紫陽花が濡れそぼる頃 24(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 24(オヤジの小説・全33話)

 十時を廻ると二人連れの客の他にいきなり六人の客が店の中にどやどやと入って来た。それまで二人連れに付いていたビン子が六人の年配の客の席に移った。小河原はトレイに水割りのセットをしてテーブルに運び、六人の接客をしているママの手を煩わせないように小河原が水割りを作った。三十分も経つと年配の客の一人がビン子ママに説教し始めている。一度臍を曲げると取りつく島もない程怒り出すタイプだった。

「なんだ、なんだ!この店は。オカマが店に二人しかいねえじゃないか。どうなってんだ?…なあママ、俺はこの店を昔から贔屓にしてやってんだぞ。それも六人の客に、オカマが一人か。つまんねえ店だな。もうこんな店二度と来るもんか!」

「松野さん、今日はお店の子がみんな具合悪くて休んじゃってるのよ。今日だけは勘弁してよ」あのいつも鷹揚なビン子ママがこの時ばかりは狼狽えていた。その客の名前を呼び慣れているようできっと馴染みの客なんだろうと小河原は思った。

「それは俺には関係ないだろ。俺は友達五人を誘って遊びに来たんだ。面目丸つぶれだよ。どうしてくれるんだ?」

 意地悪な客でビン子ママを甚振っている。咲知が付いた二人の客が気を利かせてか「何だか大変そうだからうちらは帰るよ」と言って店を出て行った。

 咲知は六人の客たちの間に入り「お待たせしました」と明るい声で挨拶して水割りを作リ始めた。それでも松野と言う客は収まりがつかないらしく「客は六人だろ、普通だったら客二人にホステスが一人は付くもんだろ?」

「松野さん、もういいよ。二人もいれば充分だよ」他の客が松野を宥めている。

「いや、俺はこんな店もう来ない!」松野は意固地になっていた。

 咲知が「失礼します。すぐ戻ってきますから」と言って席を立ちカウンターの中にいた小河原に小声だったが力強く耳打ちした。

「お願い、女装して!」

 耳を疑った。咲知は顔を逸らそうとする小河原の両頬を両手で押さえて続けて言った。

「あなたならきっと綺麗になれるし、大丈夫よ!」

「そんな!無理ですよ」泣きたくなった。

「大丈夫。隣に座っているだけでいいから。お願い、助けて!」

 小河原は咲知に無理矢理引更衣室に連れて行かれた。

「できません!やっぱり無理です」

「お願い!あんなに困っているママを見るのは初めてなの。お願いだから……」

「いや、しかし……」

「早く!またお客さん、怒っちゃうから」

 咲知のロッカーに入っていたティーバックのパンティとブラを手渡された。

「何もここまでしなくても」と咲知に許しを乞うとチャイナドレスを着てスリットから男物の下着が見えると可笑しいのだと言う。頭の中が混乱して咲知は考える暇も与えてくれなかった。エプロン、蝶ネクタイ、シャツ、ズボンをあっという間に脱がされ丸裸になった。渋々、女性物のパンティを穿くとどうやっても収まりが悪く下手をすると横から顔を出しそうになる。咲知はブラジャーのホックを嵌めて、咲知の愛用品であろうかシリコン製のパッドで胸の盛り上がりを作った。仕上げにコルセットでウェストを後から締め上げられた。最後に赤いチャイナドレスを着用するも二の腕の太さが小河原は気になった。咲知はバッグの中から自分の化粧品を取り出し小河原を化粧台の前に座らせると有無も言わせずメイクに取り掛かった。少しずつ女性に変わって行く自分を鏡越しに見ていると妙な気分になって来た。ほんの少し気分が昂揚している。鏡の中の自分は確かに化粧映えのする顔立ちで若くはないが長年チーママを勤めて来たと言っても客が信じてくれそうな熟女に見えた。昂揚した気分は恍惚感に変っている。自分で信じられないこの感覚を振り払おうと頭を振った。こんな趣味はないと小河原は自分に言い聞かせた。咲知が動くと化粧できないと文句を言っている。手慣れた咲知のメイクは十分程で終わり肩までの長さの鬘を着けると完璧な中年女性になった。小河原はそれでも我ながら女性として充分通用すると思った。二の腕は気になるが。

「私の目に狂いはなかったわ」咲知は感動している。

「それから、何も喋らなくていいから愛想良くお客さんたちの水割りを作ってね。さ、行きましょ」

 小河原は覚悟を決めた。しかし心臓は高鳴り、胃の中の物を全て吐き出しそうだった。酸っぱい胃液が込み上げて来た。恐る恐る年配の団体客の前に近付き頭を下げ、口うるさい客から一番遠い席に座った。

