紫陽花が濡れそぼる頃 1(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 1(オヤジの小説・全33話)

小説

この物語は事実に基づいています。2013年作品

 四つ離れた事務机に座わる部下の野村に声を掛けた。
 しかし野村は聞こえなかったのか何の返事もせず依然パソコンの画面に向かっていた。小河原はもう一度声高に呼んでみた。野村の舌打ちが微かに聞こえた。ようやく野村は重い腰を上げのそのそと近付いて来た。小河原は目の前に立つ大柄な野村に今週提案する企画書の進捗状況を尋ねてみた。
「今、やってますが…」野村は目を合わせず前髪を弄りながら憮然とした表情で答えた。
「そうですか。それでいつ仕上がりますか?」
 小河原はこの二十代半ばの社員にできるだけ穏やかな口調で訊いた。
「だから今一生懸命やってます」答えになっていない無愛想な返事が返って来た。
「一週間前に伝えたと思いますが…お得意に提出するのは明日なんですが…」
 小河原は元々気弱な性格で他人に対して強く発言することができず、部下を諌めたり諭したりするのは苦手だった。だからいつも部下の機嫌を損なわないように下手に出た。
「できてないんだからしょうがないっしょ?……もう席に戻っていいっすか?」
 野村の太々しい反抗的な態度が小河原の胃を締め付け喉元に胃酸の苦みを感じた。小河原は野村にもう一度仕上がる時間を確認しようとしたが、野村はまた舌打ちをして席に戻って行ってしまった。


 小河原は気を取り直して今度は野村の目の前に座っている勝木と言う女性社員に声を掛けた。勝木は直ぐに小河原の席に近付き「はい、お呼びでしょうか?」と高圧的な態度で上から小河原を睨み付けた。彼女は女性社員の中ではリーダー的な存在でそろそろ三十に手が届く年頃だった。そして小河原のような気弱な人間に対していつも冷淡に接していた。小河原はつい「かつき」ではなく「かちき」と呼びそうになる。
「勝木さん、この企画書を十部ずつコピーして製本して欲しいんですが……」
 勝木は自分の腕時計を見て顔を顰めている。
「もう退社時間ですよね。今から始めたら一時間以上掛かってしまいます。私、今日は友達と約束があるんです。何でもう少し早く言ってくれないんですか?」
 狐目がさらに怒りで吊り上がっている。小河原はまた小さく溜息を吐いた。
「すみませんでした。私がやりますから今日はお帰りください」
 敵意を剥き出しにして勝木は席に戻ると大袈裟な音を立てながら帰り支度を始めている。小河原は若い部下にいつも侮られ、敬われた経験は過去一度もなかった。毎年三月の決算を終え新年度を迎えると各部署で人事異動があり、もう少しまともな社員が配属されるのではと微かに期待していたが、小河原の課の人事は何も変わらなかった。野村と勝木だけではなく小河原の課は無気力で無能な社員の吹き溜まりだった。会社が扱い難いと評価した社員は全て小河原の課に配属された。しかも野村と勝木はいつも歪み合って二人のいる周りの雰囲気は最悪だった。また胃液が込み上げ胃の痛みがさらに酷くなった。引き出しの中から常備している胃薬を取り出し目の前の冷めた珈琲で数錠飲み下した。


 営業部の社員全員が退社し、小河原一人が節電モードの薄暗い部屋に残っていた。彼の机の真上の照明だけが点いて、野村に頼んでいた企画書を自分で作り上げようとしていた。営業部のフロアは不気味な程暗く静かだった。夕食も取らずパソコンと格闘してふと自分の席の真後ろにある掛け時計を見上げると深夜十二時を廻っていた。まだ企画書は完成していない。後二時間ぐらいで仕上がるだろうとパソコンと資料を通勤鞄の中に突っ込み、慌てて有楽町線の市ヶ谷駅に向かった。途中で歩きながらスーツの袖を通すのに危うくパソコンの入った鞄を落としそうになった。駅近くで電車に駆け込む人たちを見て小河原も走った。階段を駆け下りると十二時半の終電がちょうどホームに到着した。
 
