紫陽花が濡れそぼる頃 31(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 31(オヤジの小説・全33話)

 昼間の強烈な日差しがいつの間にか厚い雲に覆われ風向きが変わり肌寒ささえ感じた。陽が落ちて二丁目の街にネオンが灯り始めると疎らに性別の分からない人たちが往来し始めた。シャッターを上げ地下に通じる階段を下り重い扉を開けると黴の匂いが鼻を突いた。フロアの明かりを点け、いつものように準備を始めた。冷蔵庫の中を覗くとお通しの惣菜が少ないことに気付き、近くのスーパーに買い出しに出掛けた。店に戻りフロアとトイレの掃除が終わる頃に酒屋とおしぼり業者が配達にやって来た。おしぼりはタオルウォーマーに入れビールは冷蔵庫に入れた。それからグラス一つ一つに磨きをかける。一通りの準備が終わってサンドイッチと牛乳で腹拵えする。最後に表の電飾看板を点ければ開店の合図となる。路地の間に置いた看板を店の前に出し点灯。小河原は首筋に雨粒を感じ空を見上げた。大雨に変りそうな予感がした。携帯が鳴る。ディスプレイに「由起」の文字が流れている。急に胃の辺りに重い痛みを感じ食べたサンドイッチが喉元まで迫り上がって来た。
「今度は一体何の用ですか?」冷たく感情を抑えて由起に言った。
「和也が今暴れてるの……あなた、お願い、助けて……」
 あの気丈な由起が狼狽した声で小河原に助けを求めている。由起と結婚して初めてのことだった。いつもと勝手の違う由起の口調に小河原は戸惑った。
「何で暴れてるんだ?」
「私がちょっと叱ったからだと思う。お願い、早く来てちょうだい」
 また由起の奸計かと疑いもしたが声の調子は真に迫っていた。
「分かった。今からそっちに行く。多分一時間は掛かるからご両親に先に来てもらったら?」
「もうお父さんとお母さんにも来てもらってるんだけど手が付けられないのよ」
 電話の奥で何かが壊れている音、和也の喚き叫ぶ声が聞こえた。
「分かった。直ぐ行く」
 電話を切るとちょうどそこに咲知が現れた。
「今から清瀬に行く。訳は後で話すよ」
 エプロンをその場で手渡し心配顔の咲知を残して小河原は三丁目の駅に向かって走った。池袋まで出て西武線で清瀬まで約四十分、駅から歩いて十分は掛かる。電車の中では焦る気持ちを抑えてじっと堪えていた。長い道程に感じた。清瀬にようやく着くと駅からタクシーに乗った。外はまだ小雨がぱらついていた。
 玄関のドアを開け「由起」と叫ぶと「ここよ」と声がして居間に向かった。一階の居間の窓ガラスは全て割られて食器棚、椅子、テーブルの木屑が散乱して部屋の隅で由起と両親が呆然として床にへたり込んでいた。彼らの側には金属製のバットが転がっていたが誰も怪我はしていないようだった。
「和也は?」と由起に訊くと「自分の部屋」と震えながら答えた。小河原は二階に上がり和也の部屋のドアを叩いた。
「和也!どうしたんだ?何でこんなことしたんだ?」
 部屋の中からまた物を壊す音がし始めた。
「うるさい。お前なんか親父じゃねえ!」和也の怒鳴り散らす声がした。
「和也、頼む。お父さんと話しをしよう。ここを開けてくれ」
「お前は家を出て行ったんだろ?いつもおふくろに頭が上がらないダメ親爺じゃないか?それが俺に何を話すって言うんだ?」
「和也、父さんが悪かった。お前とどう向き合っていいか分からなかったんだ。これからもっとお互い話し合おう!」
 遠くからサイレンの音が聞こえた。近所の誰かが通報したのかもしれない。警察が来る前に和也を説得して何もなかったように済ませたかった。
「和也、ここを開けてくれ」
 部屋のドアがいきなり開いて小河原は弾き飛ばされた。和也が階段を下りて玄関からベランダに出た。ベランダと居間の間は窓ガラスが飛び散っていた。
