紫陽花が濡れそぼる頃 29(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 29(オヤジの小説・全33話)

2021年9月5日

 小河原の隣で咲知がまだ寝息を立てていた。カーテンの隙間から外の様子を覗くと雲一つなく梅雨が明けたのかと思う程青空が広がっていた。壁時計の針は十二時を指していた。昨夜はマンションに戻れたのは朝六時頃で七時にはベッドに潜り込んだのだが由起の電話のおかげで眠りに付けたのは八時頃だった。それでも睡眠が浅く、夢の中で由起の恨めしそうな顔にうなされて目が覚めてしまった。この先、由起のどんな仕打ちが待ち構えているのかと思うと当分嫌な夢を見そうな気がした。いっそ誰にも知らせず咲知と二人で人目の付かない場所に逃げてしまいたかった。北海道の突端か、名前もないような離れ小島か、いや、由起は執念深い。日本国内では逃げ仰せないかもしれない。アフリカとか南米辺りはどうだろう。いや、どうも埃っぽい所は苦手だ。ヨーロッパ辺りならどうだろう。美しい田園風景に囲まれて咲知と静かに暮らせれば幸せだろう。しかし何をやって食べて行けばいいのだろう。ヨーロッパでバーテンダーになれるだろうか。語学だって得意ではない──。小河原は取り止めもない想像をしていた。
 咲知は午後一時半頃に目を覚まし、すでに小河原は昼食の用意を済ませていた。咲知はいつも寝覚めが良かったがこの日はいつまでもベッドから抜け出せないようだった。眠そうな目を擦り独り言のように呟いた。
「私、やっぱり手術しようかな」
「えっ?」
「性適合手術をするって言ったの」
「何で?」
「ちゃんとした女性になれば妹に迷惑が掛からないかもしれないし、お父さんだって諦めて許してくれるかもしれない」
「でも体に悪いんでしょ?」小河原は咲知の横たわるベッドの端に座った。
「体がおかしくなって動けなくなってもあなたが一緒にいてくれるんならそれでもいいかなって…」
「それは相談?それとも事後報告?」
「相談が半分、事後報告が半分。あなた、これからも私と一緒にいてくれる?」
「勿論。この先何があってもずっと一緒だよ」
「あなた、私の体が女性になると嬉しいみたいね」
「いや、咲知は咲知だよ。何をしようが君は変らない。僕はどっちでもいいんだよ」
「あなたって本当に嘘が下手ね」
 咲知に全て見透かされていた。咲知の戸籍が「長男」から「長女」に改変されれば結婚もできる。何より今まで妙にお互い気を遣い合っていた営みも男女の自然な行為になるだろう──。咲知は体を張って家族のため小河原のために施術の決意をしている。この先何があっても一緒だという言葉に嘘はなかった。
「でもあなたのためだけじゃないの。私も男の体で死ぬより女の体で死にたいの。たった一度の人生だものね」
 この言葉は咲知の本心だと思った。男に間違って生まれた咲知の体。ほんの僅かな神の手違いとしか言いようがない。些細な人体のメカニズムの誤差がその人間の人生を狂わせ重い十字架を一生背負って生きて行くことになる。それが軌道修正できるのなら性適合手術を誰が非難できようか。自然の力が犯した過ちを人為によって治癒できるのなら神も仏も許す気がする。小河原は性適合手術は人道的に認められるべきものだと思った。

 咲知と昼食を取り終え小河原はバーテンダースクールへ通学する支度をしていた。玄関のチャイムが鳴った。覗き穴を見ると中年のサラリーマン風の男が立っていた。小河原は内側から尋ねた。「どちら様ですか?」「ここの部屋を扱っている不動産会社ですが」と返事があった。
「はい、お待ちください」
 小河原がそう言うと咲知が後ろからやって来てその男の相手をした。
「どう言った御用でしょうか?」
「私はここの部屋の家主さんと立花さんの間に立って仲介している者ですが……」
 草臥れた風貌の中年の男は草臥れた名刺を咲知に手渡しながらまた話し始めた。
「実はですね、家主さんにこんな手紙が届きまして……」
 次にその男は縒れた古い鞄から封筒を取り出し咲知に手渡した。咲知は封筒の中からパソコンで打たれた文字が並ぶ便箋を読み始めた。

