妻が病院の流し台に食器とタオルを洗いに行っている間、平井は病室の窓から三百メートル程離れた増上寺の森を見ていた。看護婦にベッドの頭を少し起こしてもらっていたから外の景色が良く見え、緑の匂いの交じった風が入って来て気持ち良かった。
退院できたらもう少し夫婦の時間を大切にして二人で温泉にでも行こうと計画を立てていた。生き長らえて良かったとそう思っていた時、急に胸が苦しくなった。窓と反対側のベッドの脇にあるナースコールボタンに手を伸ばそうとした。
そこに文香が立っていた。
文香の眼球はなく眼孔は地獄に通じるように深く暗く、平井は文香がもうこの世のものではないことが直ぐに分かった。
「文香!」
文香の片手は平井の胸の辺りをすり抜けて、心臓を鷲掴みにしている。平井の心臓は圧迫によって激しく痙攣した。全身の血液が逆流しさらに胸に激痛を感じた。血流は元に戻ることなくそのまま不規則になって鼓動は次第に弱まっていた。
「文香、許してくれ」
文香は何も言わず側に立っていたが妻が病室に戻って来た時、文香は消えた。しかし心臓の鼓動は正常に元に戻りはしなかった。なぜか不規則な鼓動に反して心電図のモニターの波形と心音は安定していた。妻もナースセンターも平井の異常には気付くことなく、医者も看護婦も駆け付けはしなかった。
平井は自分がもう長くないことを悟った。冷や汗が出て呼吸困難になり血圧はさらに低下しながら平井は妻に声を振り絞って言った。
「お前には長い間……苦労を掛けたな」
妻は黙って林檎を包丁で剥いている。
「私は何度も浮気してそれをお前も気付いていたのに何も私を責めようとはしなかった……お前のその優しさに……どれ程感謝しているか言い尽くせないよ」
妻は優しい表情で平井の言葉に頷いている。
「本当に私が馬鹿だった……許してくれ」
妻は平井の顔に近付いて微笑みながら耳元に囁いた。
「あなた何言ってるの?許す訳ないじゃないですか」
平井は許してくれると鼻からそう思い込んでいたから驚いて聞き返した。
「お前も……人が悪いな……冗談だろ?……許すと言ってくれ」
「いーえ、許しません!」
「うう…もう時間がない……あの世に行く前に頼むから許すと言ってくれ」
妻は静かに話し始めた。
「私はあなたが浮気をして帰らない夜もずっとあなたを待ち続けていました。あなたが帰らない夜が何日も続いた。私は嫉妬で気が狂いそうだった。どんな女と今一緒にいるのか?どんな風に愛しあっているのか?その女にどんな甘い言葉を囁いているのか?私は考えるのを止めなかった。最悪のことを想像してあなたへの恨みを決して忘れることがないように心に刻んだ。あなたの前では涙を見せたことがないけど私は毎晩のように血の涙を流して泣いていた。でも世間体があったから仲のいい夫婦の振りをして来ました。……私はあなたのことが世界中で一番嫌いです」
「じゃ……なぜ私と離婚もせず……何十年も我慢して来たんだ?」
平井は息絶え絶えに聞いた。心電図のモニターから不規則な発信音がし始めた。
「この日を待ち詫びていたのです。あなたがこうやって臨終間際に私に許しを乞うのを……」
「頼む……許すと言ってくれ……」
妻は恐ろしい形相で冷たく言い放った。
「いいえ、絶対に許しません!あなたなんか地獄に落ちてしまいなさい!」
心電図の波の高低が小さくなりやがて一本の線になって心臓が止まった。医者と看護婦が急いで蘇生処置をしたが、平井が息を吹き返すことはなかった。
十分後、担当医は儀礼的に脈を取り死亡したことを妻に告げた。妻はそれに返事もせず夫の顔を見ながら薄ら笑いをしていた。
妻は親戚数人だけの密葬で済ませた。初七日も四十九日も終え、妻はまた自宅で静かに暮らし始めた。
