ある日、工場の終業時間に正門の電信柱の陰に隠れて露子を待ち伏せた。露子がやって来ると萩原は露子の目の前に突然現れ、露子の手を引いて近くの心ぶれたラブホテルに無理矢理連れ込んだ。
萩原は嫌がる露子を力ずくで部屋に押し込め、洋服を脱がせようとすると「乱暴はしないで」と言って自分からブラウスのボタンを外し始めた。眼鏡をとって髪を下ろし一糸纏わぬ姿は萩原が思った通り、いやそれ以上のこの世の物とは思えぬ程の美しさだった。
萩原は露子の体に縋り付いた。露子の体は男を知らなかった。不器用で不慣れだったが不思議と萩原と肌が合った。抱かれた後、露子は何も萩原に求めなかった。もし露子が結婚や金の話をしようものなら直ぐに別れようと思っていた。萩原に抱かれた女性たちの殆どが結婚や金や見返りを求めた。露子はそんな素振りは何も見せず、ただ布団で肌を隠し天井をじっと見つめていた。肩透かしを食らった気持ちになったがこの女の本当の正体を見極めたかった。実は何も要求しないのも露子の策略ではないかと疑った。
─よし、試してやろう。こいつの心の奥を引っ張り出して醜い部分を曝け出してやろう。
萩原は余計この女を側に置いておきたくなった。翌日、また露子をラブホテルに誘い体を求めた。露子は抵抗もせず大人しく萩原に身を任せた。そして萩原は言った。
「俺と一緒に来い」
露子は返事もせずただ頷いた。やがて二人は一緒に暮らすようになった。
萩原は同棲するようになっても今までの生き方を変えようとしなかった。所帯を持って夫の責任なんか持ちたくもなかったし、自分に似た子供なんか欲しくなかった。世の中の結婚と言う行為が理解できなかった。生活はむしろ前にも増して荒んで行った。競馬、麻雀、酒、女。低賃金の上、自堕落な生活で借金はさらに膨らんで行った。やはり自分には父と同じ血が流れていると自嘲した。
露子は一度だけ賭け事は止めてもらえないかと萩原に懇願した。しかし萩原は露子を殴る、蹴ると強かにいたぶった。それでも露子は萩原の心の奥にある優しさを信じて必死に堪えた。「この人はいつかまともになってくれる」そう自分に言い聞かせていた。露子はいつも穏やかで萩原が期待するような醜い面を見せることもなく、どこまでも従順でどこまでも柔和だった。
露子はガラス工場の職場を萩原と同棲している手前居辛くなって辞めてしまった。少しでも家計の足しになるよう家の近くの小さなスーパーのレジ係りに就いて何とか二人の生活を支えた。そして同棲し始めて十年の月日が経っていた。
萩原は営業のため朝から工場の車で松江に向かった。十五年落ちの走行距離十五万キロの国産バンタイプの車はサスペンションもいかれ乗り心地は最悪。クーラーも効かず汗まみれになりながら山道を下り四時間かけて松江の街に着いた。
街中の得意先に何か所か挨拶に行った後、パンフレットを片手にスーパーや小売店へセールスに廻った。だがどこへ行っても色良い返事はもらえなかった。飛び込みで新規の客を獲得できることなど滅多になかった。萩原には生きる気力も働く意欲も残っていなかった。松江駅のロータリーに車を停め涼もうと外に出た。しかし太陽が照り付けアスファルトが溶けそうだった。ぴったりと汗で張り付くワイシャツや革靴の中の蒸れが萩原を余計苛つかせた。
そんなうんざりしていた時に前から身なりのいい同年輩の男性が声を掛けて来た。
「おい、萩原じゃないか?」
「えっ?」
「俺だよ、伊藤だよ」
大学時代、良く一緒に飲み歩いた親友だった。
「……ああ、伊藤か。懐かしいな」
萩原はいかにも値の張りそうな伊藤のスーツを見て自分の疲れ切ったスーツが恥ずかしかった。
「そうか、お前、確か島根の出身だったな」
伊藤の表情は生き生きしていた。
「ああ……お前はこんな所で何してんだ?」
「俺は今日は東京から出張だ。お前も知っての通り親父の会社で何とかやってるよ」
「じゃあ社長か?」
「ああ、まあな。お前は今何してるんだ?」
「田舎のガラス工場に勤めているよ。今日はこの松江で営業さ」
「で、その工場は上手く行ってるのか?」
「社長だけがいい思いしてるよ。社員はみんな薄給で働いてるよ」
「お前みたいに優秀だった奴がそんな所に埋もれてるなんて勿体ないな」
「分相応だよ」萩原は吐き捨てる様に行った。
「やけに捨て鉢だな……どうだ、今夜一杯飲まないか?」
「そうだな。明日の夕方までに会社に戻ればいいから……そうするか」
「じゃ、今夜は俺の会社が契約しているホテルがあるからそこに泊まってくれ」
「いいのか?」
「遠慮するなよ。取り合えずホテルに行こう!」
「ああ、じゃあ、悪いがこのボロ車で一緒に行こう」
伊藤は松江の街の中心地のホテルまでの道案内をしてくれた。ホテルの駐車場に車を停めてチェックインして隣り合わせの部屋にそれぞれ入って行った。萩原は昼間の汗をシャワーですっかり落としてやっと一息吐いた。隣の伊藤の部屋のドアをノックしたが返事がなく、また部屋に戻ろうとすると伊藤が出て来た。
「すまない、今、電話を掛けていたんだ。それじゃ行こうか」
