紫陽花が濡れそぼる頃 32(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 32(オヤジの小説・全33話)

 由起は翌日も病院にやって来た。ハンカチで額を押さえながら病室に入って来た。外は雲一つなく猛暑のようだった。空調の完備された病院内では外の温度も湿度も分からなかった。今朝警察から自宅に連絡があって由起は小河原にその内容を早く伝えようと慌てて病院にやって来た。小河原のベッドの脇にあるパイプ椅子に座り、息を切らしながら自分のバッグの中からペットボトルのお茶を取り出し一口飲んだ。ようやく息切れが収まり和也の近況を話し始めた。
 和也はあれから警察に連行され取り調べを受けた。罪状は現住建造物等放火罪。由起は小さなメモ用紙を見ながら小河原に伝えた。放火は殺人罪に匹敵する程重罪であるが、和也の場合、十四歳以下だったこと、殺人が目的ではなかったこと等の理由により情状酌量が適用された。もし十四歳以上なら死刑判決がないだけの重罪だった。十八歳以上なら死刑、無期懲役、五年以上の懲役刑に処せられるらしい。小河原は和也が十四歳以下で救われた思いがした。警察は直ぐに児童相談所に通告して和也は相談所で一時保護されているようだった。和也との面会を希望したが、警察は児童相談所に直接連絡するよう由起に指示した。由起は児童相談所の場所と連絡先を警察から教えてもらい、早速、児童相談所に連絡した。電話口には児童援護担当と名乗る職員が出た。和也の母だと由起が告げると本人はまだ精神的に不安定で、心理療法を受けさせているからもう少し落ち着くまで待てと言われたらしい。取合えず二人共、相談所からの連絡を待つしかなかった。
 一通り話すと落ち着いたのか由起は洗濯物を持って大人しく帰って行った。咲知に電話してみた。呼び出し音はするが咲知は携帯に出なかった。どうせ明後日には咲知のマンションに帰れるのだからと自分に言い聞かせてそれから連絡を取らずに放っておいた。
 
 一週間後にもう一度抜糸のため来院するように医者から言われ、予定通りに小河原は昼までに退院することができた。まだ傷口が開く恐れもあるからと看護婦から松葉杖を渡された。今日も外は強烈な熱暑で足に巻いた包帯の中が蒸れていた。小河原は咲知に会いたくて逸る気持ちを抑え電車の座席から流れる街の景色を眺めていた。
 中年の男が近付いて「課長、お久しぶりです」と声を掛けて来た。男は課長補佐の鈴木だった。脚の包帯を見て「どうしたんですか?」と尋ねて来たが詳細を説明するのも躊躇して「うん、まあ、ちょっとね」と答えておいた。逆に鈴木に元気かどうか尋ねると会社は一ヶ月前に倒産したと聞かされた。発端は小河原を忌み嫌っていたあの吉崎と言う営業部長が会社の金を横領していたことだった。社長は警察沙汰にはしなかったが部長を馘にした。部長に任せきりだった会社の経営を社長は続ける意志がなく計画倒産したのだと言う。社長だけが自分の金を残し社員たちは路頭に迷ってしまったらしい。小河原は社員たちに同情もしなかった。胸がすく想いもなかった。ただ別世界の出来事のように思えた。鈴木は今日も会社の面接に行く所だと言う。うな垂れる鈴木に「人生悪いことばかり続かないよ」と言って慰めた。鈴木は力なく微笑んでから頭を下げ次の駅で降りて行った。
 巣鴨について地蔵通りを歩くといつものように人通りが多かった。通りから右に折れ裏道に入り咲知のマンションに辿り着いた。
 三階の咲知の部屋のドアチャイムのボタンを押した。中から呼び出し音が聞こえるが、咲知の返事はなかった。何回かチャイムを鳴らしたが人の気配がなかった。買い物にでも出掛けていると思い小河原は合鍵でドアを開けた。部屋のむっとした熱気が小河原の顔を撫でた。玄関は靴も傘も見当たらず綺麗に片付けられていると思いながら居間へと進んだが、そこには電化製品もソファもベッドも食器棚も座卓も何もなく藻抜けの空だった。フローリングのフロアの中央に小河原の旅行バッグがあった。その上には小河原様と書かれた封筒とマンションの契約書と鍵が乗っていた。バッグを開くと小河原の衣料、咲知と買った食器、買い溜めた本、ひげ剃りや歯ブラシなど日用品が纏められていた。床に胡座をかいて封筒を開くと一枚の便箋が出て来た。