 市ヶ谷の広告代理店に勤めてもう十年が経とうとしている。大学を卒業してからの転職は三度目だった。JRがまだ国鉄と呼ばれていた頃、最初に入社した会社では駅構内の壁面媒体や車両の中吊り額面広告を扱っていた。スポンサーを見つけてこれらの媒体を売る商売だった。十人足らずのこの小さな広告代理店に七年勤めた。その頃、母の勧めで見合いをし、その相手とあっさり結婚した。相手がさほど気に入った訳でもなくそろそろ年貢の納め時だと半分観念しての結婚だった。独り身なら安月給でも何とかなったがその当時の給料では夫婦二人の生活は苦しかった。妻は大学を卒業してから一度も就職したことがなく、両親に甘やかされて育ち働く気など毛頭なかった。だから小河原の給料だけで何とか乗り切らなければならなかった。求人情報誌で条件の良い会社を物色し、三社目に面接を受けた会社に旨く転職できたが入社してみると手当も少なく支給額は前の会社と左程変わらなかった。転職した会社は前の会社と同じ業種だったが特にこの業界が好きだという訳ではなかった。今までの七年の経験を無駄にしたくなかったのとまた一から仕事を覚えなくて済むからだった。広告代理店の仕事内容はどこに行っても大して代り映えはしなかったがどう考えても将来性のある会社とは思えずにまた三十半ばで辞めてしまった。もっと働き甲斐のある新天地を求めた。求人誌に載っている転職の資格条件は殆ど三十半ばまでで三十五歳の小河原にとって人生最後の賭けだった。


 二十社近く面接を受け、運良くその中の一つ、つまり今の会社に入社できた。最初の数年間、給料は順調に上がったが、四、五年が経つと景気の悪化に伴い、毎年の昇給額は五千円程度に落ち着いてしまい、さらにここ数年は昇給ゼロになってしまった。それでも自分の小遣いを最大限に減らし妻と一人息子を何とか養うことができた。贅沢はさせられなかったが妻と息子には何不自由のない生活を送らせたと思っている。しかし妻はいつもうだつの上がらない小河原に不平不満を漏らしていた。彼女の父親は大手企業の部長職で、会社の規模、地位、給料、賞与、人間性までも小河原と比較した。そして彼女の両親もまた小河原を軽視して、会う度ごとに娘と孫がかわいそうだと非難した。大学卒業からおよそ三十年。そして後二週間で五十に手が届く。本来なら役員に昇格してもおかしくない歳だが中途採用で営業成績も悪く上司の受けも悪ければ出世なぞまた夢幻であった。せめて肩を叩かれずにこのまま定年まで勤め上げることができれば良しと思っている。


 直通はすでになく有楽町線で小竹向原まで出て西武池袋線で小手指行きに乗車した。乗車時間は約四十分。清瀬の駅から歩いて十分。後十年のローンが残る自宅に着いたのは深夜一時半近かった。家の明かりはどこも消えていて、小河原は音を立てぬように門扉を開けドアの鍵を廻した。明かりを点けると妻を起こしそうなので暗闇の中を摺り足で歩いた。一階の自分の部屋に逃げ込もうとした時、吹き抜けの明かりがぱっと点いて目が眩んだ。妻の由起が二階の階段から小河原を無言で見下ろしていた。
「ただいま」そう声を掛けても返事はなく妻が部屋に引き返すとまた辺りは暗闇に戻ってしまった。会社でも家庭でも小河原は誰からも相手にされていなかった。気の利いたこと一つ言えない、冗談さえ言えないつまらない人間だと自覚していた。こんな自分に好意を持つ者など誰もいないと諦めていた。暗い性格の上に思考がマイナスだからどんどん暗い穴に落ちて行く、同時に自分の心が少しずつ歪んで腐って行くような気がした。


 急に空腹感を覚えキッチンに行って冷蔵庫の中から食パンを一枚取り出した。パンを口の中に捩じ込んで牛乳で流し込み僅か一分で食べ終わると鞄の中からノートパソコンを取り出してダイニングテーブルの上で企画書の仕上げに取りかかった。日中からの疲れが溜り頭の回転も鈍って遅々として捗らずそれでも何とか形になったのは明け方五時過ぎだった。居間で着替えもせずソファにそのまま横になって何とか少しでも睡眠を取ろうとした。


