紫陽花が濡れそぼる頃 4(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 4(オヤジの小説・全33話)

2020年10月18日
小説

 新宿三丁目の地下鉄入り口の前で渡辺と別れ何とか終電に間に合ったが電車に揺られているうちに気分が悪くなって来た。清瀬の二駅前のひばりが丘駅でついに我慢できず電車を飛び降りた。ホームから二階の改札口に繋がるエスカレーターに乗ってトイレに駆け込んだ。個室に入って鍵を掛け倒れるように便座にしがみ付き、便器の中に顔を突っ込んだ。捻れる胃の痛みに耐えながら、涙を流して胃の中の物を全て吐き出した。「身の程知らず」「自業自得」「愚か者」自分を戒める言葉が頭の中で反響する。胃の中が空っぽになるとようやく吐き気が収まりふらふらと小河原は立ち上がった。便器の横にあるボタンを押して水を流した。改札口付近にはすでに誰もいなかった。時刻表を見ても後から来る電車はもうなかった。ふらつく足取りで改札口を出て階段を下りると直ぐにタクシー乗り場があった。終電が走り去って乗降客が一人もいないのにたった一台だけタクシーが停まっていた。財布の中を覗くが草臥れた千円札が一枚しかなく、とても自宅までの料金には届かなかった。フロントウィンドウをノックしてタクシーの運転手に声を掛ける。

「カード使えますか?」そう訊くと運転手はウィンドウを下ろして迷惑そうに「だめだめ」と手を横に振る。家に着いてから乗車料金を払う手もある。しかしそうすれば妻をこの真夜中に起こし、こっぴどく罵声を浴びる可能性がある。「酒を飲んでタクシーで帰るなんてお前は自分を何様だと思っているのか?」と一時間以上説教されるだろう──。想像しただけでもましかった。二駅ぐらい何とかなるだろうと清瀬に向かって歩き始めた。

 二時間も歩けば自宅に着くだろうと思ったが、吐いたせいで体力をすっかり消耗し通勤鞄はいつもより数倍重く感じられ足腰も辛くなって行った。ようやく一駅先の東久留米駅付近に着いたがこれ以上歩く気力も失せ、駐輪場に停めてあったママチャリの荷台に腰を下ろして一息ついた。自転車があればと思った。ふと良くない考えが浮かんでその自転車のハンドルを握ってそっと押してみた。すると抵抗もなくすっと前に動いた。鍵は掛かっていなかった。ハンドルの前の駕篭に通勤鞄を縦に突っ込みゆっくりとママチャリを漕ぎ出した。明日の朝、早く起きて元の場所に戻しておけば問題はないだろうと思った。ちょっと借りるだけだ、盗む訳ではない、必ず返すからと罪悪感を感じながらも自分に言い訳してペダルを漕いだ。国道をハイスピードで飛ばし、順調に家に近付いているのが分かる。少し気分も良くなっている。春の心地よい風が酔いを醒ましてくれている。この調子で行けば三十分もあれば自宅に到着するだろう──。

 緩く長い坂道に差し掛かりペダルを強く踏んだ。少し息が上がった。やっと坂道を上り切ると今度は長い下り坂になり、ママチャリはペダルを踏まずとも速度を上げた。信号が青でそのまま交差点を突っ切ろうとした時、目の前に赤色灯を持った警官が現れた。小河原は青ざめ緊張した。心臓の鼓動が早鐘のように鳴っている。また吐き気がぶり返して来た。多分昼間なら顔色が悪くなっているのは一目瞭然だったに違いない。赤色灯が警官の頭の上で左右に振られ小河原は仕方なく自転車を止めた。警官が怪訝な顔で職務質問を始めた。

「これからどちらに行かれるんですか?」

「はい、自宅に帰る途中です」声がうわずっていた。

「失礼ですがお名前を聞かせていただけますかね?」

「は、はい、小河原と申しますが……」

「小河原さんですか?この自転車に書いてある名前と違いますけどなぜですか?」

「ちょっとその方にお借りしたんです」

「その方のお名前は?」

「はい?」

「だからここに書いてある方の名前は?」

 警官は自転車の後輪の泥除けの後ろに書いてある名前を指して言った。しかし暗くて自転車の名前は見えなかった。小河原は嘘を吐き通せないと観念した。

「すみません。持ち主の方には無断でお借りしました」と小河原は白状した。

 警官はそれ以上何も言わず無線機で連絡を取った。

「東村山署ですか?こちらサイトウ。東久留米の交差点で自転車窃盗犯、現行犯逮捕、至急ピーシー(パトカー)一台、要請したい」

 五分後にパトカーが到着して、警官二人が降りて来た。警官に両脇を挟まれて座るのかと思ったが奥の窓際に押し込められ、手錠も掛けられなかった。テレビドラマでよく見る光景とは違うなと感じている内に派出所に着いた。小河原がパトカーの右側のドアを開けようとすると左隣に座っていた警官が「そのドアは開かないから」とぽつりと忠告した。

「えっ?」ちょっと理解できないでいると「逃げられないようにしてるんだ。こっちのドアから降りなさい」と警官は苛立って説明していた。左側のドアから隣に座っていた警官と一緒に降りた。七八坪程の派出所の奥にパイプ椅子が四脚備わっているテーブルに座らされ約二時間供述聴取を受けた。一通り取り調べが終わると警官は聴取を復読し、事実に相違ないことを確認した上、小河原の両手の指十本全ての指紋を採取した。小河原の消沈した表情を見てか警官たちも厳しく責めることはなかった。やっと解放されるかと思ったが警官がパトカーで自宅まで送り届けると言う。歩いて帰るからと小河原は必死に断ったが本人を反省を促すためにも家族に引き渡すのが規則だと戒められた。正直言って警官よりも妻の由起の方が恐ろしかった。パトカーの中で妻に何と言い訳しようかあれこれ考えたが良策は何も思い浮かばなかった。自宅にはものの十分で自宅に着いてしまった。

 警官二人が家の前で降りて小河原の腕を取り玄関の前まで連れて行った。玄関のチャイムを警官が鳴らす。明け方近くで妻は熟睡しているのか中々返事がなかった。警官が何度かチャイムを鳴らしてやっと二階の部屋の明かりが点き妻の声がドアフォンから聞こえた。

「どちら様でしょう?」不機嫌で眠そうな声だった。

「警察のものですが…奥さんですか?」

「はい……」

「奥さん、玄関口においで願えますか?」

 玄関のドアがゆっくり開かれ恐る恐る妻が顔を出す。警官二人に腕を掴まれすっかりしょげ返っている小河原を見て妻は目を丸くしている。

「あなた!何をしたの?」

「奥さん、お宅の旦那さん、今夜自転車を窃盗しまして……まあ今回初犯でしたし本人も反省もしているようなので調書だけで済ませましたが二度とこう言うことがないように奥さんからも厳しくご指導願います」

「……はい、申し訳ありませんでした」由起は警官に深く頭を下げ謝っていた。

 それから出勤する定時まで小河原はどれだけ妻に罵られたか。何も言い返すことはできず、ただ俯いて妻の言葉にじっと堪えていた。口答えなど到底できる筈もなく許される言葉はただ一言「すみません」。数え切れない程繰り返した。

 一睡もできずそのまま着替えもせずに胃薬だけ飲んでまた会社に向かった。電車の中では運良く座れたが右隣の若いサラリーマンはゲーム機のボタンを忙しなく押し続けて、左隣の中年の女性は携帯電話の液晶画面を爪で気忙しく叩いている。二つの音が混ざり合って頭の中で響いていた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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