紫陽花が濡れそぼる頃 23(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 23(オヤジの小説・全33話)

2021年6月14日

 翌日、小河原と咲知は昼過ぎに起きた。薄曇りだが雨は降りそうにもないので小河原家の先祖が眠る世田谷、浄土寺に墓参りに行こうと思った。きっと昨夜、母のことを思い出したせいだろう──。咲知も付いて行くと言う。東急世田谷線の上町駅で下車して歩いて五分程の住宅街の中にその寺はある。五百年以上は経っているこの寺は歴史の重みを感じる佇まいを見せていた。ここから歩いて十分程の所に小河原が住んでいた家があった。小河原が大学四年の春に父の会社が倒産して借金の形にその家は売られてしまった。その半年後、父はくも膜下出血で倒れ他界した。小河原は何とか大学は卒業できたが由起と結婚するまでは近くの借家に親子二人で質素に暮らしていた。結婚して母を借家に残して賃貸マンションに由起と暮らし始めた。それから数年後、小河原は清瀬に新居を構えるが母は由起と反りが合わず同居するのを嫌がった。その借家に母は五年前まで一人で暮らし、最後の数ヶ月を病院で送った。母の納骨に訪れた由起はこんな気持ちの悪い墓には入りたくないとこの墓を忌み嫌っていた。明治の頃から建立された墓だけあって石碑も古く刻まれた文字も所々が欠けていた。それからも妻の由起は一周忌も三回忌も参列はしなかった。墓参りに何度誘ってもいつも用があるからと拒んだ。それが今、縁もゆかりもない咲知が小河原家の墓前に来て供養している。咲知は手桶の水で墓石を洗い清め、花立てに素手を入れ、汚れた水を洗い流し花を生け直してくれた。妻の由起なら「気持ち悪い」と言って触りもしないだろう──。小河原は線香の二束に火を点けその一束を咲知に渡した。小河原が礼拝を済ませた後、咲知が掌を合わせて神妙に祈っている。会ったこともない先祖たちに何を祈っているのであろうか、小河原は訊いてみたくなった。

「何を祈ったの?」

「あなたのお父さんとお母さんにありがとうございますって」

「そう」

 咲知の気持ちが何となく理解できた。言葉にはしなかったが心の中で小河原は咲知に手を合わせていた。ここ数年、気持ちに余裕がなく母の命日さえ墓参りをしていなかった。久しぶりの墓参りは小河原の心を癒してくれた。来て良かったと思った。

 咲知に渋谷まで出て「どこかのレストランで食事しないか」と訊いてみると「食欲がないし、ちょっと気持ちが悪い」と咲知は体の不調を訴えた。起きてからずっと元気がなくいつもの咲知とは違って見えた。そのまま巣鴨の咲知のマンションに帰ることにした。帰り着くや否や咲知はトイレに駆け込み長い間、閉じ篭り中々出て来なかった。十五分程して咲知は血の気の引いた青い顔をして出て来ると「吐いちゃった」と言う。子供ができる訳でもなし原因は何かと考えるとどうも昨日の焼肉しか思い浮かばなかった。小河原は母を思い出してから食欲も失せ隣に座ったビン子ママから装われたカルビとロースを数枚食べたぐらいで他の肉には手を伸ばさなかった。咲知もそれ程沢山は食べなかったが生レバーを少し口にしたと言う。小河原は病院で診てもらった方がいいと勧めたが「暫く横になっていれば落ち着くから」と咲知は手早く顔と手足を洗い夜着に着替えベッドで横になった。咲知の荒い息遣いが暫く続いた。小河原は部屋を暗くして咲知の呼吸が落ち着くまで側で看病していた。

 次の日の朝早く、咲知は小河原が目が覚める前に起き上がって家事をこなしていた。小河原が目覚めたのに気が付くと「もう大丈夫だよ」とまだ横になっている小河原に言った。咲知の顔色は青白さが消え白い透き通るような肌にほんのりと赤味が差していた。

「本当に大丈夫?お店休んだら?」ベッドの中から咲知の様子を見ながら尋ねてみた。

「休まなくても大丈夫。今日も頑張るわ」

 咲知は用心のためにお昼は粥を拵えると言う。小河原も同じものでいいと言った。二人で梅干しと一緒に粥を啜った。久しぶり食べる粥は子供の頃に食べた母の粥を思い起こさせた。熱を出して寝込んでいる時、粥や擦り下ろした林檎、細かく切ったバナナを母が作ってくれた。小河原の遠く懐かしい思い出だった。

