紫陽花が濡れそぼる頃 11(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 11(オヤジの小説・全33話)

2021年1月5日
小説

 由起は家事が嫌いで家庭的な女性でないことを承知の上で小河原は結婚した。それでも新婚当時はこんな気弱な男と結婚してくれただけでも感謝していた。まだ由起が食事の用意をしてくれていた四年程前のある夜、「今夜は外で食事を済ませて来た」と言うと由起は食卓の上に用意してあった料理をゴミ箱に叩き付けるように捨ててしまった。その日の夕方は営業会議の流れで酒席が始まり由起に電話をしそびれてしまったのだ。「連絡ぐらいしろ」と鬼のような形相で怒鳴られた。それ以来、由起は食事の用意をしなくなった。

 いつの間にか小河原が冷蔵庫や食品棚の中に即席ラーメン、パン、冷凍品を常備して、家族三人はそれぞれ好きな時間に自分の部屋で食べるようになった。土日の家の中でも妻にも息子にも顔を合わせることのない日が多かった。小河原の妻と息子に対する愛情も次第に希薄になり今では家族の絆など感じられなくなってしまった。それぞれ自分の部屋から明かりが廊下に漏れているだけで、家族の語らいの場である筈の居間はいつも暗く静かだった。

 月曜日の朝、出社して立花の座っている辺りを自分の席から見ると立花はいつもと変らずパソコンに向かって事務作業をしていた。小河原の視線に気付いてか立花は表情も変えずまたパソコンに視線を戻した。二人の関係が良くも悪くも多少の変化があるのではと思っていたが、二人の隔たりはなんら狭まることはなかった。小河原は多少の理性が働いてこれ以上親密になることを心の奥底で恐れている。しかし一方では性同一性障害であろうとオカマであろうと小河原は立花の魅力に惹き付けられている。手立てのないストレスとジレンマに陥っていた。

 仕事に集中できず約束した時間も忘れ顧客を怒らせてしまった。このままではいずれ営業部長からまた叱責されることになるだろう。いや、下手をすれば馘になりかねない。多少売り上げ成績が良かろうが毎週上司に呼ばれ肩を叩かれれば気弱な自分は直ぐに辞めてしまうに違いない──。

 小河原は立花の携帯電話の番号もアドレスも知らず連絡手段がないことに気が付いた。会社のノートパソコンは社用のメールだけで個人的なメールは送ったことがなかった。また送る程の親しい相手もいなかった。携帯電話のメールなど操作方法さえ分からなかった。もう一度立花と会って話をしてみたかった。そうすることで絡まった糸が解けるように自分の気持ちが整理できるのではないかと思った。立花の夜の出勤日は確か火曜と金曜だから水曜日辺りに立花のマンションに行こうと決心した。事前に知らせれば居留守を使われるか外出してしまうかもしれないと思った。強引だと思ったが連絡せずに突然マンションに行くことにした。こんなに積極的な気持ちになっている自分に驚いた。

 二日後の夜、巣鴨に着くと商店街のコンビニで一番値の張るワインを買った。三千円のワインでも小河原にしてみれば大奮発だった。一ヶ月の小遣いは昼飯代込みで二万円。自宅の冷蔵庫、食品棚の食料が無くなり掛けると一週間分の食費三千円が妻から手渡される。そして買い出しに出掛け、絶やさぬように食料を補充しておくのが小河原の勤めだった。自由になる金はなく妻に口座も通帳も印鑑も管理されている。

 立花のマンションの一階の自動ドアはセキュリティが甘く誰でも自由に出入りできた。部屋の位置も覚えていたのでエレベーターに乗り三階の部屋の前まですんなり辿り着けた。ドアの脇に備え付けられているドアチャイムのボタンを押して数秒するとドアが開いた。生成りのニットのワンピース姿の立花が現れた。白くきめ細かい素顔と素肌、髪を後ろに束ねすっきりした、咲知の色香に小河原は完全に惑わされてしまった。小河原は自分で頬が緩むのを感じていた。

