紫陽花が濡れそぼる頃 9(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 9(オヤジの小説・全33話)

2020年12月7日

 立花咲知が目の前に座っている。

 立花も目を丸くしている。小河原は立花がここにいる理由が理解できなかった。なぜ立花咲知がこの店にいるのだろう──。オカマクラブだがきっと彼女だけは訳があって女性なのだろうか。そんな店があると聞いたことがある。しかしビン子ママが言う。

「ねっ。マーちゃんって素敵でしょ?凄い美人って訳じゃないけど清潔感があって魅力的な女性だと思わない?これでオカマなのよ……マーちゃん、こちら小河原さん」

 頭の中が混乱した。目の前の立花に問い掛けようとしたが、立花は細く白い人差し指を唇の前に立てて小河原に「内緒」のサインを送った。

「初めまして。マサコと申します。宜しくお願い致します」

 立花は恭しく小河原に頭を下げた。

「小河原、つまらん会社の女よりマーちゃんの方がずっと魅力的だろう?」

 渡辺が分かったように傲慢な顔をして言った。全員で乾杯をしてからも小河原は暫く呆然としていた。どう考えても理解できなかった。もしかしたら立花にそっくりなオカマかと思ったが左目の黒子の位置まで同じだった。

「マサコさんは本当にオカマなんですか?」

「……ええ……」立花は答え難そうだったが否定しなかった。

「オガちゃん、ここはオカマクラブだもん。オカマに決まってるでしょ?」

 マンジョビッチはしたり顔を小河原の顔に近付けて言った。

 ここ一ヶ月程、自分は男に恋いこがれ、男に胸を時めかせていたのか?あの瞳もあの唇もあの華奢な体付きも全て男のものだったのか。妻よりも女性社員よりも今まで出会ったどの女性よりも彼女は穏やかで思いやりのある女性に見えた……それが、男?オカマ?自分の目は節穴か?……オカマだから人を寄せ付けないように振る舞っていたのか?だから自分と噂されるのを嫌って離れて行ったのか?そもそもなぜオカマがうちの会社で働くことができたのか?立花が男性?オカマ?……立花の夜の勤めは火曜日と金曜日と訊いていた。今日は金曜日で出勤日だ。確かに全てが当てはまる。数時間前まで女性だと思って話していたのに今は突然オカマだと言われ目の前に座っている。穴が開く程じっと見ても女にしか見えない。アルコールのせいで頭が旨く廻らない。思考回路が全く働いていない。これはもしかしたらどっきりカメラか?渡辺の悪戯?渡辺の顔を睨み付けたがマンジョビッチと楽しそうに談話している。立花に目をやると俯いて悄然としている。渡辺の悪戯ではなさそうだ──。

 小河原は目の前のウィスキーの水割りを一気で飲み干した。立花の顔の前にグラスを差し出して「お代わり」とぶっきらぼうに言った。立花はそのグラスを受け取り、ウィスキーと氷とミネラルウォーターを入れ、マドラーを白い指で丁寧に掻き回し新しい水割りを小河原の前に置いた。その水割りを乱暴に掴んでまた一気で飲み干した。それを見た渡辺が、ビン子ママが、マンジョビッチが、嬌声を上げる。四杯目になると「小河原さん、無理しないで」と立花が悲しそうに呟いた。彼女の目が涙で潤んでいるように見えた。小河原はやり切れなかった。考えても思考が纏まりそうになかった。ただ酒に溺れて思考を停止させてしまいたかった。小河原は飲み続けた。何杯も、何杯も。

 眠っていたというより気を失っていたような感覚だった。目覚めというより覚醒したという感じだった。意識が昨夜のどこかの時点で飛んでしまったようだ。見たことのない天井だった。眼球だけをぐりぐりと動かしてみた。薄い浅葱色のカーテンが見えた。薔薇の香りのような甘い匂いが鼻を掠めた。気怠いが気力で寝返りをうつと華奢な女の白い背中が見えた。混乱した。鼓動が激しくなった。瞼を擦った。少しずつ意識がはっきりし始め、必死に思い出そうとしたが記憶の断片さえもなかった。気合いを入れて起き上がった。二日酔いで頭に重い痛みが走る。下着一枚だった。隣に寝ていた女性の顔を背中越しにそっと覗き込んだ。白い肌の横顔にどこか見覚えがあった。立花だった。

