紫陽花が濡れそぼる頃 26(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 26(オヤジの小説・全33話)

静寂な一時を掻き消すようにドアのチャイムが鳴った。小河原は立ち上がりドアの覗き穴から外の様子を見ると年老いた男が立っていた。新聞の勧誘員には見えなかった。小河原が「どちらさまですか?」とドア越しで尋ねると「まさちかはいるのか?」とドスの利いた声が返って来た。咲知がベッドから飛び跳ねるように起き上がり小河原を押し退け覗き穴から外を見た。

「お父さん!」

 咲知は青ざめた顔をして呻くように言った。鍵を開けチェーンを外してドアを開けた。

「お父さん、どげんしたと?」

 咲知の父は小河原を不審げに睨み付けた。

「お前に話しばしに来た」

「来るんやったら電話くれればよかとにい」

「お前の電話番号とか知らん!」咲知の父は憮然として言った。

「久美に訊けばよかやん。ここの住所だって久美に訊いたんやろうもん?電話ぐらいせんねえ……兎に角上がってくれん」

 咲知の父は三和土から床に上がって座卓のあるラグの上にどっかりと胡座をかいて座った。その正面に咲知が座り小河原は居場所を求めてランニングとトランクスの下着姿でいていた。

「あんた、誰ねえ?」咲知の父はおたおたしている小河原を恫喝した。小河原は咲知の隣に座り勇気を振り絞って言った。

「は、はい、小河原と申します。初めまして」

「なんであんたが正親のマンションにおるとう?」咲知の父が怪訝そうに言う。

「あ、あの…それは……」しどろもどろでどう答えていいのか迷っていると咲知が助け舟を出してくれた。

「お父さん、私、今、小河原さんと一緒に暮らしとると」

「暮らしとる?どうしてこんな親爺と暮らしとると?」

 咲知の父は信じられないような顔をして小河原の顔をまじまじと見た。

「小河原さんは、すごく優しくて私を好いてくれとると。だから同棲しとうとよ」

「同棲って言うのは男と女のすることやろう?男と男なら共同生活って言うんやろうもん?それに男が男を好いとるって……お前、自分でなんば言っとうとか分かっとうとか?」

 咲知の父は素っ頓狂な声で目を丸くして言った。

「分かっとるよ。分かってないのはお父さんやろうもん?」咲知の声は悲痛だった。

「ふざけるな!ど、どげんしたら男同士が好き合うって理解できると?」

「お父さん、何度も言う。私は見た目は男だけど心は女たい。病院に行ってちゃんと検査を受けてそう診断されたとよ」

 咲知は懸命に父を説得しようとしている。

「何度訊いても分からんものは分からん。俺だって母さんだってまともな男と女で、生まれて来たお前だってまともな男の子だったとう。それがなんで息子がオカマとかやってるか分かると思うか。しかもこげん歳取った親爺と暮らしよるなんて、お前のやっとることは異常たい」

「しょうがないやん。私だってずっと悩んどったとよ。もうお父さんに理解してもらおうなんて思わん。私は誰にも迷惑掛けないで生きて行くけん。放っといて」咲知はきっぱり言い切った。

「ほう、誰にも迷惑掛けんだと?じゃ、お前は自分の妹に何をしたのか分かっとうとか?」

「……そりゃ、久美にもこんな兄で肩身の狭い思いをさせとるのは分かっとうよ……」

 妹は兄想いで幼少の頃から兄を理解してくれていた。兄というより姉として接してくれいつも兄を責める両親から庇ってくれた。こんな優しい妹の幸せを咲知は心から願っていた。

「そ、そげなことを言っとるんやない。お前の……お前のせいで妹の縁談が壊れたんよ」 咲知の父は興奮して一際大きな声を張り上げた。

「ばってん、久美は私に性格が合わんで駄目になったと言ったとよう……」

 咲知は顔面蒼白になって声が微かに震えていた。

「全くお前は馬鹿やん。本当のこと言ったらお前があんまり可哀想やけん妹は嘘を吐いたやろうもん。久美の相手の両親がお前の素行調査をしてお前がオカマと分かって断って来たとよ。〝オカマのお兄さんがいるご家族と親戚になるつもりはありません。大体、何でこんな大事なことを娘さんはうちの息子に言わなかったんですか?本来ならお宅を訴えて慰謝料を頂きたいくらいです〟って相手の両親が来て俺は文句を言われた。それでもお前は誰にも迷惑を掛けとらんて言い切れるのか?横で訊いてたお前の妹はそれからずっと泣いて暮らしてとるんよ。それなのにお前は訳の分からん男と浮き浮きして暮らしとるのか?久美に少しは悪いと思わんのか?」