「何だ、もう一人いるじゃねえか。今出勤して来たのか?」

 松野が傲慢な顔をして小河原の顔を見詰めていた。小河原は黙って俯いていた。

「こっちに座れ」

 松野が手招きしている。咲知が松野に見えないように小河原に小さく手を合わせている。小河原は自分がいつ店のバーテンだとばれてしまうか気が気ではなかった。咲知の必死な顔を見ると可哀想になって小河原は仕方なくビン子ママと席を変った。六十を越えていそうな松野は少ない髪の間から脂ぎった頭皮が見え肥満な体からは親爺臭が漂っていた。さらに横から舐め廻すような嫌らしい視線を感じていた。何となくセクハラを受ける女性の気持ちが分かった。松野は小河原が隣に座ってから少しずつ機嫌が良くなり始めていた。

「あんた、見たことない顔だけどいつからここで働いているんだね?」

 親爺が顔を近付けて湿った肉厚の掌が小河原の手の甲を掴んだ。握力が強そうで振り切れそうにもなかった。

「まだ新人なんですよ」咲知が答えた。

「あんたには訊いてない!」咲知が一喝された。

 小河原の両手が松野の片手で掴まれ小河原のチャイナドレスの裾にもう片方の手が侵入して来た。払い除けようとしたが押さえ込まれた両手はびくともしなかった。

「ふふふ、抵抗しても無駄だよ…こう見えても私は昔は柔道をやってたからね」

 不敵に笑っている。ぱっくり開いているドレスの背中に鳥肌が立った。じわじわと股間にその手が忍び寄って太腿に松野のねっとりとした手の湿り気を感じた。寸での所で小河原は立ち上がった。

「すみません。ちょっとおトイレに」

 小河原はオカマっぽい声が自然と口に出た。松野は「早く帰って来いよ」とほくそ笑んでいる。四、五分して気分を落ち着けまた勇気を奮い起こしてテーブルに戻るとカラオケが始まっていた。松野は小河原の帰りを貧乏揺すりをしながら痺れを切らしていた。

「遅い!何してんだ?早く隣に座れ!」

 小河原は微笑もうにも顔が引き攣り思うように口角が上がらなかった。隣に座るとまたもや膝の上においた両の手を握られ「お前はもうここはないのか?」と信じられないことを聞かれた。小河原は下を向いて頭を振った。松野は「そうか」と一言言って考え込んでいたが「それでもまあいい」と自分に納得させるように言った。

 他の年輩の男たちはカラオケに興じていた。二時間程年輩の親爺たちは歌い捲って、最後にその親爺たちの中の一人がムードのある歌謡曲を選んだ。一曲目の途中で松野が「踊ろう」と小河原をダンスに誘った。それに釣られて他の親爺たちも咲知とビン子ママを誘っている。

 フロアに出て小河原は松野にきつく抱き締められた。男の脂ぎった頬が小河原の頬にぴたりと密着している。化粧が落ちるのではないかと変な心配をした。男の片手は小河原の尻をむんずと鷲掴んでいる。もう一方の手が小河原の顎を掴んで松野の顔が近付いて来る。顔を背けることもできず小河原はぬるりとした男の唇を感じた。吐きそうだった。涙が出そうだった。小河原は小さな声で「いや」と顔を伏せて言った。それが松野には可愛らしく映ったようだ。男に唇を奪われたかと思うと何かとても大事なものを奪われた気がした。曲が終わっても松野は名残惜しそうに小河原を離さなかった。親爺たちは十二時を過ぎると終電に間に合うように慌てて店の清算を済ました。

「じゃ、また来るよ」と松野はビン子ママにそう言い残し他の客と共に帰って行った。どっと疲れが出た。化粧落しのオイルを咲知から手渡され直ぐさま化粧を落としドレスを脱いだ。身に付けていた咲知の下着を帰って洗濯しようと紙袋に包んだ。元のバーテンダーの格好に戻ったがショックが大きくて暫く更衣室で呆然としていた。咲知がやって来て「ありがとうね。ごめんね。本当にごめんね。でも助かったよ」と何度も謝罪と感謝の言葉を繰り返していた。それから四時まで客が一人も来なかったので早めに店を閉めた。帰宅途中の暗く沈んだ小河原に咲知はずっと詫び続けた。

「でもオガちゃん、可愛かったよ」乗客いない始発の中で咲知が下から覗き込んで俯いている小河原を冷やかした。小河原は咲知の首を軽く締めた。咲知は舌を出し寄り目で苦しそうな素振りをした。小河原もその表情が可笑しくて声を出して笑った。咲知も笑った。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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