ある晩、老夫婦の近所に住む六本木高層マンションの受付係の田村美奈は垣根越しに年老いた奥さんの姿を目にした。通りから家の中の広い居間が見渡せ、歩いて視界が変わると奥の隅の方に一人の老人が座っているのが見えた。その老人は生気がなく寂しそうな顔をしてじっと妻を見ている。美奈にはそれが直ぐに霊であることが分かった。そしてその老人は美奈の視線に気付くとふっと消えてしまった。
それから一か月後、妻もこの世を去った。妻が死んだ後でも居間の奥で「許してくれ。頼むから許してくれ」と深夜、老人の声が聞こえると言う噂が広まった。そしてさらに三か月経ってこの身寄りのない老夫婦の土地も競売に掛けられ、マンション建設の予定地になった。
*
世田谷玉川通り
森山夕起は赤いスポーツカーに乗って、恋人と約束の新宿のレストランに急いでいた。 夕起は大学を卒業しても就職もせず自宅に収まっていた。いわゆる家事手伝いと言う都合のいい肩書きだった。二十歳を越えても親の臑をかじって生きている。
暇を持て余すそんな日々、冷やかし半分で友人が企画した合コンに出席し都市銀行勤務の岸川朝雄と知り合った。岸川とはもう二年の交際が続き、つい先月、岸川からプロポーズされ夕起はその場で直ぐに快諾した。今夜は岸川と挙式と新婚旅行の打ち合わせをすることになっている。
夕起の祖父は戦中、陸軍の将校まで勤め、父も区役所勤めと厳格な家柄で、代々受け継がれた目黒の柿の木坂の大きな家で夕起はすくすくと育った。高校、大学も女子校で男性と付き合う機会が少なかったが、それでも岸川の前に二人の男性と交際している。しかしそのどちらとも愛を感じる程の深い仲にはならなかった。岸川は夕起にとって初めて真剣に愛し合った男性だった。そして今、夕起は人生で一番幸せを感じている。
最近、父から買ってもらったイタリア製の赤いスポーツカーを乗り廻したくてどこへ行くにも車を使っている。今日は黒いサングラスに白いサマーセーターを着ている。ファッションにも気を遣わないといけないオープンカーが夕起は好きだった。今日も顔に当る夕暮れの風が心地よかった。
車のスピーカーからライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ」の曲が流れている。夕起にはこの曲が岸川と夕起二人のためのラブソングに聞こえた。
環七を通って上馬の交差点を通り過ぎようとした時、信号無視の車が夕起のスポーツカーの側面にブレーキもかけず高速で突っ込んで来た。相手の車は車高の高い四駆だった。夕起の車の車高は低くさらに左ハンドルのせいで最悪の事故になった。
四駆のフロントが夕起の顔を直撃した。
一瞬鈍い音がした。それはまるで西瓜が割れるような音だった。夕起の座っていた運転席側の車体は大きく陥没した。
衝突後、四駆は進路を変え夕起の車の斜め後方で駐車していた大型トラックに衝突してやっと止まった。目の前のマンション建設のために大型トラックには建設資材が積まれていた。その資材、鉄筋丸棒を固定していたワイヤーが切れ音を立てて滑り落ちた。全てが一瞬の出来事だった。
遠くから救急車のサイレンの音が近付いて来た。人だかりがし始めて辺りが騒然としている。救急隊員の一人は余りに酷い惨状でショックを受けている。
夕起の左側の顔半分がサングラスと一緒に潰れてめり込んでしまっていた。
白いタンクトップとサマーセーターは肩から胸に掛けて血で真っ赤に染まり、車内のパネルや座席にも血が飛び散っていた。車は大破してもまだスピーカーからはジャニス・イアンの「ウィル・ユー・ダンス」が流れていた。
事故に遭う前はきっと綺麗な顔をしていたのだろうと救急隊員は夕起を憐れんでいた。