 顔の上に何かを感じて目が覚めた。視界が白っぽく、手にすると顔の上にバスタオルが無造作に掛けられていた。妻が小河原の顔にバスタオルを投げ付けたのだった。上半身を起こしながら「すみません」と小河原が礼を言ったが由起は黙ってその場から立ち去ってしまった。広いシステムキッチンの周りには料理をした様子もなく、ダイニングテーブルの上には勿論味噌汁も目玉焼きもなく、家庭的な暖かさなんかどこにもなかった。早く会社に行けと言わんばかりの妻の無言の圧力に思えた。


 シャワーを浴び、スーツに着替えて、またパン一枚と牛乳で朝食を済ませ家を出た。道すがら小河原は妻と最後に会話をしたのはいつだったのか必死に思い出そうとした。ここ数年、小河原の方から話し掛けても全く口を利いてもらえなかった。妻が笑っているのも優しい顔をしているのもいつ以来のことだったか思い出せなかった。思い浮かぶのはただ眉間に皺を寄せている不機嫌な妻の顔だった。
 一時間弱の通勤時間で企画書の最後の詰めをしたかったが車中に空席は見当たらず、保谷駅辺りからさらに混み始めて大泉学園辺りで超満員になり身動きが取れなくなった。パソコンの入った重い鞄が乗客の体に挟まれ、それが自分の体の遠くへと引っ張られ無理な姿勢のまま市ヶ谷に着いた。ホームに降りると鞄を持っていた右腕の上腕筋辺りに鈍い痛みが走った。
 
 会社は十階建てのビルの三階と四階のフロアを借りていた。広告代理店としては大手と呼べる規模ではなかったがそれでも五十人程が在籍していた。会社は営業部と経理部で構成され制作を担当する社員は内部にはいなかった。制作は専ら下請けの制作会社に任せていた。その理由は外注した方が人件費や設備費が掛からなくて済むという営業部長の考えだった。社長は先代の社長の息子で会社の経営に興味はなく会社に顔を見せることもなかった。社長の顔さえ知らない若い社員が多かった。小河原も十六年間この会社に勤務して社長を見たのは二、三度だった。実質、実権は吉崎と言う営業部長にあり社長はこの営業部長に任せきりであった。もし吉崎営業部長に逆らいでもすればその場で馘を宣告されるだろう。


 この日の朝、営業部長とエレベーターの中で一緒になった。頭を下げ「おはようございます」と言うと「うむ」と言っただけで仏頂面をしている。部長は小心者で要領の悪い小河原を嫌っていた。小河原にもその感情が伝わっていた。今日は営業会議の予定があって朝から嫌な予感がした。 


 会議室で部長と四人の課長そして経理部長が同席し計六人の営業会議が始まった。会議と言っても課長が一人ずつ部長に売り上げの報告をするだけだった。営業戦略とか媒体企画とか会議らしい議題は過去一度もなかった。部長は途中経過など全く興味がなく、ただ毎月の利益しか眼中になかった。課長たちは一人ずつ今月の売り上げ結果と来月の売り上げ予測を報告しなければならなかった。彼らは愛想を振り撒きながら真しやかな数字を部長に報告していた。それらの数字は決して根拠のあるものではなく、曖昧で楽観的なものだと小河原でも何となく見当が付いた。部長はそれでも彼らの言葉に大きく頷きながら訊いている。しかもたまに課長たちに激励の言葉を猛々しく野太い声で言う。それを課長たちはありがたく拝聴している。茶番だ──と小河原は胸の内で呟いた。他部署の取引先は大手企業が多く売り上げもそこそこに上がっていたが、小河原の部は中小企業ばかりで数をこなさなければ太刀打ちできなかった。最後に小河原の番になったが不器用な性格はその場しのぎの数字を調子良く報告することはできなかった。それでも何か発言しなければと切羽詰まった気持ちで報告し始めた。
「今月は各社決算期後ということもあり、売り上げは前月比五十パーセント程度です。来月再来月も今の所、新規受注の予定はありませんが営業活動に重点を置いて挽回するつもりです」
 それまで課長たちの報告を黒いメモ帳に頷きながら書き込んでいた部長が苦虫を潰したような表情に変った。
「君の部署は先月も先々月も利益が出ていないじゃないか。いつになったらまともな数字を報告してくれるのかな?」
「は、はい、努力はしているんですが最近どこの企業も広告予算が少なくその割に手間が掛かる作業が多いので利益が出にくいというか……」
「そうは言っても電通だって利益が出てるじゃないか?」
「はい、あそこまで大きな会社ですと……」
 それまでメモ帳に目をやっていた部長が老眼鏡を額にずらし、小河原を睨み付けた。
「うちは弱小だから利益が出ないと言いたいのかね」明らかに怒気を含んだ声だった。
「いえ、そう言う意味では……」
「それに先月、君は松田不動産の新規の仕事が取れると言ってたじゃないか?僕のメモ書きにも残っているんだがね」
 確実に受注できる新規だと思っていたが、他のプロダクションに流れてしまった。担当の社員を銀座の高級クラブで接待までしたのに受注に至らなかった。売り上げも上がらず焦っていたせいか、つい先月の営業会議で部長に報告してしまった。「松田不動産の仕事が取れそうです」少し曖昧に言ったつもりだが、部長には新規の仕事が取れると確約したように思われた。
「すみません。その仕事は他社に流れてしまいました」
「ほう。簡単に流れてしまうような相手に接待交際費まで使ったのかね?」 
 部長はしっかり接待費の伝票をチェックしているようだ。接待交際費は予め申請書を提出して経理部長だけが目を通すが営業部長までチェックしているとは思わなかった。
 
