紫陽花が濡れそぼる頃 5(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 5(オヤジの小説・全33話)

小説

 その日以来、今まで以上に気の重い日々が続いた。上司に頼らず、部下も当てにせず目立たぬようにただただ黙々と働いた。それが他人を寄せ付けない壁になるように思えた。しかしその壁さえ打ち砕かれた。遅めの昼食にコンビニで買って来たサンドイッチと会社のコーヒーで遅めの昼食を取っていると部長から内線で呼ばれた。同じ部屋の一番奥に部長のデスクがある。食べかけのサンドイッチを机の上に置いて慌てて部長のデスクに駆け寄リ座っている部長の正面に立った。
「ちょっと聞き捨てならない話しを耳にしてね」
 部長が憮然として話し始めた。嫌な予感がした。自転車窃盗の件が会社に通告されたのか──。
「君の課の社員から訊いたんだが……君、自分の部下に企画書の作成を頼んでおいて結局自分の企画書をお得意に持って行ったそうだね。しかも前日、その社員に企画書を早く上げろと急かしたそうじゃないか」
「はい、まあそうですが、ちょっと持って行けるレベルではなかったので……」
 警察沙汰の件でないと分かって少し安堵した。
「そうだとしても君が助言して書き直させれば問題はないだろう?部下の気持ちを考えることも上司の役目だろう?」
「はあ……」
「はあ?…はあ、じゃないだろ…それから君は終業時間間際で女子社員に雑用を頼んでいるようだね。もう少し早めに頼めば支障はないんじゃないかね」
 営業部長の声が次第に荒くなって行く。
「はい、でも……」
「君は今、管理能力が問われているんだよ。自分だけどんなに立派に仕事してもそれじゃ管理職として不充分なんだよ。我が社にスタンドプレイは必要ないんだ。もっと部下に信頼される上司になれないのかね。それとも部下に手柄を立てられたくないのかね……取り合えず今回は注意勧告だけで済ませる。それから誰が報告して来たか分かっているだろうが、逆恨みして部下を責めるんじゃないよ。分かったね」
「はい……」
 何も言えなかった。正しいことを言っても言い訳にしか受け取られかねない。悄然として自分のデスクに戻って行った。いつも仲違いしている野村と勝木の横顔には今回は共謀したのか狡猾な笑みが浮かんでいた。食欲も失せ食べ掛けのサンドイッチをそのまま引き出しに仕舞った。
 そもそもリーダーシップなんか自分にはないのだ。オーラもない。自信もない。だから他人から慕われる訳がない。課長なんて不似合いなのだ──。幼少の頃より人見知りも激しく、人前に立つことを極力避けて来た。成績はいつもクラスで三、四番だったが、学級委員など選ばれたこともないし、自ら進んでなろうとも思わなかった。虐められないようにいつも目立たぬように学生生活を送って来た。卒業して社会人として企業に所属してそれなりに働いて来たが消極的で陰鬱な性格はそれからも変わらなかった。故に現在上司に嫌われ部下に侮られている。 
 暗鬱な表情の小河原の目の前を派遣の女性社員が通り過ぎる。彼女の薔薇のような甘い残り香が鼻を掠めた。掃き溜めに鶴。彼女のような才色兼備な女性がなぜこんな中小の広告会社で働いているのか不思議でならなかった。彼女なら大手広告代理店でも放っておかないような気がした。協調性に欠けているのだろうか──。会社の中でも親しくしている女性社員がいるようには見えなかったし、男性社員と個人的に付き合っているようにも見えなかった。敢えて社員と距離を置いて孤立しているように見えた。しかも派遣社員のせいか彼女の詳細な情報は伝わって来ない。名前は立花咲知。年齢は不詳、多分、独身。福岡の柳川出身で東京女子大卒業と言う情報ぐらいだった。しかし仕事は人一倍的確にこなす。営業部の誰もが彼女の仕事っぷりを認めている。だからと言って高慢でも冷淡な訳でもなかった。言葉使いも礼儀も弁えていて愛想も悪くない。だがどこか気安く声を掛けられる雰囲気ではなかった。それは多分彼女の持つ気品のせいかもしれない。
 彼女に見惚れているその時、野村が近付いて来た。
「課長、俺が書いた企画書、返してくれませんか?グローバルホテルの宣伝部に俺の企画書を持って行きますから」野村が得意満面で鼻息荒く言う。
「いや、しかしこの企画書では……」胃がきりきりと痛み始めた。
