紫陽花が濡れそぼる頃 2(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 2(オヤジの小説・全33話)

2020年9月30日

「すみません」

喉の奥が乾いて塞がっているようで嗄れた咳を二、三度繰り返した。同時にきりきりと絞り上げるような胃痛が起こった。医者から逆流性食道炎だと診断されていた。ストレスと過労を避けアルコールを控えるように医者から言われたがどちらも到底無理だと思った。ストレスがあるから酒を飲んでしまうのだ──。

 部長はメモ帳を閉じ何も言わずに立ち上がり、ドアが壊れる程の音を立て会議室から出て行った。内ポケットから胃薬を出し目の前の紙コップの水で数錠嚥下した。課長たちの咳払いや小声が聞こえ会議室は気まずい雰囲気が漂っていた。やがて彼らも冷たい視線を小河原に浴びせながらぎこちなく出て行った。

 他部署の成績も大手ばかりの取引先にも関わらず小河原の部署と売り上げもそう変わりなく、不景気の呷りを受けていた。入社以来、営業部長には嫌われていたが、いつかは小河原の努力が認められる日が来るだろうと思っていた。しかし部長との関係は一向に改善されず溝は深まるばかりだった。もう少し部長に胡麻でも擦れば心証も良くなるかもしれないが不器用な小河原にはどうしても媚び諂うことができなかった。そもそも小河原自身、課長職なんか相応しくないと思っていたし、十年前の当時、部長に造反した社員がごっそり退社して自然と課長職に昇格してしまっただけだった。昇進が内定して社内の掲示板に辞令が貼り出されるまで妻の由起には黙っていた。途中で昇進の話しが流れでもしたら由起に何と罵られるか怖かったからだ。辞令が出た日についに妻に告げたが予想に反する言葉が返って来た。

「あなたが課長になれる会社なんて底が知れてるわ」

 それから数年後「あなたはもう課長止まりね。いつまでも万年課長なんて私が恥ずかしいのよ」今度はそう吐き捨てるのだった。

 自分の席に戻って何とか昨夜まとめた企画書の最終チェックを済ませたかった。パソコンを起動し企画書に取り掛かろうとした時、野村が近付いて「企画書ができました」と鼻息荒く小河原の顔の前に企画書を突き出した。一瞬、手を伸ばすのを躊躇したが「ご苦労様」と言って受け取った。野村はその場で確認して欲しいのか目の前でホストのようなヘアスタイルの前髪を指で弄りながら突っ立っていた。

「後でゆっくり読んでおきます」と言ってパソコンに向かい直った。野村が不満な表情をしているのに気が付いていたが小河原は無視した。所在無さげに自分の席に戻る野村を尻目に企画書に集中した。三十分後、小河原の企画書がようやく完成した。一息ついた時、机の脇に置いていた野村の企画書にさらっと目を通したが案の定、得意に提出できる代物ではなかった。今日が約束の期日だったので野村の企画書を修正する時間もなくまたそのつもりもなく得意には自分の企画書で通そうと決めていた。

 午後になって東京グローバルホテルの宣伝部に向かい、担当の上田に企画書の趣旨を説明した。上田は熱心に何度も読み返し、結構気に入っているように見えた。上田はうんうんと頷き細かな点を質問して来た。一通り小河原が説明し終わると上田はこの企画書を上司と相談して検討すると言う。東京グローバルホテルは小河原の部にとって唯一の大手取引先だった。この企画書が実施に漕ぎ着ければ会社の利益に繋がる筈だ。これで少しは営業部長の心証も良くなるに違いないと思った。意気揚々としてホテルを出てそのまま幾つか得意先を廻り退社時間間近に会社へ戻った。

 席に付くと直ぐさま野村がやって来た。

「小河原さん、酷いじゃないですか!俺、グローバルホテルに連絡したんすよ。いつ企画書を持って行けばいいかって訊いたら、もう小河原さん俺に黙って持ってったそうじゃないすか?何で俺を連れてってくれなかったんすか?」早口で野村は捲し立てた。