 和也はデッキの上にあった小さなスチール製の物置の戸を開け中から灯油の入った赤いポリ容器を出した。そしてウッドデッキの上に灯油を撒き散らし灯油の匂いが辺り一面に立ち籠めた。和也はポケットの中からマッチを取り出し火を点けた。
「畜生!こんな家、燃えちまえ!」和也が叫んだ。
 小河原は和也の後を追い、居間からベランダに出て止めようとしたが足の裏にガラスが刺さって前のめりに転倒した。マッチがウッドデッキに落ち一瞬にして炎が燃え広がった。由起が両親を立たせようとしている。二人とも腰を抜かして動けないようだった。小河原は突き刺さったガラスを指で摘んで引き抜いた。まだ小さな破片が残っていて立ち上がるとまた痛みが走った。和也は炎を見て笑っていた。このままでは和也の体に火が点きそうで小河原は和也の両腕を掴んでデッキから庭に連れ出した。和也を庭の一番隅に残してもう一度庭から玄関へ廻った。由起の両親二人を同時に連れ出すのは不可能に思われたが、火事場の馬鹿力か二人を両脇で抱え上げることができた。両腕がギシギシと悲鳴を上げて額からは汗が流れ落ちた。やっとの思いで表に出ることができた。由起はその後を付いて来た。
 ウッドデッキの炎がガラスの割れた窓から入ってカーテンに引火し始めた。小河原は家の中に戻って台所にあった消化器で火を食い止めようとした。消化器の液はあっという間になくなり何とか一時的に防いだもののこのままでは隣の家まで飛び火しかねなかった。ウッドデッキはぱちぱちと音を立て勢い良く燃え上がっていた。プラスチック製の物干竿も溶け出して異臭がしている。和也がまだ小さい頃に遊んだ木製のブランコも燃えている。煉瓦で作ったバーベキューコンロが崩れ出している。ウッドデッキの側面のモルタルの壁が炎に炙られ黒い煤が付き始めている。小河原はこの家が全焼してしまうと思った。庭に蛇口が一つあったが散水用のホースはデッキの物置の筈だった。とても物置に近付けそうになかった。ただ見守るしかなかった。
 その時、小雨が大粒の雨に変り土砂降りになった。火の勢いは弱まったものの消し去る程の雨量ではなかった。だが延焼を辛うじて食い止めているように見えた。正に神の恵みに思えた。ちょうどその時消防車が二台、救急車が一台、パトカーが二台、到着し、消防員が放水し始め、あっという間に鎮火した。
 気が付くと家の周りに近所の住人たちが集まっていた。小河原は暫く放心していた。
 ウッドデッキは殆ど燃え落ちて壁は黒い煤が屋根にまで長く伸びていた。居間は水浸しで散乱していたが他の部屋と二階は無事だった。怪我人もなく近所を巻き込むこともなく小河原は胸を撫で下ろした。
 現場の事情聴取で由起が警官に原因を説明した。学校にも塾にも行かなくなった和也に学校だけは通学しなさいと由起が叱ると和也は急に暴れ始めたと言う。警察は悪質な放火と親の虐待の可能性があると判断したらしく児童相談所に通報すると小河原と由起に伝えた。警察は和也を連行してパトカーの後部座席に座らせた。由起が警察官に縋って和也を連れて行かないでくれと哀願していた。和也を乗せたパトカーと消防車が走り去り由起の両親も放心状態のままタクシーで帰って行った。小河原の足は泥と血で汚れていた。救急隊員が救急車の中で足の応急処置をしてくれた。由起が救急車に同乗しようとしたが小河原は警察か児童相談所から連絡があるかもしれないからと家にいるように諭した。
 和也はどうしてあんな風になってしまったのだろう。離婚が原因だったのか──。
 
 ブラインドから漏れる光が眩しくて目を覚ました。他に三人の患者がいる大部屋だった。看護婦が回診に来て患部の手当をしてくれた。ここはどこかと訊くと清瀬の医療センターだと教えてくれた。傷口が深いからもう三日程安静にしているように言われた。咲知が心配しているだろうと気になり看護婦に電話を掛けたいと話すと奥のラウンジで携帯電話を使えると教えられた。車いすを用意されそれに乗ってラウンジに向かった。
