に行き、なぜかついでに竹馬を作ってもらいました。もしあの時この竹屋のおじさんがいなければ、私はこの世にいなかったでしょう。
その釣具屋は木造の古い家で、長く暗い廊下があり、その先にトイレがありました。夜、その廊下を通ると大きな黒い猫が目を光らせ、大きな鳴き声を上げます。私はおかげで今でも猫が嫌いです。トイレの壁は土でできており、朽ちてぼろぼろと土がはがれ落ちていました。土の中から竹の骨子が露出していました。ある日、私の祖母が映画ポスターを、土の補強としてトイレの壁に裏返して糊で何枚も重ねて貼っていました。その夜、私がトイレに入って、腰をおろし、暫く壁を眺めているとうっすらと戸板に張り付けられた「お岩」と目が合ってしまいました。裏返しているポスターは「東海道四谷怪談」のポスターでした。「ばあちゃん!貼り替えてくれ~!」その上に何かポスターを貼っても、その下にはあの「お岩」がいると思うと子供は怯えます。
あの頃の映画館では、本編が始まる前に映画会社制作のニュースを上映していました。私は、客席でくつろいでスクリーンを見ていると「赤木圭一郎、ゴーカートで壁に激突。死亡。」のニュースが流れてきました。幼い私にとって人の死を悲しむ初めての体験でした。
近所の肥後狼犬(柴犬に似た品種)が子犬を何匹か産んでその一匹を我が家で引き取ることにしました。当時はペットショップなどなく、子犬はどこかの飼い主からもらうのが当たり前でした。母犬が「おてもやん」をもじって「テモ」と言う名だったので、その子犬には「ヤン」と私の母が名付けました。
ある日、父が運転するバイクに母と私が後ろに乗り、隣町にある父の映画館に向かいました。バイクが走り出した時、後ろからヤンが追いかけてきたのです。犬は家から随分離れた場所まで追いかえて来たので、母は仕方なく犬を抱いて、一緒に連れて行きました。50ccのオンボロバイクに人間3人と犬1匹が同乗しました。交通量の多い国道に入り、暫く走っていると、犬はバイクのスピードと周りの行き交う車のスピードに怯え、母の腕から飛び下りてしまったのです。ヤンは、後ろから来た車に跳ねられ、山の方に足を引きずりながら逃げて行きました。何度か両親は、跳ねられた場所にヤンを捜しに行きましたが、見つかりませんでした。私たち家族は、誰かに助けられ、そしてまだどこかで元気に生きていると信じようとしました。私は今でも味噌汁をかけ、めざしを乗せたご飯を美味しそうに食べているヤンが思い出されます。
昭和37年、私は小学校に入学しました。
小学校は、釣具屋から歩いて10分ぐらいの所にありました。広い校庭のある大きな古い木造建ての小学校でした。
私の性格は、子供の頃は人見知りで、運動が得意でも勉強ができる訳でもありませんでしたが、絵だけは他の生徒よりは上手だった様です。絵と言っても、図画の時間にテレビ番組のヒーロー「月光仮面」や「快傑ハリマオ」の絵ばかり描いていましたから、先生も呆れていたと思います。
当然、こんな性格ですから、いじめられてもしょうがないはずですが、父の仕事のおかげで、いじめられずにすみました。私の住む借家へ放課後や休みの日に5、6年の上級生がやってきて、私に映画の写真を譲ってくれと頭を下げるのです。
昔の映画館の入り口あたりには、上映されている映画のハイライトシーンの写真がガラス張りのケースの中に沢山貼られていました。そのモノクロ写真欲しさに、私の借家に、見ず知らずの上級生が噂を聞いて訪れ、「只で譲ってくれ。」と懇願するのです。石原裕次郎や小林旭のそんな写真は、手に入りませんから、田舎の子供には貴重な品でした。
熊本の氷川に住んで2年が経ちました。
小学校にもやっと慣れはじめ、友達もでき、まもなく1学期が終わりそうなある夜。正確にはまだ暗い明け方。母は、寝ている私を起こして、小声でこれから小倉に帰ると言います。私は友人と次の日に約束があると言うと、母は手紙を書きなさい、そして自分で持って行けるだけの玩具を、持って行きなさいと言われました。片面が破れた玩具の太鼓の中に、グリコのおまけやメンコやビー玉を入れ、だれにも別れを告げず、私たち家族は、始発列車に乗りました。汽笛と車輪の音が、遠い記憶の中でこだまします。これが夜逃げならぬ朝逃げだった事は、ずっと後になって母から聞かされます。
小倉に戻っても、家も映画館も残っていません。
父は熊本の借金取りから逃れるため、そして家族を養うため東京の親せきを頼って単身上京します。母と姉と私の3人は、祖母の姉の離れを借りて住み始めます。祖母の家は小倉の駅からバスで10分ぐらいの香春口(かわらぐち)と言う街にありました。母屋もかなり古く、離れはトイレも台所も付いていない四畳半の狭い一間でした。
母は、父だけの仕送りでは生活できなかったので洋裁を始めます。