「ちょっと待ってよ……私が小河原さんと一緒に暮らそうが関係なかやん?」

 咲知の声はすでに泣き声に変っていた。

「それはお前の考えやろうもん?現実にお前がそげなことやから向こうが断って来たんやろう?」父とどこまで話し合っても平行線で咲知の気持ちは理解されなかった。

「お父さん、じゃ私はどげんしたらよかと?死んだらよかと?この世から消えればよかと?」

「………………」父は何も言えず咲知から顔を逸らしていた。            「答えてくれん!久美にはこんな兄で悪いと思っとる。じゃ、私はどげんしたらよかと?これから私が男として生きて行けると思っとうと?性同一性障害って訊いたことあるやろうもん?私は頭の中は女たい。でも体は間違って男に生まれて来たんたい。どうしようもなかとよ」

 咲知の両目から幾筋もの涙が頬を伝わり父親の手を咲知が掴もうとすると父はその手をするりと躱した。

「お前が何と言おうと俺には分からん。ばってん、久美はお前がいる限りまた同じ理由で破談になりかねん。どげんしてよかか俺にも分からん。ただこのままじゃ不味いことはお前にも分かるやろ?」

「お父さん、咲知さんを理解してあげてください」小河原が横から口を挟むと咲知の父は

「あんたは黙っとらんねえ!」そう罵声を浴びせるなり父の拳が小河原の頬に飛んで来た。小河原は吹っ飛んで箪笥に頭をぶつけた。

 咲知は勢い良く立ち上がりキッチンの収納扉を開いた。そして包丁を手にして咲知の父にり寄り包丁の先を自分の喉元に向けて涙ながらに訴えた。

「お父さん、これで私ば殺して……。お願い殺して……お父さんに殺されるんやったら仕方なか!」

 小河原は慌てて咲知にしがみつき手にした包丁を奪い取ると咲知は床に伏せて泣き崩れた。小河原は咲知の背中を擦り続け、咲知の父は唇を噛み締め横を向いている。小河原は喉に上がって来る胃液と頬に痺れるような痛みを感じていた。咲知はベッドから起き上がってワンピースパジャマのままで、小河原はトランクスにランニング姿で幾ら真摯な態度で父に接しようとも説得力がなさそうに思えた。父親にはきっとふしだらで乱れた関係に映っているのだろう──。何を言っても咲知の父には理解してもらえそうになかったが咲知の苦しむ姿を見て言わずにいれなかった。

「お父さん、咲知さんは妹さん思いでいつも妹さんを気に掛けています。そしてお父さんやお母さんの思い出を私に楽しそうに話してくれます。家族みんなを愛しているんです。でも自分がこんなだから迷惑掛けまいと福岡の実家から遠く離れて暮らしているんです。咲知さんのそんな気持ちを分かってやってください。偉そうな意見かもしれませんが相手の婚約者が義理の兄がオカマだと知って逃げ出すようじゃいずれ妹さんの結婚は駄目になるに決まってます。しかもその婚約者が両親に任せて自分が挨拶に来ないなんて大した男じゃありませんよ」

 小河原は咲知の父を何とか説得しようとした。

「訳の分からん親爺が何を言っとるんだ。そもそも咲知って誰なん?」

 咲知の父の怪訝そうな顔に小河原は憤りを感じていた。

「お父さん、咲知って言うのは私のことたい」咲知が弁明した。

「何が咲知だ。お前は正親と言う立派な名前があるやろうもん。それよりあんた、奥さんや子供はおらんのか」痛い所を突かれ急に小河原は口ごもった。

「……います………」

「そげな男がオカマのマンションで何をやってるんだ?家族は心配しとらんとか?」

「妻とは離婚しました」

「離婚して子供を捨てて、無責任にオカマと暮らしとるのか?俺はそんな人間に何も言われたくなか!」

 小河原は二の句が継げなかった。遅かれ咲知がいなくとも妻と離婚したに違いない。だが結果、咲知との不倫が引き金になって離婚したのは事実だ。咲知の父に言われるまでもなく自分に非があると痛感していた。咲知の父親が立ち上がりながら言った。

「正親、俺はもう知らんけん。親子の縁を切る。もう二度と柳川には帰って来るな!」

 咲知は声を押さえて泣くだけだった。父親は何も言わず玄関に立ち去ろうとした。小河原は咲知の父親の背中に向かって言った。

「あんただって父親じゃないか。自分の息子を捨てるのか?息子を愛していないのか?」

 小河原はもう一度声を振り絞って言った。

「こんな別れ方をしちゃいけない。余りにも悲し過ぎるじゃないか?」

 咲知の父はそれでも何も言わず出て行った。後からドアの締まる音がした。

 暫く経って咲知は泣き止みティッシュを数枚とって鼻をかんでいる。妹に電話を掛け何度かの呼び出しを待って相手が電話に出ると涙の収まった咲知はまた急に泣きじゃくり妹に詫びていた。

「ごめんね。許してね……うん、今、お父さんが来て全部訊いた……ちっとも知らんで……迷惑かけて……本当にごめんなさい……なんば言いよると。全部私が悪いんよ……許してくれんでもよか……私を恨んでもいいたい……………」

 会話の様子からすると妹が咲知を責めているようには聞こえなかった。多分兄を妹は宥めているのだろうと思った。延々と咲知の嗚咽する声が続いた。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。