 小河原は咲知に電話して昨夜あったことを話した。和也が暴力を振るい挙げ句にベランダに放火したこと。あわや大火事になる所を消防車が来て消火してくれたこと。和也が警察に連行されたこと。咲知は小河原の話しを黙って聞いて最後に「そう」とだけ言った。何を考えているか分からなかったが咲知が言葉少ない時はきっと悪い風に考えている時が多かった。少し不安になった。
「咲知さん、あなたのせいではないから。余計な心配はしないで」
「ええ、分かりました……」
「それよりできたら三日分の着替えがあると助かるんだけど」
 咲知がこれ以上考え込まないように話題を切り替えた。
「じゃ、これから持って行ってあげる」
 咲知に病院の場所を教えると二時間後には着くだろうと言って携帯が切れた。ベッドに戻ると昼食が出された。どれも塩分の少ない料理で食欲もなく半分程で食べて残してしまった。昼食が終わるともう何もすることがなく外の景色を見ていた。この病院は自宅に近く以前から知ってはいたが治療を受けたのも入院したのも初めてだった。広い敷地の中に大きな病棟があって自然に囲まれた環境の良い病院だった。一気に真夏になってしまった日差しは木々の葉や木立の下に深い影を落としていた。空はどこまでも高く白く大きな入道雲が浮かんでいた。
「はい、着替え持って来たわ」
「ありがとう。随分早かったね」
 振り向くとそこには咲知ではなく由起が立っていた。息が止まった。
「あら、そんなに吃驚してどうしたの?……」 
 由起は一時間程、甲斐甲斐しく小河原の身の廻りの世話をしてくれた。買って来た林檎を剝いて皿に切り分けてくれた。こんなことは何年ぶりだろうか──。しかしそろそろ咲知が来る頃だと心配になった。
「和也がお父さんを金属バットで殴ろうとしたんだけど、お父さん、腰を抜かして何もできなかったの。あんなにいつも男らしいこと言ってたのに……何だかがっかりしたわ。でもこんなことになったのは全部私のせいね」
 そんなことがあったのかと小河原は由起の父が怯えていた理由が何となく分かった。
「いや、俺たちが自分ことしか考えないで勝手に離婚したせいじゃないか?」
「そうね……あの子の気持ちを何も考えなかった。あの家が嫌いだったのね。和也がベランダに火を点けた時〝こんな家なんか燃えてしまえ〟って言ってた」
 由起が涙ぐんで言った。
「何も感じていないと思っていたがあいつも辛かったんだろうな」
「ごめんなさいね。こんなことになったのはやっぱり私のせいだわ。それにあなたに色々酷いことしてごめんなさい。謝って済むものじゃないのは分かってるけど……」
 由起から頭を下げられ小河原は困惑した。こんなに素直な由起を見たのは初めてだった。自分の中の何かが溶けて行くのが分かった。
「家が水浸しで滅茶苦茶だろう。もう私のことはいいから……」そう言うと「分かった。また明日来るわ」由起は素直に帰ったがそれからも咲知は現れなかった。
 一時間程して看護婦が紙袋を持って来た。包みの中を見ると小河原の下着だった。看護婦に言付けて咲知が置いて行ったらしい。咲知が見舞いに来た時、由起が病室にいたのかもしれない。それを影で見て咲知は黙って帰って行ったのかもしれない──。小河原はラウンジに行ってまた咲知の携帯に電話した。三、四回の呼び出しで咲知が携帯に出た。
「あ、ごめんね。病院に行ったんだけど急用ができたものだから看護婦さんに預けて戻って来ちゃったの」
「急用って何?」
「急用は急用。どうでもいいでしょ……それよりいつ退院できるの?」
「三日後には帰れるよ」
「じゃ、待ってるね」咲知の明るい声が小河原の気持ちを和らげた。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。