「持って行けるレベルじゃないって言うんですか?あんたにそんなことが分かるのかよ?」
 机の上にあった野村の企画書の上に手を置いて野村に渡すのを阻んだ。その企画書を横から取り上げられてしまった。派遣社員の立花だった。
「ちょっと拝見致します」と言いながら彼女は企画書のページを捲って目を通している。五、六ページ程度の企画書を立花はさっと目を通し大きく息をして一気に捲し立てた。
「野村さん、少し言わせてもらうわ。まずあなたの企画書、誤字脱字が多すぎるわ。このページの〝確立〟の〝立〟が〝率〟になっています。〝それからここ、この場合〝保障〟の〝障〟は証明書の〝証〟じゃないわ。それからここ。〝意外〟はこの〝以外〟じゃありません。誤字が多過ぎて見るに堪えないわ。殆ど変換ミスね。いつもゲームばかりやって本も新聞も読まないから漢字が分からないんでしょ?…ここなんか最高ね。〝経済波及効果〟は〝経済は急降下〟になってるわ」
 周りの社員が聞き耳を立てて失笑があちこちで聞こえた。野村は社員たちの目を気にしてそわそわしている。そんなことはお構いなしで立花は平然と野村に苦言を呈し続けた。
「書き終わったら何度かチェックしなきゃ。このままクライアントに提出してたらあなた大恥を掻いてたわよ。文章だってどれが主語だか述語だか分からない。コンセプト以前の問題で企画書になってないわね。それから〝セグメンテーション〟とか〝ベクトル〟とか〝ストラテジー〟とかカタカナ文字が多過ぎるわ。理解して使っているの?カタカナ使えば格好良くなると思ってるの?読み辛いし、分かり辛くなるだけよ。それよりもあなた、もう少し普段の言葉使いを何とかできないの?社会人のくせに自分のことを〝俺〟なんて言ってるんじゃ、課長だってあなたをお得意に連れて行けないわよ。そのヤンキーみたいなヘアスタイルも社会人として失格よ。どこの大学を卒業したのか知らないけどもっと勉強することね!」
 立花は澱みなく野村の目を見据えて企画書のそして彼の全ての欠点を的確に指摘した。そして手にした企画書を丸めぱっと落とした。企画書は小河原の机の脇にあったゴミ箱の中にすっぽりと収まった。野村は何も言えず目を白黒させて唇は小刻みに震えていた。さらに追い討ちをかけるように立花が叱り付けた。
「何か言いたいことがあるなら言ってご覧なさい!」
 野村はすごすごと自分の席に戻って行った。立花が目の前に座っている小河原に向き直って「すみません。出過ぎたことをしてしまって……」そう言って静かに部屋から出て行った。小河原は「ありがとう」の一言も言えず唖然としていた。それから妙に可笑しくなって必死に笑いを堪えた。胸の支えが取れ、気が晴れている。彼女の後を追って礼を言いたかった。部屋を出て通路に出ると女子トイレに入って行く彼女の姿が見えた。さすがに中に入って行くこともできないのでトイレ付近の通路で彼女が出て来るの待った。後からやって来た勝木が小河原を一瞥して通り過ぎトイレの中に入って行った。誤解されそうな気がして営業部の部屋に戻ろうとしたその時、トイレにはドアがなく壁で隔てられていただけで中からの勝木の声がはっきり聞こえた。
「立花さん、さっきは凄かったわね。私、感心しちゃった。私もあの野村って若いのは余り好きじゃないの。すっきりしたわ」
「それはどうも」
「ねえ、今度、うちの会社の女子会で温泉ツアーを計画してるんだけど、立花さんも一緒にどう?」
「温泉ツアー?……ごめんなさい。私、温泉のお風呂って熱くて入れないの。ぬるま湯しか入れなくて……」
「大丈夫よ。そこの温泉、内風呂もあるから、ぬるま湯にも入れるし……それにそこの料理、美容にいいんだって…」
「ごめんなさい。やっぱり遠慮しておくわ」立花は会話を遮るように答えた。
「そう、残念ね……じゃあ、今度飲みに行かない?」
「そうね」立花は気のない返事をした。彼女はやはり人付き合いが苦手なのだろうか。内風呂のある温泉、評判の料理、大抵の女性なら興奮して誘いを受ける筈だ。それとも自閉症?アスペルガー症候群?そんな風には見えないが──。小河原は改めて礼を言うことにして、足音を立てずにそっと自分の席に戻った。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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