紫陽花が濡れそぼる頃 25(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 25(オヤジの小説・全33話)

 翌日、ビン子ママが二丁目の焼肉屋に苦情を言いに行ったらしい。しかし焼肉屋の経営者から「うちの肉のせいじゃない。言いがかりをつけないでくれ。あんたらみたいな人間はどこか他所で腐ったもんでも食べたんじゃないか?」と相手にされなかったと言う。腹を立てたビン子ママはレバ刺しに当たったオカマ六人の診断書を持って保健所に訴え出た。保健所員が店を検査した結果、調理場から大腸菌が検出され、店は二週間の営業停止処分を受けた。治療や入院したオカマ六人は少額だが慰謝料を得ることができてビン子ママの腹の虫が少し収まったようだ。

 七月に入ると雨が降っても蒸し暑く湿度の高い不快な日が続いた。全身に纏わり付く湿気が鬱陶しかった。夕刻、友人の渡辺から久しぶりに携帯に連絡があった。

「おう、元気か?今夜どうだ?」

 相変わらず苦労知らずの調子のいい声が聞こえた。

「いや、ちょっと状況が変わってね」

「何、勿体付けた言い方してんだ?」渡辺は苛立った声に変った。

「勿体付けてる訳じゃないよ……会社を辞めて夜働いているんだ」

「何して?」

「まあ、バーテンのような……」

「バーテン?どこで?」渡辺は矢継ぎ早に質問を浴びせて来る。

「………クラブマカオ」

「冗談だろ?」

「………………」小河原は言葉に詰まった。

「まじか?」

「……うん……まあ…今日は予約が入って忙しそうだからまた別の日に遊びに来てくれ。その方が落ち着いて話せる」

「言われなくても近々行くよ」

 早口でせっかちな電話は小河原の返事も待たずに慌ただしく切れた。いずれ渡辺には全て本当のことを報告しなければならないだろうと思っていた。妻との離婚。咲知との同棲。きっと渡辺は面白がるに違いないと思った。長い銀行勤めの後、一流企業に出向、悠々自適の生活を送っている渡辺には小河原の生活がきっと奇異で滑稽に映っているのだろう──。

 咲知と暮らし始めてまだ一ヶ月しか経っていない。この一ヶ月間が一年間のように長く感じた。同棲、退職、離婚、転職、小河原の人生は急転してしまった。後悔はない。不安もない。寧ろ今は幸せを感じている。土曜日の朝、咲知とマンションに戻って風呂に浸かった後、軽い食事と酒で疲れた神経を解きほぐした。咲知と一緒にベッドに横になったのはもう午前八時を廻っていた。背後から咲知の髪の中に顔を埋めると咲知の髪からいつもの薔薇の香りがする。小河原の唇が咲知の項に触れ耳朶をそっと噛んでみる。咲知が一瞬小刻みに震えた。優しく甘く咲知の髪を撫で付ける。咲知の生成りのワンピースパジャマの裾をたくし上げ小降りの胸を両方の掌で包んだ。白い胸と締まった腹部が波打つ。全てが儀式のようにゆっくりした静かな行為だった。男と女の行き着く先の正常な性行為とは違って肉体的というより精神的に労り合う愛撫が延々と続いた。同性愛者がする交合の方法があるがどうしても小河原にはその気は起きなかった。一つになりたいという欲求はあってもそれは間違った暴慢な行為のように思えた。咲知が女性だったら──。つい願望が頭をもたげた。咲知も小河原の体を後ろ手で優しく愛撫している。

「ねえ、私の体が完璧な女性だったら良かったのにって思ったことある?」

 小河原の心を見透かしたかのように咲知が言う。

「……いや」

「嘘つきね……私、最近、完璧な女性になろうかって考えているのよ」

「そんな無理しなくていいよ」

「本当の女性の体になったらあなたも嬉しいでしょ?」

「ま、まあ……」

「やっぱり、女になって欲しいんだ」咲知が急に寝返りを打って言った。

「い、いや、そう言う訳じゃなくて……」咲知が探るような目をして見ている。

「本当に嘘が下手ね…」

 咲知は呆れた顔をして笑っていたが小河原は複雑な気持ちだった。自分の欲求で咲知が体にメスを入れるなどあっていい筈がなかった。だが心の奥底では咲知が本当の女性ならと望んでいる自分もいる。咲知が肉体的にそして戸籍上でも真の女性であってくれればと考えたこともある。女性よりも女性らしい咲知の心に惹かれたのだと信じて疑わなかったが、もし咲知の体が完全な女性ならノーマルな男女間のセックスが可能になる。しかし自分の欲望のため手術を勧めるのはやはり間違っていると思った。

「いや、このままでいいよ」

 咲知は黙って何かを考えている風だった。沈黙を破るように座卓の上にあった咲知の携帯電話が鳴った。

 咲知は起き上がり電話に出た。会話の内容は小河原には分からなかったが電話は妹からで咲知の声の抑揚から余りいい話しでないことが推測できた。

「そうやったと?残念やねえ。気を落とさんでえ」咲知の妹に何かあったようだ。暫く柳川弁の会話が続いて咲知は何とか妹を励まそうとしていた。七、八分の会話の後、携帯を切ると咲知は深い溜息を吐いた。小河原は咲知に訊いてみた。

「何かあったの?」

「うん………」咲知は話すのを躊躇しているようだった。しかし咲知は意を決したように再び話し始めた。

「実は妹の縁談が駄目になったみたい。随分落ち込んだ声だったわ」

「何で駄目になったの?」

「何だかお互いの性格が合わなかったって。結婚する前に分かって却って良かった、なんて強がり言ってたけど……辛そうだったわ」

「そう、まあ若いんだからすぐ別の人が見つかるよ」と通り一遍の慰めの言葉しか思い浮かばなかった。

「そうね……もう寝ましょうか?」

 咲知は嫌なことを忘れるために早く眠りに付こうとしているようだった。

「うん」背後から咲知を抱き寄せ咲知の匂いをいっぱい嗅ぎ取ろうとした。

 目覚めた時、テレビの上の掛け時計の針が午後の一時を指していた。小河原は咲知を起こさないように静かにベッドを抜け出しカーテンの隙間から外を見た。窓越しに見える厚い雲に覆われた景色は今日も気分を陰鬱にしてくれた。ベランダの隅には咲知の買った紫陽花の鉢植えが見える。紫陽花の萼が気のせいか色褪せて見えた。下着姿のまま小河原はキッチンに立った。湯を沸かすために浄水器の口からポットに水を入れ五分も経つとポットの蒸気孔から湯気が立ち上った。ドリップ式の珈琲バッグを咲知とお揃いのカップに入れ湯を注ぎ部屋に珈琲の香りが充満した。その香りで咲知は眠りから覚めたようだった。ベッドの中から「おはよう」と咲知のまだ気怠そうな甘い声がした。小河原は咲知のカップに珈琲を淹れて手渡した。咲知は半身を起こしてベッドの背に持たれ珈琲を一口啜った。小河原はガラスの座卓の上に珈琲カップを置いて何をするでもなく降り頻る外の雨をぼんやりと眺めていた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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