 化粧を落とした顔は艶かしさは薄れたものの清楚な印象はそのままだった。立花の背中の毛布をそっと下にずらしてみた。白い薄手のワンピースパジャマで僅かな不安が過った。

 立花が気配を感じたのか目を覚ました。

「おはよう。眠れた?」

 立花が振り向き様眠そうな目をして小河原に訊いた。ほんの微かだが立花の体からも花の香りがした。白く小さな胸の起伏が小河原には眩しく目を逸らせずにいた。薄らと乳首が透けていた。肌の質感そして項から肩にかけてなだらかな曲線は女性そのものだった。ビン子ママかマンジョビッチが彼女は病院でホルモン注射の治療だけは受けていると言っていた。ホルモン注射だけでこんなに女性らしくなれるのだろうか──。

「すみません、何も覚えていないんですが……」恐る恐る立花に訊いてみた。立花が小河原の視線を感じてか毛布を胸に当てながら上半身を起こした。ベッドの背もたれに寄り掛かり話し始めた。

「連れの渡辺さんは一時頃先に帰って、あなたは閉店間近の四時頃まで飲んでたの。もう飲み過ぎてお店の中でも大声出して大変だったわ。一人じゃ帰れそうになかったから私も早めにお店を上がって大通りでタクシーを拾ってあげたんだけどまた大声出して暴れるもんだからタクシーの運転手さん、怒っちゃって……しょうがないから私も一緒にタクシーに乗ってここに連れて来たって訳。私が抱えて部屋まで連れて来たのよ」

「……すみません。私は何て大声で言ってたんですか?」

 ベッドの上でうな垂れながら訊いた。

「オカマなんて嫌いだ!とか、詐欺だ!とか」

「すみません。記憶にありません」

「いいの、本当のことだから……でも昨日は吃驚した」立花が困った顔をして言う。

「私もです。立花さん、昨日はちゃんと訊けませんでしたが、本当にオカマなんですか?」

「ええ、本当よ。黙っていてごめんなさい。正確に言うと性同一性障害」

 立花が観念したように溜息まじりに言った。

「性同一性障害?」

「訊いたことない?」

「訊いたことはあります」

「男の体で産まれて来たんだけど頭の中は女なの。女装趣味や同性愛者とはちょっと違うわね。一言で言ったら間違った性でこの世に産まれて来た人間ね」

「うちの会社で知っている社員はいるんですか?」

「誰もいないわ。私が男だって分かったら社員の方たちは嫌がるでしょう?世の中、私のような人間を雇ってくれる会社は少ないわ。年金や健康保険の手続きで私が男性だって分かってしまうから正社員には中々なれないの。ただ派遣社員なら派遣先の会社の社会保険に加入する訳じゃないから素性がばれないの。それで派遣会社の人に「私は性同一性障害ですが大丈夫ですか?」って相談したら担当の方がとても理解のある人で派遣社員として登録してくれたの。どこの派遣先の会社でも私の評判は良かったから派遣会社はずっと私を使ってくれた。それで四社目にあなたの会社に派遣されたの」

「だからいつも社員とは距離を置いて付き合っていたんですか?」

「そうね。みんなに男だと知れて働き難くなるのは嫌だったの。でもほんの少しあなたとは距離が縮まってしまった。だから怖くなったの。正直言ってあなたが離れて行くのは仕方がないけどあなたに嫌われたくなかった」

「…………」何も答えられなかった。昨夜からの自分の中の混乱と矛盾をたった一晩でどう解決しどう答えを出して良いのか分からなかった。

「ごめんなさいね。ちゃんとした女じゃなくて…」

 目の前に昨日まで女性と思っていた理想の女性像がいる。その女性がオカマであろうが性同一性障害であろうが昨日までの立花咲知には変わりはない。小河原が惹かれた容貌、知性、性格はそのままなのである。何が違うのかそれは立花が男性として生まれて来たこと、外見上の男性の肉体的特徴が一つだけ残っていること。ただそれだけだ。理性と感情の板挟みで小河原の気持ちは混乱していた。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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