紫陽花が濡れそぼる頃 14(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 14(オヤジの小説・全33話)

2021年2月4日
小説

 咲知と一緒に過ごした時間がこの上なく愉しく、小河原の心は五十の親爺でも小鳥ように舞い上がっていたが帰宅途中の電車の中ではいつものように地の底まで沈んでいた。一時間足らずで清瀬に到着してとぼとぼと自宅に向かって歩いた。由起はきっと家にいる。滅多に外出しない妻はいつも自分の部屋に閉じ籠りテレビを見ているに違いなかった。
 家の前に着いたが少しも帰宅の喜びが沸かなかった。音を立てないように細心の注意を払いドアのノブを廻して家の中に入った。玄関は真っ暗で静かだった。さして古くもなく汚れもない家だがなぜか不気味さを感じてしまう。これが家相と言うのだろうか──。片方ずつ静かに靴を脱ぎ上がり框を踏み、由起に気付かれずに一階の自分の書斎に入ることができた。外出しているのかもしれない──。スーツを脱ぎ、セーターとチノパンに着替えた。小河原はパジャマかジャージが好きだったが、由起がオヤジ臭いと言って楽な部屋着は許してくれなかった。緊張の余り喉の乾きを覚えキッチンに水分を求めた。勇気を振り絞って書斎のドアを静かに開けた。
 ドアの隙間から様子を窺った。目の前に由起が立っていた。目と目が合い一瞬息が止まった。小河原より背の高い由起は冷たく無表情な顔で小河原を見下ろしていた。
「あなた、給料も少ないくせにいつもどこで遊んでるの?」
 抑揚のない低い声で小河原を責めた。
「いや、遊んでる訳じゃありません。接待で遅くなったからまたビジネスホテルに泊まったんです」消え入りそうな声で答える。
「ふざけないで!」いきなり怒声を浴びた。由起が小河原に一歩近付き、スーツの肩に触った。その手を目の前に差し出して言った。
「この長い髪の毛は何?それに安っぽい香水の臭いがする」
 由起は指先の髪の毛を小河原の顔の前で吹き飛ばした。
「………」慄き言葉を失った。
「何か言ってご覧なさいよ」
「…………」
「何も言えないの。本当のことだから弁解できないんでしょ?」
 また由起が一歩にじり寄って来た。
「すみません」何を言っても許されないように思えた。下手なことを言って余計傷口を広げたくなかった。
「……やっぱり浮気してるのね。この前の朝も同じ香水の匂いがしてた。同じ女?」
「ま、まあ……でもまだそんな関係じゃないんです」言い訳した。
「この期に及んで何をしらばっくれてるのよ!」
 由起が右拳を振り上げ、殴られると思い咄嗟に両腕を交差させて身を防いだ。
「本当です。あなたが想像しているような関係じゃ……」
「聞きたくない!うだつが上がらないのに浮気なんかして……大体、あなたなんかお金もないし、偉くもないんだからあなたを相手にする女なんか碌なもんじゃないわ。あなたは騙されてるのよ。あなたは馬鹿だから酷い女だってことも気が付かないんだわ。そうじゃなかったらその女は余程の変態ね……うじうじした男が好きな変態女なんでしょ?ねえ、そうでしょ?」
 こうなると手がつけられない。何を言っても無駄だった。黙って立ち尽くし、妻の怒りが収まるのを待ったが、
「もう出てって!帰って来なくていいわ。後一時間で出て行きなさい。あなたが出て行かないんなら私が出て行くわ!」
 最後にそう言い残し由起は目の前から消えた。妻に責められても咲知に対する恋愛感情は否定できなかった。男女間の性的交わりはなくともあの頭の天辺まで突き抜ける甘美なキスと抱擁。これだけでも充分に妻への裏切りになるだろう──。しかしこうなったのは妻にも責任がある。冷淡、冷遇、冷酷。恐ろしい程冷たい由起の性格が次第に小河原の心を凍らせた。その凍てついた心を咲知の暖かな心が一気に溶かしてくれた。小河原には裏切りの自覚はあったが不思議と罪悪感はなかった。そしてなぜか妻の罵声を浴びても胃痛は起こらなかった。
 書斎に戻り、妻との新婚旅行で一度しか使っていない旅行鞄をクローゼットの奥から引っ張り出し、数着のスーツと普段着、下着、革靴、運動靴を入れて荷造りを済ませた。さっき脱いだスーツをまた着て玄関で脱いだ革靴をまた履いて家を出ようとした時、後ろから息子に声を掛けられた。昔、アイスクリームを喜んで舐めていた和也が今、無表情で廊下に立っていた。
「和也か……父さん、出て行くよ」
「勝手にすれば……だけど俺の学費や塾の授業料はきっちり払ってくれよ。親父と違ってまともな大学に入らなきゃいけないんだから!」
 和也は不機嫌な声で吐き捨てるように言った。引き止めてくれるのかと一瞬期待もしたが、息子は自分のことしか考えていないようだった。
「分かってるよ。お金なら心配しなくても大丈夫だよ……お母さんにもそう言っておいてくれ」
 ドアのノブを廻しながら幸せな家庭を築けなかったことを悔い、そして自分に憤りを感じていた。咲知の部屋に戻ろうとしたがそれも思い留まった。今日の咲知との楽しい時間は小河原の美しい思い出のままにしたかった。咲知にも二人の同棲について少し考える猶予を与えたかった。今このまま咲知のマンションに転がり込めば今日の思い出を穢してしまいそうな気がした。そして自分も一人冷静になって今後のことを考えたかった。今夜から金、土、日を含んだ三日間はビジネスホテルに泊まって月曜日になったら咲知に家を出たことを報告しようと思った。
 会社の給与は口座に振り込まれ、その口座は通帳もカードも妻が握っている。息子から言われるまでもなく自分の口座が自由にならないのだから息子の心配も取り越し苦労に過ぎない。だがここ十年で小河原にも少ないが貯えがあった。独身時代の財形貯蓄やバブル期の会社からの報奨金、妻には内緒のへそくりが三十万程あった。
 西武線の電車に乗り小竹向原で有楽町線に乗り換え、市ヶ谷に着いた。コンビニのATMで四万円を下し、ウィスキーの小瓶とピーナッツを買った。会社の近くの老朽化したビジネスホテルに行き、受付カウンターで同じ部屋を三日間予約した。このホテルには残業で遅くなって泊まったことが幾度かある。窓から見える景色は雑居ビルに囲まれ眺めも悪く部屋は狭く殺伐としていた。コンビニの袋からウィスキーの小瓶を取り出しストレートで呷った。胃の底にアルコールが沁みて痛みを感じたが我慢して飲み続けた。今日は色々なことがあって疲れているのかストレートで二杯も飲むと眠気が襲った。シングルベッドの毛布とシーツに包まり頭まですっぽりと被って横になった。咲知の香水の匂いを自分の体に嗅ぎ取ろうとしたがとっくに消えてしまっていた。それから咲知のあの白く柔らかな肌を思い出すと脳が弛緩して小河原は深い眠りについた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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