紫陽花が濡れそぼる頃 10(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 10(オヤジの小説・全33話)

2020年12月21日
小説

 立花がベッドから滑るように両足を揃えて降りた。見てはいけないと思いつつも立花を目で追った。彼女は背を向けワンピースパジャマを脱ぐと白く美しい背中が露になった。襟ぐりの広い厚手のニットのセーターに袖を通し下半身はショートパンツを履いて生足の長い脚がすらりと伸びて悩ましかった。どう見ても男には見えない。立花は小河原の側の浅葱色のカーテンを開けた。薄暗かった部屋がぱあっと明るくなり立花は洗面所に消えた。小河原も起き上がり自分の着ていた服を探したが見当たらなかった。壁に掛かっていた時計の針は正午近くを指していた。五分もせずに立花が長い髪をポニーテールにして戻って来た。それがまた目映く新鮮に見えた。

「ねえ、朝ご飯食べて行きなさいよ。今日は会社お休みでしょ?それとも早くおうちに帰りたい?」

 立花はクローゼットの中からハンガーに掛かった小河原の洋服を取り出して部屋の隅のフックに引っ掛けた。そして引き出しの中からピンクのジャージーとパンツを取り出し手渡してくれた。

 どうせ早く帰っても妻が食事の用意をしている筈はない。どこかで家族三人分の一週間の食料を買っていつものように一人自分の書斎に籠って食べるのだろう──。

 ここ何年も妻の料理なぞ口にしたことがなかった。立花にどう返事をしていいか迷っていると「ね、食べて行って。私、料理には自信があるの」と窓際の檸檬色のソファに座らされた。ジャージーとパンツに着換え終わると今度は新聞を手渡された。今までこんなに女性に尽くされた憶えはなかった。五年前に亡くなった自分の母でさえ小河原を甘やかすことはなかった。母は父が死んでからずっとスーパーのレジで働き続け家庭ではまだ幼い小河原に構う暇もなかった。

「あら、そのジャージー、ぴったりね」立花が嬉しそうに言う。立花の背丈は百六十ぐらいで小河原とさして変らなかった。妻は百六十六、七の長身でいつも小河原を軽蔑の目で見下ろしていた。

 家具と調度品が明るい色でコーディネイトされた立花の部屋は日溜まりのようなで自宅よりずっと居心地が良かった。小河原はもう少しこの場所に浸っていたかった。ワンルームマンションでキッチンに立つ立花の後ろ姿をじっと見ていた。立花は振り返って「和食でいいでしょ?」と訊いて来た。不意に目と目が合って小河原はうろたえた。「はい」と小河原は恐縮しながら答えた。三十分もすると潤目鰯、目玉焼き、味噌汁、蕪の糠漬け、納豆、が食卓に並んだ。朝食の定番メニューだったが感動し、感激した。こんな持て成しを受けたのは初めてだった。

「ご飯はチンしただけだけどね。さ、食べましょ」

 ラグの上の座卓を挟んで向かい合って座った。咲知の料理はどれも家庭的で美味しかった。味噌汁と糠漬けの味だけで咲知が料理上手だと理解できた。

「この糠漬けね。私のおばあちゃんからもらった糠床で漬けてるの」

 立花が自慢げに言う。

「へえ、この漬け物、立花さんが作ってるんですか?」改めてまた一口食べてみた。

「ええ、毎日掻き混ぜてやらないといけないから結構大変よ」

「大したもんですね。こんなに美味しい漬け物は始めてです」

 また一つ、箸に取っては口に運んだ。

「私の田舎は福岡でね。糠漬け、発祥の地なのよ」

「へえ、福岡ですか?……ご実家は何をやられてるんですか?」

「……私のうち?」立花は言いねているようだった。

「いや、話したくなかったらいいんです」慌てて立花が話そうとするのを制した。

「別に構わないわ。教えてあげる。実家は普通の家庭よ。父は市役所に勤めているわ。母は中学の先生だったけど三年前に亡くなったの。それと妹が一人いるわ」

「随分固い家庭で育ったんですね」

「ええ、厳格な家庭だったわ……私はね、産まれた時から自分が男だと思ったことがないの。女なのになんで尻尾が付いているのか分からなかったわ。それでも父と母は私に厳しくて私を男らしく育てようとしたわ。でも私はどうしても両親の望むような男の子にはなれなかった。それで両親とはいつも喧嘩ばかりよ……良くあるオカマのパターンね」

「そう……で、故郷には帰ってるの?」

「あなた、随分答え難いこと訊くわね……そうね、もう七、八年帰ってないわ」

「帰ってみればどうですか?……案外許してくれるかもしれません」

 そう言うと立花は持っていた茶碗と箸を置いてしまった。ティッシュを摘まみ上げると目頭を押さえている。余計なことを言ってしまったと後悔した。気まずく重い時間が流れた。立花はまだ三十を少し越えたぐらいの歳だが物心ついた頃からずっと苦労して来たのだろう。きっと幾度も挫折と屈辱を味わって来たに違いない──。

「さ、ご飯、食べましょ」気を取り直して立花は明るく微笑んでまた箸を取った。

 立花が近くの駅まで送ると言う。着ていたジャージーを脱ぎスーツに着替えた。昨夜立花に抱えられたせいか袖に鼻を近づけると微かに薔薇の香りがする。立花は襟ぐりの広いセーターとショートパンツのまま黄色いヒールサンダルを履いて外に出た。立花のマンションの部屋を出て初めてここが三階だと分かり、外に出ても自分がどこにいるのか分からなかった。露出度の高い立花の格好に気後れして肩を並べ歩いていると他人の目を気にする自分がいた。数分歩くと賑やかな商店街に出た。アーチ看板の「巣鴨地蔵通り商店街」と言う文字が目に入った。

