紫陽花が濡れそぼる頃 12(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 12(オヤジの小説・全33話)

2021年1月7日

 それから暫く二人は会社や映画の話しに熱中して気が付くと十二時を越えていた。小河原は壁掛け時計を見てさらに救いを求めるような目をして咲知を見た。咲知は小河原の気持ちを察したようでまた溜息を吐いた。

 咲知は立ち上がり、以前に着たピンクのジャージを白い整理箪笥の中から出してくれ、ジャージに着替えると今度はバスタオルと歯ブラシを手渡してくれた。バスルームに手を引かれ「シャワーを使うんだったらここを捻ればお湯が出るから」と教えてくれた。他人の生活エリアに入り込んだのは人生初体験で、全てに戸惑っていた。前回は泥酔して記憶もなかったからまだしも今回は意識がはっきりして緊張していた。自分の汗臭さが気になって咲知に嫌われたくなかったからシャワーを浴びることにした。バスタブの脇にあったボディーソープで頭と体を一度に洗った。

 五分程でバスルームから出て洗面所で体を拭っていると「もう出たの?」と咲知が驚いた顔をして後ろからバスタオルで背中を拭いてくれた。それから背中から脚のつま先まで丁寧に体を拭いてくれた。自分の心臓の高鳴る鼓動を感じた。こんなことをされたのも初体験だった。優しくされればされる程緊張している自分がいた。

「はい、拭けたわ。前は自分でお拭きなさい」

 立花は小河原に背を向けてニットのワンピースを脱ぎ始めた。小河原はあたふたと洗面所から出て奥のソファに座りテーブルの上の残ったグラスの中のワインを飲み干した。咲知が使うシャワーの音が聞こえた。お湯がシャワーヘッドから迸る音、咲知の体に当たる音、排水溝に流れ落ちる音。その音の三重奏が想像力を豊かにする。咲知の濡れた黒髪や雫の滴る白い肌、腹部のくびれや臀部の丸みを想像する。だがあの部分は蒸気で靄が掛かっていた。それは余りにもアンバランスで小河原には理解し難かった。矛盾、混乱、倒錯、混沌。上気した素顔、乾き切っていない髪、火照った桜色の肢体、それをバスタオル一枚で纏い咲知は部屋に戻って来た。着ていたニットのワンピースに腕を通し頸を出してその下からバスタオルを抜き取っている。それをソファからじっと見つめていた。美しい──ただ美しいと思った。小河原は心底そう思った。それだけで充分だと思った。

 咲知が先にベッドの中に入って背を向け横になった。細い首筋から肩の線、そして上腕にかけてなだらかな流線型が目に入ってくる。目を閉じてもその映像は消えなかった。それどころか欲望を打ち払おうとしても咲知の体から薔薇のような香りが漂ってくる。妻にももう十年以上触れたこともなく、そんな男としての本能などすっかり忘れていた。それが咲知を前にして欲情のスイッチが入ってしまった。小河原はソファからベッドにそっと滑り込み咲知の隣に横たわった。咲知の肩に触れようとしたが躊躇して伸ばした手を引っ込めた。目の前の咲知の体に触れる勇気もなかった。悶々としながら咲知に背を向けた。

 頬に細い指の感触があった。そして背中にぴったりと咲知の暖かい体を感じた。心臓がまた高鳴った。我慢し切れず、振り返り、咲知を抱きしめ唇を合わせた。咲知も抵抗はしなかった。その唇はふっくらとして柔らかで微かに湿気を帯びていた。頭の後ろが痺れるような感覚に襲われた。咲知は寝ながら自分でニットセーターをたくし上げベッドの下に脱ぎ捨てた。小河原はその白く透き通るような白い肌に触れてみた。肌質は毛穴が見えない程滑らかだった。乳房も小さ目だが柔らかで小河原は可憐だと思った。これが薬によって作られた肉体美だとは信じられなかった。小河原は知らない世界に飛び込んでみようと決心した。

 しかし小河原は失敗に終わった。咲知のあの美しい腹部の下にはやはり男性の象徴が備わっていた。それがほんの少し手に触れた瞬間、小河原は困乱し、狼狽し、萎縮し、失意してしまった。後は忸怩たる思いが残った。その気持ちが咲知に伝わった。

「いいわよ。気にしないで……」

「すみません」

「謝らなくてもいいわ」

「でも私はあなたがどんな体であろうと好きです。その優しさ、女らしさが好きなんです。あなたといると私は心の底から癒されるんです」

 咲知に理解してもらおうと小河原の言い訳は必死だった。

「ええ、分かってるわ……今日はもう寝ましょ」

 彼女が本当に納得したのかどうか分からなかったが、咲知を抱き寄せると咲知は小河原の胸の中で静かな寝息を立て始めた。そして小河原も久しぶりに落ち着いた気持ちで深い眠りに付けた。

