紫陽花が濡れそぼる頃 16(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 16(オヤジの小説・全33話)

2021年3月6日
小説

 咲知を大事にしたい。例え体の一部が男であろうと世の中の女性より優しく思いやりがあると思った。咲知を女性として愛おしくそして人として慕っていた。咲知のことがもっと知りたくて就業時にノートパソコンで『性同一性障害』と文字を入れ検索した。ヒット件数は三百十万件と途方もない数字だった。トップに上がっていたサイトにアクセスした。

 パソコンの画面にはこう記載されていた。

『性同一性障害とは、生物学的性別と性の自己意識(性自認)とが一致しないために、自らの生物学的性別に持続的な違和感を持ち、自己意識に一致する性を求め、時には生物学的性別を己れの性の自己意識に近づけるために性の適合を望むことさえある状態をいう医学的な疾患名』小河原はたった数行が理解し難く何回も読み返した。

『人の胎児における性分化(男性化・女性化)のメカニズムは極めて複雑であり、数多くの段階を辿る。受精後七週目までは男女どちらになるか決まっていない。脳も性器もまだ分化していない。八週目頃からY染色体を持つ男子に睾丸が形作られ精巣からホルモンが分泌される。そして十週目辺りで陰茎と陰嚢が形成される。女の子の場合は十一週目辺りから卵巣、さらに子宮、膣が形成される。つまりY染色体の精巣を作る遺伝子によって精巣ができ男性ホルモンが働いた場合のみ男子になる。だから十一週目までにこの変化が起きないと女性の分化が始まる。さらに体の分化が終わる二十週目以降から脳の分化が始まる。この時、男の子の場合、睾丸から生まれる男性ホルモンが何かの欠陥や時期のずれなどの理由で脳に達しなければ体は男の子で脳は女の子になってしまう。この脳の性差が生ずる際、通常は脳も身体的性別と一致するが、何らかによって身体的性別とは一致しない脳を部分的に持つことにより、性同一性障害が発症すると考えられる。

 ヒトの脳のうち、男女の差が認められる細胞群はいくつか存在し、そのうちの分界条床核と間質核の第1核とが、人の性同一性(性の自己意識・自己認知)に関連しているとみられる示唆がある。分界条床核と間質核の第1核は、女性のものより男性のものが有意に大きいが、生物学的男性の性同一性障害当事者の分界条床核や間質核の第1核の大きさを彼らの死後解剖した結果、女性のものと一致していた』

 つまり自分の性とは違う異性の脳細胞の一部を生まれ持ってしまった疾患で、本人にとって自分は女性、もしくは男性と思い込んでいるのにその逆の性器が付いていたり付いていなかったりするのだから性転換手術をしない限り生涯悩むことになる。そんな大問題をノンケ(同性愛者じゃない人、異性愛者)の小河原が理解なんぞ到底できる訳がないと思った。ただはっきり言えることは咲知に男性器が付いていようと卵巣がなかろうと精神的に女性そのものだということだ。

 勝木が小河原の席に近付き「今、企画書を課長のパソコンに送りましたからチェックしてください」と小河原のパソコンを指差して言った。小河原は画面を覗かれまいと慌ててパソコンを畳んだ。

「今、別の調べものをしているから後で見ておきます」

 勝木はもの言いたげだったが「分かりました」と言って自分の席に戻って行った。

 その時、東京グローバルホテルの宣伝部、上田から電話が入った。先日提出した企画書の結果が出たから午後一で来社乞うとのことだった。

 街を覆っていた重たい雲がついに泣き始めた。雨粒がビルの窓ガラスを強く打ち始めた。机の引き出しから折り畳み傘を取り出し急いで会社を出た。JRの総武線に乗りお茶の水で中央線に乗り換え八重洲にあるホテルに向かった。ホテルの二階に通じるエスカレーターに乗りレセプションで名を名乗るとその裏手にある宣伝部の部屋に通された。部屋に入ると今度は女性事務員に呼び止められて会議室に案内された。事務員がノックすると中から「どうぞ」と声が聞こえ扉を開けた。会議用の長いテーブルがコの字型に配置された広い会議室だった。上田の隣に日頃余り話したことのない宣伝部長も同席していた。上田に手前に座るよう手招きされた。おずおずと椅子に座ると宣伝部長が口火を切った。

「小河原さん、いつもお世話になっています」

「いえ、こちらこそ」恐縮しながら深くお辞儀をした。

「私共が御社とお付き合いしてからもう十五年ぐらいになりますかね?」

 宣伝部長は笑顔で対応しているが小河原は今更何を改めて話しているのだろうかと彼の真意を計り兼ねた。

「はい、多分、私の前の担当からのお取り引きで、それぐらいになると思います」

「色々と助かりました。ありがとうございます」

「はあ…こちらこそ」嫌な予感がした。

「実は誠に申し上げ難いのですが、この不景気の煽りで当ホテルも経費削減を余儀なくされておりまして、それで私共の出入りの業者さんを合理化しようと言うことになりまして、まずミスやトラブルの多い業者さんを洗い出し、それで取引停止の候補に御社が選ばれまして…」