 今日は雨模様で小河原と咲知は二時頃まで何をするでもなくのんびりと部屋の中で過ごした。ベランダにおいた紫陽花が雨に打たれ生き生きとして喜んでいるように見える。塞いでいる時は雨音が陰鬱に感じるが、心が満たされている時はそれが優しい音色にさえ聞こえる。人間は随分勝手な生き物だと小河原は自嘲気味に笑みを浮かべて思った。

 小河原はバーテンダースクールに通うため咲知より先にマンションを出た。渋谷の街はいつ来ても毎日が祭りのように人ごみで溢れ返っていた。無数の色とりどりの傘が紫陽花のように見えた。若者が多いせいか自分の歳のせいか渋谷が場違いな場所に思えた。親爺たちの店が建ち並んでいた渋谷がいつの間にか若者たちの街に変貌してしまった。閑静な路地裏の小さな居酒屋もトタン屋根の軒下から煙立ち上る焼き鳥屋もサラリーマンで混み合う立ち飲み屋も少なくなり親爺たちは隅へ隅へと追いやられている。じめついて暗澹とした親爺たちの生息地が近代的なビルで埋め尽くされ明るく清潔になっている。綺麗にするばかりが文化ではないと思った。

 十日も経つとバーテンダースクールの生徒数はやや少なくなっているようだった。今日はウィスキーとヴェルモットで作るカクテル、マンハッタンの実技だった。一日一品のレシピは小河原には覚えるのが一苦労だった。まめにノートを取り講師の講話に真剣に耳を傾け後退する記憶力に鞭打った。自分の仕事に直結したカクテルの授業は過去に学んだ学校の授業と違って確実に習得しなければならないと言う切迫感があった。カクテルごときと舐めていたが奥が深く興味が増した。自分の思い通りの味ができた時、講師から褒められた時は達成感があった。シェイキングする時、ステアする時、小河原は自分の中で眠っていた情熱を滾らせた。講師は小河原に目を掛けてくれた。

「あなたのその鋭い味覚は天から授けられた才能です。バーテンダーはどんなに努力しても正しい味覚の持ち主でなければ成功しません。その才能を大切にしなさい」

 嬉しいアドバイスだった。この道を進んで間違っていなかったのだと自信が持てた。

 意気揚々として二丁目の店に出勤した。小河原は依田の最終日に彼が身に付けていた黒のベストとエプロンと蝶ネクタイを譲り受けた。依田は引退してもう二度とバーテンダーの格好をすることはないと言った。着古されたそれらの衣装のおかげで依田のフォースが小河原の体に乗り移り実力以上のカクテルができる気がした。

 いつものように雑用をこなしてサンドイッチと牛乳で腹拵えしていると店の電話が鳴った。三田マンジョビッチだった。

「オガちゃん?……あのね……今日、具合が悪くて……お休みさせて〜」

 マンジョビッチが力なく呻くような声を出している。

「どうしたんですか?」

「もう上から下から酷くって脱水症状よ」

「焼肉ですかね?」

「あら、どうしてそう思うの?」

「マサコさんも昨日まで具合が悪かったものですから」

 小河原は咲知のことを店の中ではマサコさんと呼んでいた。

「そう……私は立つこともできないの。トイレまで這って行ってるわ……あっ、駄目!……トイレ……ママに宜しく言っておいて!」

 マンジョビッチの電話が切れるとちょうど咲知が現れた。続いてビン子ママが出勤して来た。小河原は早速マンジョビッチの容態を伝えた。「あら、しょうがないわね。何か悪いもの食べたのかしら」ビン子ママは健康そのものである。咲知がビン子ママに訊いた。

「ママはどこも悪くないの?」

「悪いのは頭と下半身よ。何で?」

「いえ、私も昨日まで何か当たったみたいで大変だったんです。ママは焼肉屋でレバ刺し食べました?」

「ううん、私、レバーが苦手だから……」

 小河原と咲知はお互い顔を見合わせて頷き合った。それから他のホステスたちからも電話が次々に入り皆体調が悪いから欠勤すると言う。若いオカマは病院で医者から食中毒だと診断されそのまま点滴を打れて入院しているらしかった。結局オカマの八人のうち六人が出勤できなかった。ビン子ママと咲知の二人だけで開店できるのだろうかと小河原は不安になったが、今日は雨で、週始めは客足も少ないはずだからもしかしたら何とか乗り切れるかもしれないと思った。ところが予想は裏切られた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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