 翌朝、咲知に優しく揺り起こされた。枕元に置いた腕時計の針はもう八時を指していた。こんなに熟睡したのは何年ぶりだろう──。

「会社に遅刻しちゃうわよ」咲知が優しく耳元で囁き掛けた。

「会社ですか?……」暫く小河原は何か思案しているようだった。意を決したように「今日は一緒に休みませんか?」と咲知に問い掛けた。

 会社に忠誠を尽くすのが社員の勤めだと思っていたが何だか最近はどうでも良くなってしまった。社会人になってから有給休暇など遣わず身を粉にして組織のために働いた。過去一度も休みたい、遊びたいと言う欲求は沸き起こらなかった。働きたいという欲求もなかったが働くしか能がなかったから働いていただけだった。しかし今こうして咲知と一緒にいるともっと時間を有意義に使いたい、もっと好きな人と時間を共有したい、そんな気持ちになっていた。

「駄目だよ、行かなきゃ」小河原に優しく叱咤する。

「一日ぐらい平気ですよ。私は今まで無遅刻無欠勤だったんですから、たった一日くらい。ね、一緒に休みましょうよ」

「……何年あの会社に勤めてるの?」

「十六年です」

「十六年で無遅刻無欠勤?」咲知が少し驚いている。

「いえ、その前の会社から休んだことがありません」

 咲知はもっと驚いた顔をして小河原をまじまじと見つめていた。少し間があって咲知が言った。

「…………じゃ、休んじゃおっか」咲知の表情が急に明るくなった。

 咲知は小河原の髪の毛を優しく撫で頬に口づけした。小河原はそんな咲知の行為が自然で段々と二人の距離が縮まっていると確信した。咲知はベッドを下りるとキッチンで朝食の準備を始めた。ベーコンの焼ける匂いがして来た。青磁色の大きな皿にトーストとベーコン付きの目玉焼きが乗せられた。ガスレンジの上のポットのお湯が沸騰して、咲知はドリップ式のコーヒーを淹れている。部屋にはレースのカーテンから優しい春の光が漏れている。小河原はテーブルの下に敷かれたラグの上に座り、コーヒーを淹れている咲知の姿を眺めていた。徐にベッドから下りて、後ろから咲知を強く抱きしめた。「あ、危ない。珈琲淹れてるのに」咲知は小河原を優しく叱る。小河原は幸福感に浸っていた。

 先日とは違い二人は隣り合って朝食を取った。特別な食事ではない。どこの家庭にでもある普通のメニューだった。しかし暖かく心のこもった食事に思える。「優しさ」と言う調味料が最高の料理に仕立て上げている。自宅での食事は砂を噛むような味気のないものだった。妻と暮らした二十年以上のあの生活は一体何だったのだろう──。急に虚無感に襲われ箸が止まった。

「どうしたの?」咲知が幼い子に尋ねるように言った。

「もし良かったら一緒に暮らしませんか?」自然と出た言葉だった。咲知と暮らせばきっと意味のある、価値のある人生になると思った。

「そんなの無理でしょ。だってあなた、ご家族はどうするの?……私のせいであなたのご家族を不幸にするなんて嫌よ」

「あなたのせいになんかしません。私はただもう好きなように生きたいんです。昨夜も言ったように私がいない方がきっと妻も息子もせいせいします」

「そんな簡単に家族を捨てられる訳ないじゃない?」

 咲知は険しい顔になって言った。彼女は家族のこととなると妙に神経質になる。

「捨てるんじゃありません。私は家族といるより咲知さんといる方を選びたいんです」

「捨てるのと同じじゃない?」

「いえ、家族は今まで通り私の給料を受け取るのですから。それにもし咲知さんが少しでも鬱陶しいと思ったら言ってください。直ぐに出て行きますから」

「ちょっと待って。急に言われても……」咲知は眉根を寄せて言った。

「すみません。じゃあ、考えて頂けますか?」

「……分かったわ」

「付き合って欲しい」「同棲して欲しい」と性急過ぎたかもしれないと反省したが気弱な小河原には一気に弾みをつけて迫らずにはいられなかった。これが愛の力なのかとも思った。それよりもこの勢いに乗らなければもう一生何も言えない気がした。そして咲知が小河原の申し出を考えてくれると聞いただけで小河原は幸せな気持ちになった。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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