紫陽花が濡れそぼる頃 3(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 3(オヤジの小説・全33話)

2020年10月8日

 新宿三丁目の伊勢丹の入り口で渡辺と待ち合わせた。学生時分から引っ込み思案の小河原は渡辺に良く新宿のネオン街に連れ出されたものだった。伊勢丹裏の末廣亭側の居酒屋が行きつけの店だった。あの頃はこの辺りも結構うら寂しい飲食街だったが、今ではお店もネオンも随分増えて小綺麗になっていた。末廣亭を背に少し歩いて左に折れた所に馴染みの居酒屋がまだそこにあった。重量感のある木製のドアを開けると三十年前と変らぬ内装で古い木と黴の臭いがした。木造の階段で三階までフロアがあり自由にテーブルを選べた。二人は一階の奥の止まり木に腰を下ろした。取合えず生ビールのジョッキを注文し、杯を合わせ乾いた喉に流し込んだ。冷たいビールが胃の中に収まるとアルコールが胃に沁みて鋭い痛みを感じた。

 渡辺は大学卒業後、都市銀行に入行し、五十歳になると大手建設会社に転職した。建設会社では融資関係や情報交換など銀行との橋渡しになって働いていた。大学を卒業して直ぐに結婚したため二人の子供はもう数年前に社会人になって本人は気楽な人生を送っていた。驚くことに渡辺は未だに妻と一週間に一度の性交渉があるらしい。同年齢で未だ夫婦愛が持続しているとは冷え切った家庭を持つ小河原には信じられなかった。何も悩みのない渡辺が幸せに見えた。同じキャンパスに通っていた時は小河原にも明るい未来が待っていると信じていた。こんな筈じゃなかった──。人生勝ち組の友人の姿を見て小河原は酔うにつれ自分が哀れに思えて来た。 

 二時間程、学生時代の思い出話と近況を話し合い、二人はビールからウィスキーの水割りに切り替えて数杯のグラスを空けた。ある程度の酒量を飲むと胃も麻痺して鈍化するのか痛みを感じなくなった。渡辺がもう一軒行こうと赤ら顔で誘った。小河原は持ち合わせが少なく考え倦ねていたが、それを渡辺が察したようで「俺が奢るから行こうぜ」と腕を組まれ力強く引っ張られて行った。

 末廣亭を背に路地を抜け、暫くすると新宿通りと靖国通りを交差する広い道路にぶつかる。この先が新宿二丁目だ。昔は意味ありげにここから見る二丁目を「川向こう」と呼んでいたらしい。小河原は二、三度下請け業者に接待で連れて来られたことがあったがあの世界のけばけばしい陽気さがどうも自分にはそぐわず場違いな気がした。自ら進んで足を運ぼうと思わなかったから二丁目も久しぶりだった。以前訪れた時よりも通り沿いのビルの袖看板が増えているような気がした。途中で渡辺に「あの手の店に行くの?」と訊いてみた。「まあな。たまにはいいだろ?暗い気持ちも吹っ飛ぶぞ」と見透かしているような答えが返って来た。

 見覚えのあるルミエールと言うアダルトショップがまだ残っていた。ゲイ向けのアダルトショップもかなり増えていた。ゲイバーだけでなく最近はレズビアン向け、男子禁制の女性向けの店も増えているとテレビのドキュメンタリー番組で見たことがあった。

 歩道に「クラブMACAO」とショッキングピンクの電飾看板の前に地下に続く階段があった。その階段を下りて黒い金属製のドアを開けるとカウベルが鳴りいきなり黄色い声と煙草の煙で歓迎された。十坪程度の店内に二十人ぐらいの客とホステスがいた。この不景気にこれだけ入っていれば盛況と言っていいだろう──。オカマたちは和服姿、イブニングドレス、チャイナドレスと様々な装いで接客している。渡辺と小河原が初老のバーテンダーに奥のL字型のボックスシートに案内されると直ぐにオカマ二人が席にやって来た。座るや否や嬌声が上がる。

「いらっしゃーい!久しぶり~。ナベっちー!」

 渡辺はナベっちと呼ばれここでは馴染みの客のようだった。

「きゃー!もうずっと待ってたんだから~。ねえねえ、ナベっち、こちらのおじさま、紹介してくれる?」

「よしよし、だがまあ待て。取り敢えず乾杯と行こう」

 乾杯の奇声が一斉に上がった。

「こちらは私の大学の同級生で小河原君。今、市ヶ谷の広告代理店に勤めている。結構、堅物でね。まあ宜しく頼むよ」渡辺が改まった口調で言う。

「初めまして。あたし三田マンジョビッチで~す。ヨロピクう」右隣の筋肉質の大柄なオカマが科を作りながら名刺を出して来た。黒いドレスの二の腕部分が細い紐で交差していてどう見てもボンレスハムにしか見えなかった。