二人は松江の飲食店が三百軒程ある繁華街、伊勢宮町に繰り出し、落ち着けそうなこじんまりした居酒屋の暖簾を潜った。
萩原は大学の時と何一つ変わらぬ生き生きとした伊藤を見て最初は嫉妬を憶えていたが、酔いが廻るに連れ青春時代の思い出話に花が咲いた。乾いた喉にビールも旨かった。 伊藤は裕福な家庭のせいもあっていつも学生に似つかわしくない大金を持っていた。金の掛かる派手な遊び場所にいつも萩原を連れて行こうとしたがその度に奢られることに引け目を感じて伊藤の誘いを断っていた。
しかし伊藤は「どうせ親の金だ。お前もこの金を使うのを手伝ってくれ」と言って強引に萩原を引っ張り廻した。次第に伊藤の好意に甘えるようになった。伊藤も萩原を遊び場所に連れて行くと萩原の容姿のおかげで女性にありつけることができた。そして軟派に成功すると二人は学生の身でありながらホテルに女性を連れ込み朝まで遊びまくっていた。その時の破天荒な学生生活が今ではお互い懐かしく、女の話、酒の話、麻雀の話に花が咲き飲み捲った。
二時間程して二軒目は古いビルの二階にあるカウンターバーの店に入った。カウンターには痩せぎすの初老の男が立っている。二人はウィスキーの水割りを注文した。
伊藤は自分の近況を話し始めた。父荘太郎と母恵美子は健在、妹の万里子も結婚もせず未だ独身、伊藤本人は十年前に母が持って来た見合い相手と結婚してやがて二人の子供が生まれ、世田谷の屋敷で暮らしていると言う。 伊藤は今では女性関係もすっかり大人しくなり、息抜きと言えばたまに銀座のクラブで酒を飲む程度だった。
「なあ、萩原、お前、急に大学辞めちゃっただろ?心配してたんだぜ。と言っても連絡はしなかったけどな」
伊藤のグラスを呷る腕には高級腕時計が巻かれていた。多分百万ぐらいはするだろうと萩原は横目で値踏みしていた。
「そうか、まあ心配してくれてありがとう」
「なあ、お前、結婚しているのか?」
伊藤は唐突に聞いた。
「ああ…一緒に住んでいる女がいる。だけど結婚はしていない」
「そうか、お前、俺の妹、覚えているか?」
「ああ…何度かお前のあの豪邸に遊びに行った時、会ったことがあるな」
「うん、あいつ、兄の俺から見ても美人なんだが、気が強くて我が儘で中々結婚できなくてね。兄としても悩みの種なんだ」
「そうか……お前も結構、妹思いなんだな」
「まあな。それでうちの妹、お前、どう思う?」
「どう思うって、随分昔に会っただけだし、あの頃はまだ小学校の五、六年生だろう?確かに可愛らしい子で俺に懐いてたけどな」
萩原は興味無さげに答えた。
「いや、お前は美男子だし、お前なら妹も言うことを聞くかなと思ってね。一度お前、妹に会ってくれないかな?」
「いや、遠慮しておくよ」
「お前も分らない奴だな」
伊藤は少し苛立って言った。
「なんで俺がお前の妹に会わなきゃならないんだ?」
萩原もむきになった。
「じゃ、単刀直入に言おう!俺の妹と結婚する気はないか?」
「お前の妹と?」
「そうだ。お前と俺の妹だ」
「よせよ。俺はもう四十だぞ」
「うちの妹ももう三十だ。四十男と三十女じゃそれ程おかしくもないだろう。十歳ぐらい歳の離れている夫婦なんか世の中ざらだ」
「しかしなあ……」
萩原は意外だった。旧知の友とは言え二十年振りに会っていきなり妹の縁談を持ち出されるとは思っても見なかった。
「あのな、お前が今の女と別れて俺の妹と結婚してくれればお前は伊藤家の一員になる。どう言う意味か分かるか?」
「お前の会社に入れるのか?」
「そんなこと当たり前だろ。お前は大学でも優秀だったんだから、直ぐにでも役員に推してやるよ。そして会社で俺のサポートをしてくれ。俺が困っていたら助けてくれ。それが条件だ。そうすれば住む所、着る物、食べる物、何不自由なく全てが高級品で囲まれる生活になる。悪い話じゃないだろう?」
萩原は突然転がり込んだチャンスを前に喉が鳴ったが即答はできなかった。露子をいくら冷たくあしらおうと萩原にも多少の良心は残っていた。今までの辛い貧乏生活でも萩原を十年間も支えてくれ何とかやり繰りしてくれた露子には心の底では申し訳なく思っていた。
「伊藤、すまないがもう少し考えさせてくれないか?」
「いや、俺の方が急にこんな話を持ち出してすまなかった。しかし今日、会ったのも何かの縁だ。まあ考えておいてくれ。だけどあんまり待たせるなよ」
「ああ、なるべく早く返事するよ」
この夜、二人は深夜遅くまで飲んでいたが、萩原は露子のことを考えると素直に酔えなくなっていた。それからは飲めば飲む程気持ちが暗くなって行った。
翌朝、伊藤の部屋に内線を掛けても通じず、フロントに電話すると伊藤は朝早くホテルを出て東京に戻ったようだった。
萩原はセールスもせず松江県庁の直ぐ近くにあるお城のベンチでコンビニ弁当を食べながら昨日の伊藤の話を考えていた。素面になって考えれば考える程、話が上手過ぎる気がする。しかし萩原にはこんな好機は二度とやって来ないだろうと思えた。そして弁当を食べ終え烏龍茶を一気に飲み干すとまた会社のボロ車に乗って飯石の山に戻って行った。