私もたまに母の仕事場に遊びに行きました。お店でも工場でもなく、普通の畳敷きの一軒家に10人くらいの女性が集まり、そこでみんなが裁縫をしています。ミシンも何台かあったと思います。働いている女性たちの多くはは、既婚で子持ちだったと思います。私は、その仕事場で、同じ歳くらいの小学生の子供たちとトランプや絵を描いて遊びました。
姉は、小倉の駅前に住んでいた頃に通っていた米町の小学校に行きたいと希望しました。おかげで私も、香春口からバスと徒歩で30分くらいかかる小学校に通う羽目になりました。母がしっかりした姉に頼りない弟の世話をさせようとしたのです。香春口に移り住んだ当初、なかなか友達ができませんでした。それでも少しずつ、学校の違う近所の子たちと知り合い、仲間に入れてもらえました。
遊びはメンコ、ビー玉、釘差し、草野球。
社交場は駄菓子屋、貸本屋、貸自転車屋。
愛読書は「ぼくら」、「少年」、「冒険王」、「まんが王」、「少年画報」。古本屋で借りて、友達3、4人で回し読みです。(貸本屋は回し読みを禁止していました)
母が仕事で忙しかったので、姉が学校から帰ってくると、私と姉はたまに炊事をしました。姉の帰りが遅い時は私がお米だけでも研いでおきます。台所がないので、離れの廂の下に板切れで台を作って、その上で調理していました。トイレは母屋にあり、夜は面倒臭かったので、離れの前の中庭で用を足しました。
香春口よりさらにバスで30分くらいの田舎に、父の姉夫婦が住んでいました。姉夫婦には、私の姉と同じ歳の長女、さらに2歳下の次女、そして私より一つ年上の長男がいました。春休み、夏休みになると、姉と二人でボンネットバスに乗り、よく遊びに行きました。野山を駆け巡り、昆虫を追い、石蹴りをして、汗をかいた後、五衛門風呂。アメリカテレビ番組「怪傑ゾロ」を見ながら、みんなで夕飯。蚊屋を吊るして、従兄弟とふざけあいながらいつの間にか就寝。楽しく、また懐かしい思い出です。
香春口の大叔母の家の近くにも映画館はありました。
たまに遊びにくる叔母(父の妹)に「椿三十郎と言う映画を見に行かないか?」と誘われました。「白馬童子」や「とんま天狗」なら喜んだでしょうが、大人の見る本格的な時代劇には興味はありませんでした。それでも渋々叔母に付いて行き、暫く映画を見ていると余りの面白さと迫力に息をするのも忘れ、映画に引き込まれました。最後の三船敏郎と仲代達也の決闘シーンは圧巻でした。
ある日突然、熊本から二人の借金取りが離れにやって来ました。
母は黙って借金取りが一方的に話すのを、聞いていました。私も側にいました。母も辛かったと思います。父本人がいなかったせいか、幼い私が見ていたせいか、借金取りは、母に怒鳴ったり、脅したりはしませんでした。ただ長く重い時間が流れていたのを覚えています。やがて借金取りは、帰りました。その後も父は、借金を返さずに逃げ通した様です。
この年、昭和37年、大好きだった小林旭が美空ひばりと結婚します。
当時のマスコミは大きく報道し、芸能界のビッグニュースでした。あの二人が結婚するとは夢にも思いませんでした。子供心になぜか違和感を感じました。あの小林旭と美空ひばり?幼い私の感が当たったのか、数年後二人は離婚しました。そして離婚会見をテレビ中継している時、美空ひばりの隣に映っていたのは小林旭ではなく、強面のおじさん(山口組三代目田岡組長)が座って話しているのが子供心になんとも不思議でした。
もう一つのニュースは、ある日、叔母とその娘が離れに遊びに来た時のことでした。その従姉妹もまだ3歳くらいで、私に良くなついていました。母は、二人のために不二屋のシュークリームを用意していました。しかしなぜか父の妹も娘も、シュークリームを口にせず帰りました。それが幸いしました。そのシュークリームを、二人が帰った後、姉と一緒に喜んで二人分を食べました。その夜から2日間、姉と私は具合が悪くなり、嘔吐と下痢が続いたのです。原因はシュークリームに使われていた腐った卵のせいでした。このことは、新聞で大きく取り上げられました。不二屋の不祥事は今から45年前にもあったのです。後日、不二屋の社員が一軒ずつ謝罪に廻った様です。この離れにも、お詫びの品を持ってやってきました。お詫びの品は、不二家のシュークリームでした。
そして昭和38年の春、父は東京に私たちを呼び寄せます。
父は運送会社に勤めていました。トラックの運転手でした。学歴のない父がネクタイを絞めて一流企業に入社できる訳もなく、手に職がある訳でもなかったので、仕方のない選択だったのかも知れません。自分の夢を捨て、初めて家族の生活費のために働き出したのです。小倉を離れたくなかった父や母の気持ちとは裏腹に、東京は私にとって憧れでした。
東京タワー、地下鉄、溢れる車、高くそびえるビル群。
石原裕次郎、小林旭の住む街。
上京するその日の朝、小倉駅のホームに親戚が皆、見送りに来てくれました。別れは少し寂しい思いでしたが、東京に行ける喜びの方が強かったと思います。まだ新幹線も開通していなかったので、小倉から東京は、丸1日かかる長旅でした。