 立花はその小河原の幸せそうな表情を見て深い溜息をついた。

「しょうがないわね」そう言いながら玄関でスリッパを揃え小河原を招き入れた。相変わらず綺麗に片付けられた部屋は立花が几帳面な性格であることを証明していた。

「ワインを買ってきました。一緒に飲みませんか?」

「……スーツを脱いだら」立花が小河原の後ろに廻りスーツを脱がせてハンガーに掛けてくれた。立花に促され檸檬色のソファに腰を下ろした。立花はワイングラスを二つ食器棚から取り出し一つを手渡すとグラスに注いでくれた。小河原はボトルを彼女の手から受け取り彼女のグラスにも注いだ。お互いグラスを当て乾杯して喉を潤した。立花は毛足の長いラグの上に両脚を横に崩して座った。ワンピースの裾から太ももが露出している。立花は小河原の視線を感じたのか裾を膝まで下ろしている。そんなことをしてもニットのせいで体の線がはっきりして、全身から漂う色香を隠し切れなかった。何か話さなければと焦りつつも小河原は妄想に耽ってしまいそうだった。

「この部屋は落ち着きますね」小河原は唐突に言った。

「そうかしら……今時こんなに不用心なマンションも珍しいわよ」

「そうですか。まあ新築じゃないですからね」

 築四十年以上は経っていそうで〝セキュリティ〟なんて言葉もない時代に建った代物に違いない──。

「不動産会社も大家も私みたいな人間を嫌がるのよ。不潔とか気持ち悪いとか言って……だからこんなに古くてセキュリティの甘いマンションしか見つからなかったの。ここは保証人もいらなかったし、それに私が大きな派遣会社に勤めていたから少しは信用してくれたみたい」

「女性の振りして契約すれば……立花さんなら誰も男だとは思わないでしょう?」

「すぐばれちゃうわ。運転免許証や保険証も見せなきゃならないし……オカマもニューハーフもテレビのおかげで市民権を得たように見えるけどまだまだ世の中、差別はあるわね」

「そうですか……」後に続く言葉が見つからず唐突な質問をした。

「失礼ですが立花さんのご本名は?」

「なんでそんなこと聞きたいの?」咲知が怪訝な顔をしている。

「一応……」

「タチバナマサチカ」立花が自分の名前を一語一語はっきりと言った。

「殿様みたいな立派な名前ですね」

「でしょ。立花って言うのは江戸時代から続いた名家なんですって……父が立花家は武家の出だって良く自慢してたわ。特に福岡の柳川には多い名字みたいね。私の父の名前が久親。祖父の名前が元親よ。先祖代々、偉そうな名前が好きだったみたい。それから私の〝咲知〟って言う名は〝まさちか〟の真ん中の二文字、さちから取ったの。お店ではマーちゃんかマサコちゃん……」

「まさかマーちゃんが立花さんだったなんて……」

「ねえ、私の名前のことなんかどうでもいいわ。あなた、何しに来たの?」

 立花は急に苛立った口調で小河原に詰め寄った。

「立花さんと会って話がしたかったんです」

「何を話すって言うのよ?」

「……私は立花さんが性同一性障害であろうが男であろうが構いません。お付き合いして欲しいです」

 もう理性より本能に身を任せてしまおうと思った。縋り付くようにように立花の目を見て言った。

「欲しいんですって言われても、あなたには奥さんがいるじゃない?」

 小河原は立花の両手を手に取りり寄った。

「私は今まで妻と子供のために一生懸命働いて来ました。でももう私の妻も息子も私が家にいなくても何も困らないんです。ただ私の給料が妻の管理する口座に振り込まれれば私なんかいなくてもいいんです。それより私はこれから自分の好きなように生きたい。私は会社にいる立花と言う女性を好きになってしまった。そしてたまたまその人が性同一性障害だっただけです」

「本気で言ってるの?あなたの人生どうなっても知らないわよ」

「どうにもなりません。私は幸せになるんです」

「そうは言ってもいろんな支障があるの。あなたの気持ちだけで済む話しじゃないの。世間がこんなカップルを認めようとしないんだから……」

「他人は関係ありませんよ。私たちが満足だったらいいじゃないですか?」

「あなたはまだ良く分かってないわ。いずれそんなに簡単なことじゃないってことが分かるわ。だけど一つ言っていい?」

「はい、何なりと」

「その〝立花さん〟は止めてくれる?」

「何と呼べば?」

「せめて咲知と呼んで」

「……咲知さん」小河原はがって愛情を込めて呼んでみた。

「困ったわね」咲知は呆れてまた深い溜息を吐いた。しかし小河原には本気で嫌がっているようには見えなかった。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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