彷徨(KWAIDAN)第四話 全十七話

彷徨(KWAIDAN)第四話 全十七話

 世田谷玉川通り

 クラブ「エンジェル」の店長、沼崎岩雄はいつものように用賀のマンションから五年ローンで手に入れた中古のドイツ製の四駆に乗って銀座に向かっていた。

 夕方の六時には店に入って昨夜の売り上げの計算をしなければならない。黒服たちはもう五時には入店して掃除を始めているはずだ。

 この仕事に就いてもう三十年が経つ。勉強嫌いだった沼崎は高校を卒業すると青森から上京して水商売の世界に入った。一見華やかそうで女性に囲まれた楽しい職場だろうと期待していたが、実際は地味で惨めな仕事だった。

 ホステスに囲まれるどころかホステスに顎で使われ、露骨に沼崎に向かって「ドジ」「マヌケ」と罵声を浴びせるホステスも少なくなかった。何度も水商売を辞めようとしたが高卒ではまともな会社はどこも雇ってくれないだろうと鼻から諦めていた。

 クラブを転々としてようやく三十半ばで「エンジェル」の店長になった。店長と言ってもオーナーではない、雇われ店長だった。

 給料は黒服時代より多少上がったもののいつまで経っても自分の店を持てない自分に苛立ちを憶えていた。まだ独身で家族もなく身内は青森に年老いた母親が一人いるだけだった。女性には持てた試しはなかった。ホステスたちの誰もが底意地の悪い沼崎を嫌っていたが、店長だから仕方なく愛想良く振る舞っていた。沼崎は毎日のやり切れない気持ちとホステスから受けた積年の恨み辛みを解消するためつい店のホステスに当っていた。中でも文香は何を言っても口答えもせず沼崎のストレス解消の捌け口になっていた。

「何でお前はこんなに売り上げが悪いんだ?」

「すみません」

「すみません?おまえそれでもホステスか?ホステスなら客を引っ張って来い!」

「はい」

「連れて来れないんなら枕営業(体で客を捕まえること)でも何でもしろよ!」

「…………」

「それができないんなら今月もペナルティだ。給料たっぷり引いてやるからな。お前なんか他所に言っても誰も使っちゃくれないよ。俺だからお前を雇ってやってるんだ。有り難く思えよ!」文香は黙って下を向いて涙を流し沼崎の言うことを聞いていた。

 あの文香を毎日でも虐めてやりたかった。ところがここ一か月、文香は無断欠勤で沼崎の携帯にも出なかった。沼崎は捌け口がなくなって苛立っていた。

「今度出勤して来た時は徹底的に虐めてやる。文香、早く出て来い!」

 沼崎は車の中で大声を張り上げた。煙草をくわえシガーライターを押して火を点けた。直ぐさま前方に目をやるとバックミラーに人影を感じた。最初は影のようでぼんやりとしか見えなかったが次第にその影がはっきりしてきた。それは文香だった。黙って微動だにせず血の気のない顔で沼崎を見ている。しかしこちらを見ていたと思った文香には眼球がなかった。

「文香!」

 後ろを咄嗟に振り返ったが文香はもう消えていた。目の錯覚だろうと気を取り直して運転に集中した。しかし次の瞬間ハンドルの下から腐乱した両手が沼崎の両手首を掴んだ。沼崎は必死に振り解こうとしたが、びくともしなかった。ブレーキを踏もうとすると今度は左足首を掴まれた。

 沼崎の車はちょうど上馬の交差点に差し掛かろうとしていた。信号機は赤だったがブレーキペダルも踏めず交差点をそのまま突進した。右方向から交差点に進入して来た赤いスポーツカーと衝突して沼崎の車はさらに右方向の車道に逸れた。車はスピードを落とすことなく停まっていた大型トラックの後方に激突した。

 トラックには建設資材の長さ四メートル直径二センチの鉄筋丸棒が荷台の鳥居から斜めに五百本ぐらい積まれていた。追突された衝撃で固定していたワイヤーが勢い良く外れ、一番上の丸棒の数本が擦れた金属音と共に滑り落ちた。そして沼崎の車のフロントガラスを突き破った。沼崎の額から後頭部に掛けて鉄筋丸棒は貫通した。

 それから十分後、救急車、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響き、野次馬が集まり始め、玉川通りの上馬の交差点は喧噪の嵐と化した。

              

              *

 港区総合病院 心臓外科病棟305号室

 東洋商事に勤める平井は三日前に自宅のトイレに入っている最中、急に胸が苦しくなり便座に腰掛けた姿勢からそのまま床に倒れた。倒れた音で平井の妻が気付き、救急車を呼び港区の総合病院に運ばれた。医者の診断は心筋梗塞だった。

 静脈内に血栓溶解剤を投与したおかげで胸の痛みは随分と和らいでいた。

 

 二人の間に子供はなく、親戚も少なかった。平井は若い頃は妻を愛し労っていたが、やがて子供もない生活から外に楽しみを求め女遊びに走った。四十になって部長の職に付いてから接待交際費が毎月上限なく認められるようになると得意の接待などに交際費を使わず、ひたすら自分の性欲を満たすために銀座や六本木のクラブに通った。

 当時は役職に就いた誰もが年功序列制の特権だと思い込んでいた。平井もその一人で銀座の何人ものホステスと社費で付き合い、役職定年間際の五十四歳で銀座のホステス文香と付き合い始めた。

 いずれ妻とは別れて結婚してやると文香にその場しのぎの嘘を吐いて文香の体を物にした。しかし文香はいつまで経っても妻と別れない平井に焦れ始め、会う度ごとに結婚をせがむようになった。平井は今度こそ妻と別れ話をするからと三年間も伸ばし伸ばしにして来た。次第に文香の存在が疎ましく思え、もう文香とは潮時だと思っていた矢先、文香が平井の家まで押し掛ける暴挙に出た。

 

 日曜日の夕方、玄関のチャイムがなった。妻は幸い外出していたから良かったものの平井は玄関で文香の姿を見て心臓が止まりそうになった。

「おい、なんで俺の家まで押し掛けて来たんだ?吃驚するじゃないか!」

「ねえ…奥さんと別れて!……あなた、結婚してくれるって言ったじゃない?」

 文香は涙交じりに訴えた。

「だからもう少し待ってくれって言ったじゃないか」

「いつまで…いつまで…待てばいいのよ!」

「後もう少しだよ」

「今日……あなたの奥さんと三人で話し合いましょうよ……あなた、もう奥さんと別れたいってずっと言ってたじゃない?ねえ……私、あなたの家で……奥さんが……帰るのを待ってるわ」文香の声は嗚咽に変わった。

「勘弁してくれ!頼むからもう帰ってくれ!」

「いえ……待ってるわ……」

「うるさい!もう帰れ!」

「嫌、帰らない……」

「帰れ!お前なんかとは結婚できない!帰れ!」

「何で……そんな酷いこと言うのよ?それじゃ約束が違うじゃない?」

 近所の奥さんが犬の散歩で平井の家の前を通り過ぎるのを横目に平井は声を押し殺して言った。

「お前とはただの遊びだったんだ。慰謝料なら少しくらい払ってやるよ。だからもう電話も掛けて来ないでくれ!」

 平井は通り掛かったタクシーを停め、泣きじゃくる文香を無理矢理タクシーに押し込めた。あれ以来、文香から連絡はなかった。平井は多少の罪悪感は感じていたが、今さら定年間近で古女房を捨てて新しい女と生活を始める程の勇気はなかった。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。