「あら、マンジョビッチ酷いわね。こう言う時は私から挨拶するのよ。初めまして。私がここのママ、宇田川ビン子です。宜しくお願い致します」

「あら、ママ、ごめんなさ~い。でもこの世界、早い者勝ちよ~」

 ママというよりババア、ババアというよりジジイが正しいのだろうが、厚化粧で皺深い顔立ちに和服姿のビン子ママが袂を抑えながら女らしく小河原に名刺を差し出した。その名刺を両手で恭しく受け取っている時、渡辺がマンジョビッチの胸を鷲掴みにしている。

「いや~ん。ナベっち、形が崩れるう~。幾ら掛かってると思ってんのよ!百万よ」

 大柄のオカマが胸を押さえながら口を尖らせて言う。

「へえ、百万か。オカマの豊胸手術は女性よりも金が掛かるのか?」

「バッグの大きさによるのよ」

「バッグ?詰め物のことか?」

「そうよ。それ以外にも私の場合、顔が五十万、あそこがタイに行って五十万。……あたしなんか少ない方よ。まあマーちゃんには敵わないけどね」

「マンジョビッチ、人のことはいいの!」ビン子が制している。

「いいじゃない。マーちゃんだって別に気にしないわよ」

 構わずにマンジョビッチが話を続ける。

「だってあの子、全身どこも手術してないんだもの。ホルモン注射だけなんだって」

「マーちゃん、って方がいらっしゃるんですか?」

 小河原が間に入ってチイママに尋ねた。

「ええ、今日はお休みなんだけどちょっと可愛い子がいるのよ」

「でね、その子まだ尻尾付いてんのよ!全然そんなのが付いてるようには見えないの」マンジョビッチが追い打ちを掛ける。

「ふーん、ところでビン子ママはアレ付いてんの?」渡辺はからかうように言った。

「うふふ…もうとっくに取っちゃったわよ~。ナベっち、試してみる?」

 上目遣いで不気味に笑っている。

「いや、ごめん、俺は何度も言うようにノンケ(異性愛者)なんだ」

「何言ってんのよ!あたしもマンジョビッチももう体は完璧に女よ……それよりマーちゃんの方が怖いわよ。アレ、付いてんだからナベっちがネコ(受け身)でマーちゃんがタチ(責める方)だって可能性もあるし…」ビン子ママが意地悪そうに流し目で言う。

「そうか。俺がやられちゃうのね。でもマーちゃんにだったらいいかも」

 渡辺はどうやらマーちゃんというオカマを知っているようだった。

「なによ~!あたしとビン子ママじゃ嫌だって言うの~?」

「だめ!お前ら、汚い!」

「ひっど~い!」「ナベっち、最低!」店中にオカマのダミ声が響く。

 そんなやり取りを小河原はじっと訊いていた。真っ赤なボックスシート、紫色のテーブルクロス、悪趣味と呼べる程のシャンデリア、この非現実的な世界に住む人種たちは全く小河原が考えもしない性的な会話をしている。しかし冷たい悪意のある感情はどこにも存在しない。刹那的かもしれないが底抜けで陽気な雰囲気が漂っている。銀座のクラブの気取ったホステスとは違い自分たちを飾らずに(?)生きている。しかし小河原にはやはりどこか場違いのような気がしてならなかった。根暗の人間が陽気な世界に溶け込める筈がなかった。こんな不思議な世界はいつ、どうやってできたんだろう。なぜこの二丁目という区域がこのようなゲイの街になったのだろう──。この六十をとうに越えていそうなビン子ママなら知っているかもしれないと思った。

「ちょっとお尋ねしたいんですが、どうしてこの二丁目にオカマやゲイのお店が沢山できたんですか?」小河原はビン子ママに訊いてみた。「そんなこと訊きたいの?」と言いながらビン子ママは姿勢を正しコホンと一つ咳払いをして話し始めた。

 ビン子ママ曰く、戦後、新宿二丁目は風営法の許可を得て赤線地帯として生き延びたが、昭和三十年代の初めに売春法が施行され、多くの売春宿が消えて行ったそうだ。その空いた物件にゲイたちが集まり、世間で認められない同性愛者たちは二丁目で寄り添うようにして生きて来た。そしてこの地はやがて世界最大のゲイの街に変貌して行ったのだと。しかし昨今ではインターネットのおかげでゲイ同士が直接出会えるようになり、多くのゲイたちは何も二丁目に来る必要がなくなったらしい。いずれは二丁目の存在価値も薄れ完全に観光化するのではないかとビン子ママは溜息まじりで嘆いていた。

 しんみりしていた雰囲気を掻き消すようにマンジョビッチが大きな声で発破をかけた。

「オガちゃん、もっと飲みましょうよ」いつの間にか「オガちゃん」になっている。

「そうですね。じゃ、飲みますか」マンジョビッチの一言で小河原の暗い心に小さな火が点いた。会社や家庭の憂さを晴らしたかった。それ程酒に強くない小河原がウィスキーの水割りを一気に飲み干した

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。