 拝啓、オーナー様。
 突然お手紙を差し上げる失礼をどうぞお許しください。
 私は立花様と同じマンションに住む者です。また匿名にて失礼させて頂きます。
 実はこのマンションにお住みになっている方たちの噂ですが立花様は男性でありながら女性の格好をして毎晩新宿の風俗店に勤められていると耳にしております。
 それから最近、立花様と一緒に住まわれている中年の男性の方をたまにお見かけします。私は詳しく存じませんが、このような方たちを同性愛者またはゲイと呼ぶのでしょうか。オーナー様は立花様が女性だと勘違いされたのかそれとも男性とお分かりの上、入居を許されたのかそれを問う気はございません。
 ただこのマンションはルームシェアを禁止しているはずですし、素性の分からない男性が出入りするようなマンションは怖くてたまりません。風俗店は暴力団とつながっているという話しを聞いたこともあります。近所に住む私共が何かのトラブルに巻き込まれないとも限りません。それから私には幼い子供がおります。同じマンションにこのような方がいらっしゃるのは子供の教育上にも良くないと考えております。
 誠に申し上げ難いのですが立花様とその同居している男性の方と同じマンションに私は暮らしたくはございません。
 もしご一考いただけないのであればこのマンションの自治会で議題に取り上げ居住反対運動を起こす覚悟です。
 できれば私も大袈裟にはしたくありません。どうぞ宜しくご鞭撻ください。
                                  敬具

「その手紙はここの家主さんに直接届いたもので家主さんも困ってうちに相談して来たんですよ。うちも大家さんも立花さんが男性だと承知した上でご契約しましたが風俗にお勤めでしかも他の方と同居されているとなると、ちょっと問題で……なによりご近所からこう言うクレームが出ると厄介でね。大家さんにまで迷惑が掛かるんですよ。なんでこんなのに貸したんだって…おっと、失礼…まあ、できたら問題が大きくならないうちにお引っ越しして頂ければ助かるんですが……勿論、来月いっぱいまでいらして結構です。それに来月までの家賃も頂きませんので……」
 不動産会社の中年の男は早口で捲し立て早く話しを切り上げようとする魂胆が見え見えだった。
「急にこんなことを言われても私の方が困ります。こんな手紙がお宅に届いただけで何で私が出て行かなければならないんですか?」咲知は冷静に中年の男に向かって言った。
「いえ、出て行けとかそんな無理を言っているんじゃなくてできたらお引っ越しして頂ければと申し上げている次第で……」
 男は困惑した表情でポケットから皺だらけのハンカチを取り出し額を拭いながら弁解した。
「私がオカマだから、風俗店で働いているから出て行って欲しいと言うことですよね。そう言う理由で追い出すことができるんですか?法的に人権的に許されることなんですか?」
 咲知は淡々としかし厳しい表情で男に詰問した。
「いや、だからね、こちらも事を荒立てたくないんですよ。今月、来月の家賃は頂きませんし、一ヶ月以上猶予があるんですからどこにでも引っ越せるでしょう?敷金も殆どお返ししますよ。そのお金で他の不動産会社と契約もできるでしょう。お願いですから明け渡して頂けませんかね」
「引っ越す気はありません。お帰りください」咲知は徐にドアを閉めた。咲知の手の中にには握り潰された手紙が残っていた。小河原はその丸まった手紙の皺を伸ばして取って読んだ。咲知はソファで身じろぎ一つせずじっと座っていた。手紙の内容から女性の手紙だと推測できた。同性愛者だ、風俗のオカマだ、とこんな苦情が今の日本でまかり通るとは思えなかった。ゲイであろうとレズビアンであろうとこれは人権問題であり差別であり到底明け渡し事由になり得る筈がなかった。しかも同居している小河原がさも暴力団員かのように受け取れる書き方だ。それにしてもこの賃貸マンションに自治会なんかあっただろうかと疑問に思った。小河原は直感した。この手紙の主は由起に違いないと。これは由起の嫌がらせだ。きっと由起の復讐に違いない──。
「引っ越すしかないわね」咲知がぽつりと言った。
「僕は引っ越したくないね」小河原は激しい憤りを感じていた。
「でもこんな風にご近所に思われながらずっとここに住みたいとは思わないわ。ゲイでもレズビアンでもなんでもオッケーみたいな所に引っ越した方が気が楽でしょ?」
「でもまた同じような嫌がらせがあるかもしれない」小河原は顔をしかめて言った。
「嫌がらせ?誰かが私たちの後を付け狙って嫌がらせするって言うの?」
「ああ」手紙を座卓に置き正座した。
「誰?…………もしかして奥さん?」咲知は怪訝な表情になった。
「ああ、もしかしたら」
「何か思い当たるの?」
「言い難いんだけど、妹さんの相手の両親に咲知のことを知らせたのも由起かもしれない。ごめん」
 小河原は咲知に告白し心の底から詫びた。咲知の妹の結婚を全く無関係な由起が逆恨みで壊したのだから謝っても許されるものではない。少し沈黙があって咲知はそれでも由起の仕業だとは思いたくないのか「でも証拠は何もないんでしょ?」悲しそうな声で言った。
「証拠はないがあり得るよ。由起ならやりかねない。必ず僕らの仲を壊してやるって言ってたから」
「そう……もしこれがあなたの奥さんお仕業でも私のせいだから何も言えない」
「いや、咲知さんのせいじゃないよ」
「でもここは引っ越した方がいいわ。奥さんの知らない所に引っ越しましょう。私も手術して戸籍を変えれば誰も文句は言えないでしょう」
 咲知はそう言ったが小河原は由起から逃げ切れる自信がなかった。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。