 宣伝部長は高級そうなペンを指で遊びながら脚を組んでいる。優しい口調だったが慇懃無礼な態度があからさまだった。

「弊社がミスやトラブルが多いと仰るんですか?」

「コホン……それじゃ、トラブルが全くないと言えるんですか?」

 宣伝部長は咳払い一つして鋭い目で睨み付けて続けた。

「はい?」

「先日の企画書の一件はどうお考えですか?あなたと部下の問題を我が社に持ち込んだのはトラブルではないと?あなたの部下の野村さんという社員がその企画書は採用するなと上田に指図したのは非常識ではないと?……いえね、これも我が社の判断材料の一つで、例えば支払いの少ない取引先、遠方の取引先を選ぶことも条件に入っている訳ですよ。それで主要取引先の経営状況が悪くなるのを最小限に留めようとこれでも我が社は他社のために努力しているんですよ」

 宣伝部長は一気に捲し立てた。

「しかし急に取引停止と言われましても……何とか考え直して頂けませんか?」

 必死に食い下がろうとした。このままでは小河原の全責任になる。営業部長にまた何を言われるか不安が過った。

「一応こちらの意志はお伝え致しました。お疲れさまでした」

 宣伝部長はそう言って立ち上がり会議室を出て行った。小河原は立ち上がって呼び止めようとしたが上田に腕を掴まれた。

「小河原さん、すみません」担当の上田が頭を下げながら話しを続けた。

「小河原さんが、当ホテルのために色々ご尽力いただいたのは感謝しております。しかしうちもここの所、赤字が続いて支出を抑えるためにも外注先を整理しなければいけないんです。そう言った所をご理解いただけないでしょうか。しかし企画書の件はまずかったですね。お宅の野村さんの電話、私が外出している時に掛かって来ましてそれをうちの宣伝部長が取ってしまったんですよ。ああ言うことはうちの宣伝部長が一番嫌うことで……とにかく余り騒ぎ立てない方がいいと思います。間違ってもうちを相手に下請け法なんて持ち出さないでくださいね。御社のためにもならないと思います。そのうち機会があれば御社が復帰できるように私からも口添え致しますから…」

 要は大手を残して中小を切って合理化したいのだろう。それには外注先の欠点や支障を見つけてそれを理由に整理しているのだ──。上田の調子のいい慰めも信じられずどんなに縋り付いても徒労に終わるだろうと諦めた。肩を落として会議室を退出しロビーから下りのエスカレーターに乗りホテルを出た。取引停止の話しは営業部長に内緒にしておこうか、いや、隠し通せる訳はなくいずれは露見してしまうだろう。素直に報告するしかない。だが何と罵られるだろう──。考えれば考える程気が重くなっていった。

 いつもの倍以上の時間が掛かってホテルからやっと会社に辿り着いた。憔悴し切って椅子に腰を下ろした。少し気分が落ち着くと小河原は社員たちの視線を感じた。気のせいだろうと思い、勝木の企画書に目を通そうと何とかパソコンに向かった。その時、ノートパソコンの画面が少し開いているのに気が付いた。確かしっかり閉じた筈だが──。開き切ると液晶画面が明るくなって「性同一性障害」のサイトが再び現れた。自分がサイトを消し忘れてそのまま外出してしまったことに気が付いた。

 そこに咲知から携帯メールがあった。

〝私たちのこと社員に知られたみたいです。私が女性じゃないと言うことも知っているみたいです。なぜばれたのかしら?〟 

 社員たちに露見してしまったことより咲知に自分が犯人だと疑われているようなメールに目眩を覚えた。小河原は直ぐに返信した。

〝私は誰にも話していません。信じてください〟

 数分して返信があった。

〝あなたじゃないのは分かっています。でも私たちは二人ともこのままじゃ済まないでしょうね。私は営業部長から今日はもう帰宅するように言われました。私は先に帰ってマンションで待っています〟

 周りの社員たちの冷たく好奇な視線は気のせいではなかった。勝木の企画書を読む気になれず早く咲知と二人だけで話し合いたいと思った。勝木に声を掛けた。企画書は明日チェックすると伝えようとしたが、席に座っていた勝木は聞こえなかったのか立ち上がり営業部のフロアから出て行ってしまった。野村が軽蔑の眼差しで小河原を射るように見つめている。こそこそと噂し合う陰口もあちこちから聞こえて来た。社内で小河原と咲知が噂になっているのは確かだった。社内の空気が堪えられずこのままどこかに逃げてしまいたかった。遠く離れた席の咲知は帰り支度をしているようだった。独身の男性社員たちの咲知への反発も生半可でない筈だ。咲知を女性だと思って言い寄った男性社員たちは咲知に割り切れない敵意を抱いているだろう──。咲知は静かに営業部から退出して行った

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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