 退院おめでとう。
 実はあなたが入院した翌日に妹から電話があって父が癌で急に倒れたことを聞かされました。今はまだ命に別状ありませんが妹一人では看病も大変そうで私は父と妹のためにも福岡に帰ります。父は私が帰ることにいい顔はしないでしょうが父のそばにいて困らせながら看病してあげようと思います。
 このマンションも来月末には出て行かないといけないのですからちょうどいいタイミングだったと思います。
 それよりも今回の息子さんの一件はあなたと私の同棲が原因だとしか考えられません。
もしあなたが離婚しなければ、もしあなたがご自宅から出て行かなければ、もし私と同棲していなければ息子さんはあんなことをしなかったと思います。
 黙って出て行ってしまってごめんなさい。でもこれが私には最善の道だと思います。そして息子さんのためにももう一度ご自宅に戻ってあげてください。短い間でしたがあなたと暮らしたここ二ヶ月間本当に楽しかったです。ありがとう。
 一度も言わなかった言葉、言わせてください。
 愛しています。
                              咲知

 小河原は咲知が由起に、和也に、責任を感じていることは薄々分かっていた。
 何かトラブルがあると直ぐに自分のせいだと決め込む。それが彼女の子供の頃からの悪い癖だった。まともな体で生まれて来なかった劣等感と罪悪感に苛まれ、息を殺して生きて来た咲知の存在そのものが知らぬ間に他人を傷付けてしまう。そんな経験を何度も繰り返して来たから自分さえいなくなれば他人は幸福になると信じている。咲知のマンションに押し掛け、同棲を強要したのは小河原自身なのにそれでも咲知は自分の責任だと思ってしまう。もっと自分の幸せだけを考えて貪欲に生きて行けばいいのに。つくづく哀れな女だと思った。ただ「愛しています」の一言が小河原を救ってくれた。咲知と暮らした時間が無駄ではなかったと思えた。
 澱んだ空気を入れ替えるため部屋の窓を開けた。雲一つない青い空が目の前に広がって地蔵尊に訪れた参拝客の声とどこで鳴いているのだろうか一匹の蝉の鳴き声が聞こえる。ふとベランダの隅に目をやると色褪せた紫陽花が残っていた。咲知は紫陽花に気が付かなかったのだろうか、それとも捨てて行ってしまったのだろうか──。このままこのマンションに住み着こうか、それとも福岡まで追い掛けようか、色々考えたがどちらも間違っている気がした。今は和也の側にいて、堪える時だ。人生悪いことばかり続かないだろう──。
 
 今夜は店に出勤しようと思った。バーテンダースクールも一週間休んでしまった。咲知がいなくともいつもの通りの生活に戻ろうと努力した。それで咲知のいない寂しさを紛らわせると思った。
 バーテンダースクールの講師は一週間も休んでいた小河原を心配していた。授業が終わって帰り際に「本気でバーテンダーになるなら幾らでも相談に乗るよ」と講師から暖かい助言をもらった。
 お店ではママもホステスたちも咲知が帰郷したことを知っていた。世話になったと咲知が二日前に挨拶に来たようだ。オカマたちも皆、小河原に同情的だった。
「オガちゃん、気を落とさないでね」「お父さんが良くなったらまた帰って来るよ」「オガちゃん、頑張るのよ」「ねえ、私が同棲してあげようか」小河原は今では自分に大勢の仲間がいることに気が付いた。会社員だった数ヶ月前まで社内に仲間と思えるような人間は一人もいなかったが今では僅か二ヶ月で小河原には沢山の仲間がいた。小河原はオカマたちに感謝した。明け方、店を閉じ咲知のマンションに戻った。咲知と二人で辿った帰路を一人で歩く、咲知と笑い語り合った電車に一人で乗る。咲知の部屋に帰っても何もないがらんとした部屋の風景が小河原には色褪せた紫陽花のように映った。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。