 あの時、松田不動産広報担当の村井は仕事の発注と同時に饗応を臭わせて来た。
「もう少し詳しく違う所でお話ししませんか?」
 村井は狡猾な笑みを浮かべて小河原に言った。小河原は二百万の受注なら十万ぐらいの接待費は会社が認めてくれるだろうと思った。村井は自分の行きつけの銀座のクラブに小河原を連れて行った。その夜、詳しい商談をすることもなく村井は終始両側に座っていたホステスと談笑していた。錦繍のドレスに包まれたホステスたちの矜持が小河原には近寄り難く居心地が悪かった。なぜ彼女たちはこんなにも威風堂々と目映く煌めいていられるのだろう。この自信は何か裏付けがあるのだろうか。ここにいるホステスたちは全員多才で博識なんだろうか──。芸能界の裏話、流行の店、男女の恋愛話し。下ネタ。村井とホステスたちは取り止めのない話しに夢中だった。閉店間際までいて二人で十万円が消えた。どう考えてもこの程度のホステスの持て成しが料金と釣り合っているとは思えなかった。小河原の小遣い五ヶ月分だ。村井は隣に座っていた馴染みのホステスと店内でアフターの約束をしたらしく、お互いに腕を絡ませ店を出た。村井の予約したタクシーがビルの前に着いて小河原は二人が乗り込み走り去るのを見送った。


 接待から一週間が経っても村井から何の連絡もなく、焦れた小河原が村井に連絡してもいつも不在だと村井の部下から告げられた。朝、昼、夕と毎日電話してその度に連絡が欲しいと伝言を残しても村井からの連絡はなかった。松田不動産の受付まで行って村井を呼び出してもらうが外出中だ会議中だと受付嬢に言われた。居留守だと分かっていたが打つ手がなかった。村井の退社する時間を狙って待ち伏せしようと思っていた矢先やっと村井から連絡があり、松田不動産のロビーで会うことになった。小河原は一階のロビーの丸デーブルの椅子に座って待っていた。
「小河原さん、何度も電話しないでよ。こっちも忙しいんだからさ」
 村井は真向かいの椅子に座るなり不機嫌そうに言った。
「すみません、こちらも例の仕事の件、気になりまして……」
 村井が苦りきった顔をして渋々説明し始めた。中々連絡が取れなかったのは彼が他の会社に仕事を廻してしまったからだった。その会社は村井の従兄弟が経営しているプロダクションだった。そのプロダクションは十人程の社員を抱えて倒産寸前でその社長に頭を下げられ仕方なく仕事を廻してしまったのだと言う。
「ま、今回は勘弁してよ。次回は必ずお宅に発注するからさ。じゃ、忙しいから……」
 立ち上がる村井を小河原は呼び止めたが村井はエレベーターホールへ逃げるように行ってしまった。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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