紫陽花が濡れそぼる頃 6(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 6(オヤジの小説・全33話)

2020年11月8日

 長い一日がようやく終わり、小河原は会社のビルを出た。夕日に照らされたオフィスビルの中庭を通った。レストランのテラスがビルの一角にあってそのまた隅に立花らしき女性が座っているのを目にした。少し近付いてみるとやはり彼女だった。本を読みながらお茶をしている立花に小河原はそっと声を掛けた。

「先程はどうもありがとうございます」

 立花は太陽を避けるように手を翳して小河原を見上げた。声の相手が小河原だと分かると彼女は申し訳なさそうに小さくお辞儀をして言った。

「あ…こちらこそ失礼しました」

 静かなビルの谷間の一角の店内から古いジャズの名曲が程よい音量で流れていた。これ以上の会話は彼女の寛ぎの時間を邪魔してしまう気がした。少し間があって会話が続きそうもないと判断した小河原は「では」と頭を下げその場をから離れた。数秒して彼女は本を閉じ、背中越しに優しく声を掛けて来た。

「小河原さん、宜しかったら少しお相手して頂けませんか?」

 小河原は一瞬躊躇したがこんな魅力的な女性と同席できる機会を逃したら一生後悔しそうで踵を返した。店から注文を取りに来たボーイに小瓶のビールを注文して小河原は椅子に座った。

「いつも帰りはここに寄るんですか?」小河原は会話のきっかけに尋ねてみた。

「たまに」彼女の答えは愛想のないものだった。

「そうですか……」会話が弾みそうになく小河原は少し居心地の悪さを感じた。瓶の口にライムが刺さったビールが小河原の前におかれた。果たしてどうやって飲むのだろうかと思案していると立花が指で中に押し込めと身振りしている。恐る恐る瓶の中にライムを入れて一口飲むとすっきりとした爽快な味がした。小河原は立花に美味しいと笑顔で表現した。立花がそれを見て小さく笑った。その瞬間、立花は少し小河原に気を許したのかもしれない。

「ごめんなさい。こちらから誘っておいて……。実は私、週に二日だけど夜もお勤めしてるの。それでちょっとここで時間を潰してから出勤している訳」

「これからまたお仕事ですか?大変ですね」少し会話に弾みがついた。

「そうでもないわ。夜のお仕事はもう十年以上も前から続けているの」

「どんなお仕事されてるんですか?」

「だから夜のお仕事よ」

「えっ?水商売ですか?」意外だった。こんなに清潔感がある才女がなぜ──?

「そう、水商売………私もビールにしようかしら?」

 そう言って手を振り店内のボーイを呼んで「こちらと同じ物」と注文した。

「もしかしてホステスさんですか?」小河原は興味本位で訊いてみた。

「質問攻めね…まあ、そんなとこ。会社の皆さんには内緒にしておいてね。誰にも言ってないから……」

 立花は困惑気味に微笑んで言った。ボーイがスチール製のモザイクテーブルの上にビール瓶を置くと彼女は「これはもう下げてください」とボーイに言った。ボーイが残り少ない紅茶のカップとサイホンを持って行った。彼女はビール瓶を手に取りライムを押し込んで飲み始めた。ビール瓶を呷る横顔が不思議と凛々しく小河原は粋に見えた。そして立花の夜の秘密を会社の中で自分だけが知っていると思うと少し嬉しくなった。

「大丈夫です。誰にも言いません」

 これ以上あれこれ詮索するのは無粋に思えた。それから暫く二人は言葉もなくビールを飲んでいた。ついさっきまでの気まずい雰囲気とは違って小河原は二人の間に共有した時間が流れているように思えた。それは小河原の気のせいだったかもしれないが──。小河原は彼女の横顔に見惚れていた。左目の脇辺りにある小さな黒子がなまめかしく、その横顔が夕日のオレンジ色に染まって一層魅惑的に見えた。夕暮れ時の浴衣姿がきっと彼女には似合うだろう。魅惑的に見えるのは容姿だけではないのかもしれない。彼女の内側から発せられるオーラなのだろうか。謎の多い女性だからだろうか──?

 暫くして立花はボーイを手招きして勘定を頼んでいる。小河原が昼間のお礼に支払いを申し出たが聞き入れずに彼女はさっさと二人分の支払いを済ませてしまった。

「誘ったのは私だから……それではお疲れ様でした」

 そう言って彼女は深々と一礼し、薄暗くなったテラスから離れて行った。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。