「いや、実は今回は私だけでもいいと思って……」

「なぜっすか?俺が書いた企画書っすよ。昨日は自分ちで夜十時まで掛かって作ったんすよ。得意先に連れてってくれてもいいじゃないっすか」

「そうですね。でも今回は私が作った企画書を持って行きました。だから……」

「えっ、俺の企画書じゃないの?…あんたの企画書?」

「ええ…まあ」小河原はたじろいだ。

「じゃあ、何で昨日せっついたんだよ?最初からあんたが書きゃあいいだろ」

 言葉が荒っぽくなって野村が顔を近付けて来た。

「君の企画書でも良かったんだけどまだお得意に持って行けるレベルではなかったから……」必死に納得させようとしていた。背中に嫌な汗が流れた。

「レベルう?俺の書いた企画書がそんなに駄目だってえのか!」

「いや、そう言う訳じゃなくて……」部下が怖かった。目頭に少し涙が溜っていた。

「そうか、だったらもう俺に企画書なんか書かせんなよ。……分かったか?」

 どう答えていいか分からなかった。

「返事!」さらに野村が顔を近付けて大きな声で恫喝した。

「は、はい。すみません。分かりました」小河原は蚊の泣くような声で答えた。周りの社員たちは二人のやり取りを黙って見ていた。小河原はフロア中の社員たちの軽蔑した視線を感じていた。あざ笑っている勝木が視野に入った。

 しかし彼らの視線の中に憤った別の感情を感じた。その視線の主は数年前から営業部の経理事務として勤め始めている派遣の女性社員だった。三十代半ばの独身で優秀だと小河原も彼女の評判を訊いていた。清楚で品のある彼女に男性社員たちは一目置いていた。彼女は誰にも媚びる様子もなく淡々と事務をこなしていた。いや、媚びないどころか個人的な関係を拒絶しているようにも見えた。それでも男性社員は競って彼女の気を引こうとするが彼女は旨い具合に男性社員たちをあしらっていた。小河原は彼女に仕事を依頼したことも会話を交わしたこともない。自ら声を掛ける勇気もなく手の届くような女性でもなく自分とは別世界の人間だと思っていた。遠くで眺める高嶺の花にしか思えない。その可憐な花が小河原に向かって苛立ち凝視している。その視線にも堪えられなくなって小河原は目を背け洗面所に向かった。

 洗面台で顔を洗って拭おうとすると備え付けのペーパータオルが切れていた。仕方なく個室のトイレットペーパーを巻き取って顔を拭いた。紙が解け顔に紙の滓が張り付いた。目が赤く充血していた。なぜこんなに小心者なのだろう?なぜもっと言いたいことが言えないのか?──自分の不甲斐なさが無性に情けなかった。

 そこに隣の営業四課の課長、望月が入って来た。営業会議で部長に率先して胡麻をすっていた課長だ。この太鼓持ち風情の男を部長は気に入っていた。銀縁のインテリ風の眼鏡を掛けた望月の目と鏡越しに目が合った。望月が小便器の前に立つとベルトを外し、ズボンを太腿まで降ろして用を足し始めた。以前本人自らが釈明していたが望月はこうしないと落ち着いて用が足せないのだと言う。

「お前、あれじゃ上司としての示しが付かんだろ?もっとびしっと言ってやったどうだ?」望月は用を足し終わると洗面台で手を洗いながら上から目線で話し掛けて来た。小河原は何も答えなかった。言えばまた何か説教じみた言葉が返って来るだろうと思った。早くトイレから出て行って欲しかった。望月の蔑んだ視線を横顔に感じながら目の前の鏡の中の自分を見て顔に付いた紙の滓を拭った。

「ちっ、ぱっとしねえ奴だな」望月は憎まれ口を叩いてトイレから出て行った。

 胸ポケットに収めていた携帯が鳴った。二つ折りの携帯を開くと液晶画面には「渡辺」と表示されていた。大学時代からの友人だ。電話の向こうから巣頓狂な声が聞こえた。

「今日、暇かあ?」いきなりの挨拶だった。

「ああ、多分、大丈夫だけど……」そうは言ったが酒を飲む気分ではなかった。

「じゃあ、飲もう」

 考える猶予もなく場所と時間を指定された。渡辺とは一年振りの再会だった。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。