「ああ、そうか。ここは巣鴨だったんですね」

「ええ、住みやすい街よ。新宿にも近いしね」

 土曜日の正午だけあって人ごみで溢れ返っている。この街は始めてだが、自分が子供の頃に育った懐かしい昭和の下町風情を感じる。もっとこの街を散策してみたかったが妻の顔がちらつき思い留まった。歩いて五分程でJRの巣鴨駅が見えた。

「じゃ、ここでお別れね」と小首を傾げて立花が微笑みながら言った。

「また来てもいいですか?」名残惜しそうに訊いてみた。

「だめよ。これ以上あなたとは付き合えないわ。もし会社にばれたら二人とも馘になるかもしれないわ」立花が小河原を言い聞かせるように言った。

「大丈夫ですよ」

「だめ!それに小河原さんは普通の人だもの」立花は無表情に言った。

「普通?」

「そう、普通。ノーマルってこと……じゃあね」

 そう言って立花は軽く手を振り小走りで来た道を戻って行った。

 巣鴨駅から池袋駅へそして西武線で清瀬に到着。自宅には一時間も掛からずに着いてしまった。この家に住んで以来、一度も朝帰りをしたことはない。由起の怒っている顔が目に浮かんだ。立花の香水の香りがまだ残っていないか気になり袖口を嗅ぐとまだ微かに薔薇の匂いがした。無駄だと思ったが一応スーツの袖と胸元をいておいた。恐る恐るドアを引いてみる。施錠もされていず、すうっとドアは開いた。まだ外は明るいのに玄関は暗く静まり返って人の気配もしない。立花のあの開放的な部屋とは対照的だった。それでも妻の由起はこの家のどこかにいる筈だ。会いたくない。何か小言を言われるに決まっている──。音を立てないように細心の注意を払い、抜き足で一階の自分の部屋に向かう。部屋の前のドアのノブを静かに廻そうとした時、後ろから由起の声がした。

「お帰りなさい」

 上体が反り返る程心臓が高鳴った。振り返ると由起の顔は無表情に小河原を見据えていた。背筋が凍り付く。

「ただいま」声が震えてしまう。

「随分、遅いお帰りですね」由起が近付いてくる。

「ああ、昨日、お客さんの接待があって……」

「接待があるのはしょうがないけど、なんで泊らなければいけないの?」

 由起がくんくんと鼻を鳴らしている。立花の臭いがするのだろうか──。恐怖を感じながら後退った。

「いや、少し飲み過ぎて……気が付いたらビジネスホテルに泊まっていました」

 思い付くまま咄嗟に嘘を吐いた。

「まあ、自転車を盗むよりはいいけど……ホテルになんか泊まれるお金がよくあったわね?」

「まあ、なんとかカードで…」

「カード?使ったお金は会社の経費で落ちるの?」

「いえ、最近は宿泊代も認められなくて……今回は私の小遣いで払うと思います」

「領収書は?」由起が私の目の前に片手を差し出しながら言った。

「はい?」

「ホテルの領収書を出しなさいって言ってるの」

「えっ?ああ…領収書……いや、領収書は捨ててしまいました」

「どうも怪しい……本当にホテルに泊まったの?正直に言わないとただじゃおかないわよ

……じゃ、カード」

「カード?」

「そうよ!クレジットカードよ!早く出しなさい!」由起の金切り声に気圧され震えながら財布を出した。その中からカードを取り出し手渡すと、目の前で「ふん」と鼻息を一つ、両手でカードを二つに折られてしまった。

「無駄使いするんならあなたの小遣いを少し減らすわ。和也の私立中学の授業料だって馬鹿にならないのは分かってるわよね」

「……………」これ以上小遣いを少なくされたら堪った物ではなかった。

「返事!」

「はい、分かりました……」どこでも返事を強要される。

 由起は自分の部屋の方へ消えて行った。カードは無惨な形で足下に転がっていた。立花の香水の匂いだけでも由起に感付かれずにほっと胸を撫で下ろした。視線を感じ階段の中段辺りを見上げると息子の和也が立っていた。いつから見ていたのだろうか、蔑むような顔をして立っていた。「和也」そう呼び掛けたがまた二階の自分の部屋に戻って行った。後を追い和也の部屋のドアをノックした。

「和也、久しぶりに父さんと飯でも食べないか?」

 いつの頃からか会話がなくなった息子と話しがしたくなった。学校は楽しいのか?友達はできたのか?将来は何になりたいのか?小河原は息子のことを何一つ知らなかった。和也が小学校の四年の頃まではまだ三人で食卓を囲んでいた。頻繁ではないがたまの日曜日ウッドデッキのベランダでバーベキューをしたこともあった。和也が小学校を卒業するまではまだお互い会話があったが、小河原の帰宅時間が不規則になり、由起のヒステリックな性格が一層酷くなってからは息子も次第に小河原から離れて行った。クラブ活動もせず友人も作らず学習塾に通いただ黙々と勉強するだけの喜怒哀楽のない学生生活を送っていた。母の言いなりで、母の命令だけを訊いて生きている。事あるごとに由起が「お父さんみたいになりたくないでしょ?」と和也に呪文のように言い聞かせている。小河原の前でも平然とそう言いのける。それを和也は聞いているのかいないのか無表情に宙を見つめている。和也が何を考えているのかも父をどう思っているのかも分からなかった。ただ小河原を無視し続けている。「和也!」もう一度小河原は名前を呼んでみたがやはり返事はなかった。身じろぎもせずじっと息を殺しているのか物音一つ部屋からは聞こえて来なかった。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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