紫陽花が濡れそぼる頃 13(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 13(オヤジの小説・全33話)

 咲知は食事の片付けが終わると小さな丸椅子をベランダに運び手招きをしている。
「何ですか?」と聞きながらベランダに出ると鋏を片手に「髪を切ってあげる」と微笑んでいる。一瞬たじろいだ。その表情を咲知はまた見逃さなかった。
「大丈夫。心配しないで。私、これでも自信があるの。随分伸びてるじゃない?」
 大人しく丸椅子に座った。
 そう言われればもう何ヶ月も床屋に行っていなかった。咲知はビニールカバーの紐を首に巻き付けると慣れた手つきで小河原の髪をカットし始めた。咲知の鋏と櫛の扱いはプロ級だった。腕が確かだと分かると落ち着いて任せる気持ちになった。
「高校を卒業して理容学校に行ってたの。でもその時、父と結構揉めていて……もう福岡にはいたくなかったから家出して東京に出て来たの」
「それで東京女子大学にはいつ入学したんですか?」
「誰が?」
「咲知さんです。会社の連中がそう言ってましたけど」
「どこでそうなったのかしら?私が通学していたのは男女共学の大学よ。男が東女なんて入学できる訳ないじゃない?」咲知が目を丸くして言った。
「­そうですね。どこで食い違っちゃったんですね」
「……二丁目でアルバイトしながら通学したの。でも卒業しても中々就職できなくて二十五ぐらいまでオカマバーを転々としていたわ」
「結構苦労されたんですね」
「ん〜ん。私なんか幸せの方よ。私の知っている二丁目の人たちは自殺した人や、エイズで亡くなったゲイも沢山いるわ。親が来て無理矢理故郷に連れ戻されたオカマとか……。テレビで活躍して成功しているオカマなんてほんの一握りよ」
「二丁目のオカマたちってもっと陽気で楽天的だと思ってました」
「陽気で楽天的な人もいるわよ。でも何でもかんでも楽天的って言うのも考えものね。最近は勢いで直ぐに手術して女性になってしまう若い男の子が多いわ。女装趣味が嵩じて体にメスを入れたり、ビジネスだって割り切ってニューハーフになる子も少なくないわ。タイに行かなくても日本で性適合手術ができる病院が増えてるし、ちょっとサインすれば最近は簡単に手術を受けられるの。医者もビジネスだから直ぐにあそこも切っちゃう……もう元の体には戻れないのにね……」
「じゃ、咲知さんは手術は反対なんですね」
「反対じゃないけど親にもらった体は簡単に傷つけちゃいけないって思ってる……でも子供の頃からあれが付いているのは凄く違和感があるの」
「随分悩んだんでしょうね」
「今でも悩んでるわ。だから少しでも女の体になりたくて親に内緒で十八からホルモン注射だけは打ち始めたの。最初は罪悪感があったけど……少しずつ女らしい体つきになった時は嬉しかったわ」
「そうですか……今でも注射は打ってるんですか?」
「ええ、月に二回………髪、少し短めにしてもいい?」
「あ、はい。お願いします……あの……手術はしようとは思わないんですか?」
「ええ、しようとは思わない。性同一性障害でも手術しない人は沢山いるわ。むしろしない人の方が圧倒的に多いのよ。親にもらった体だからって言う理由だけじゃなくて術後色々副作用が出るし、極端に言うと寿命が短くなる危険もあるの」
「女性になるのも覚悟がいるんですね」
「そうね。でも命が惜しいから手術しないんじゃないの。具合が悪くなったら誰にも頼れないし……ずっと一人で行きて行くんだから健康でいたいの」
「でも福岡にご家族がいらっしゃるんでしょ?」
「家族にはこれ以上迷惑は掛けられないわ」
 咲知は三十二歳までの人生で想像もつかないような経験をして来たに違いない──。普通の人、ノーマルの人と咲知に言われたのが今になってやっと分かったような気がする。
 春うららの水色の空に鋏の音だけがチョキチョキとリズミカルに響いている。

 午後三時頃になって咲知と地蔵通り商店街に出掛けた。東京の世田谷で生まれ育った小河原には巣鴨は馴染みがなく、咲知がいなければ訪れることもなかったかもしれない。一度だけ接待で白山通りの料亭を使ったことがあるが、その時も巣鴨ではなく確か最寄りの駅は三田線の白山だった筈だ。
 咲知のマンションの裏通りから商店街通りに出るとすぐ側にはとげ抜き地蔵尊があった。境内の前の売店で小河原は一束五十円の線香を二つ買った。一つを咲知に手渡し、山門の目の前の香炉に投げ入れた。小河原は臆病な性格と胃弱体質を治したく頭と胃の辺りに煙を当てた。この臆病な性格が小河原の最大のコンプレックスだった。咲知を横目で見ると同じように頭に当て次に胸の辺りに煙を当てていた。「胃の具合が悪いんですか?」と訊くと笑いながら「胸がね」と答えた。
「心臓が悪いんですか?」と訊くと耳元まで咲知が顔を近づけて「胸がもう少し大きくなりたいの」妖しい顔をして囁いた。
 二人はお互い本堂の前に立ち賽銭箱に百円玉を放り投げ参拝を済ませた。咲知は神妙に願を掛けていた。小河原はここでも興味本位で「何を願ったんですか?」と訊いてみた。
「私の家族の幸せ。それから明日起きたら正真正銘の女になっていますようにって」
 商店街には小河原がテレビの中で見たままの下町情緒溢れる店舗が建ち並んでいた。年配の人たちで混み合っているせいか通りの人の流れはゆっくりしていた。衣料品店、和菓子屋、佃煮屋、お茶屋、飴屋、漢方薬店とお年寄りが好む店が多かった。その店の前にたこ焼き屋、お好み焼き屋などの露天商が並びさらに道幅が狭くなっていた。小河原は咲知と老人たちの流れる速度に合わせてゆっくりウィンドウショッピングを楽しんだ。
「あれ食べない?」と咲知はソフトクリームの形をしたディスプレイを指した。「ソフトクリーム?」小河原は食べるとも何とも言っていないが咲知は店に入って行ってしまった。アイスクリームを両手にして戻って来ると小河原に片方を差し出した。嘗めてみた。優しい甘さがする上品なアイスクリームだった。少し汗ばむ陽気だったから尚更美味しく感じた。こんな物を食べたのも久しぶりだった。まだ息子が幼く可愛らしかった頃に遊園地で買った記憶が蘇った。黙ってアイスを舐めている小河原に咲知が訊いた。「どう?美味しい?」「はい、美味しいです」咲知は微笑みながら頷き、二人はいつの間にか手を繋ぎ歩いていた。
 巣鴨の駅前に着いた頃は陽が落ちて暗くなり掛けていた。小河原は名残惜しくなった。
「さっき言ったこと、忘れないでくださいね」咲知はしらばっくれるかと思ったが「ええ、一緒に住むってことでしょ。考えておくわ。でもあんまり期待しないでね」と小河原の目をしっかり見据えて答えた。
「それじゃまたね」と言って咲知は元来た横断歩道を小走りで駆けて行った。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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