向い風 5 (オヤジの小説・全9話)

向い風 5 (オヤジの小説・全9話)

2020年7月4日
小説

 八ヶ月が過ぎたある日、夏海の陣痛が突然始まった。幸いにも山村が土曜日の休日で一緒の時だった。
 神奈川県は分娩できる産婦人科が少なく、特に平塚、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉辺りの産婦人科院は半年先まで分娩予約がいっぱいだった。分娩場所に迷うくらいなら自宅の方が安心できると夏海は自宅出産を望んでいた。山村もそれで夏海の気持ちが楽になるならと自宅出産に賛成した。そのうち夏海だけ苦しい想いをさせられない、出産は夫婦の共同作業だと考えるようになり出産に立ち会おうと決心していた。
 いよいよ出産が迫ったかと思うと緊張が走る。果たして血を見て耐えられるだろうか──。とにかく慌てた。掛かり付けの助産婦に連絡する。しどろもどろになりながら夏海の名前と陣痛が始まったことを助産婦に伝えることができた。三十分後に助産婦と助手が駆けつけた。内診が行われ、出産は今夜七時頃になるでしょうと助産婦に告げられた。出産までまだ時間があるからと助産婦と助手は一旦引き揚げて行ってしまった。二人がいなくなると急に不安になった。しかし一時間後、夏海の陣痛の間隔が十分を切ったので慌ててもう一度助産婦に電話をした。今度は十五分後に二人は息を切らしてやって来た。
 布団の上で横になっている夏海は背中の痛みが酷いらしく山村はずっと背中をさすり続けた。苦しそうだった。助産院の勉強会で習っていた呼吸法を実践する。
「ヒー、ヒー、フー、ヒー、ヒー、フー」
 鼻で軽く息を吸って「ヒー」と口から二度吐く。もう一度鼻で軽く吸って「フー」と大きく吐く。夏海も倣って「ヒー、ヒー、フー、ヒー、ヒー、フー」
 痛みの感覚がどんどん短くなっているようだ。夏海の額から汗が噴き出して、額や頬に髪の毛が張り付いている。山村は夏海の目の前に座り、夏海は山村の腕を掴んでいた。
「まだいきんじゃだめよ」助産婦が注意する。夏海の顔が苦痛に歪んでいる。こんな顔を見たことがない。山村は恐ろしくなった。
「ヒー、ヒー、フー、ヒー、ヒー、フー」神に祈るような気持ちで念仏を唱えるように息を吸って吐いた。
 助産婦から「はい、いきんでください」と優しい声で指示された。夏海の苦痛が山村に伝わる。額から汗が流れる。陣痛が男にも伝染するというが…この感覚のことか──。
「お母さん、もうすぐですよ」助産婦が言う。夏海の指が山村の腕に喰い込む。産道から子供の頭が見えた。
「お父さん大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
「いえ、大丈夫です」
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」夏海は悲鳴にならない声を出している。その時、目の前でするりと赤ん坊が出て来た。それを恐る恐る受け止めた。赤ん坊は元気な泣き声を上げ始めた。そして山村自らがへその緒を切った。それはまるでゴム管を切るような感触だった。夏海は産卵後の鮭のように力を使い果たし、衰弱し切っていた。助手が赤ん坊を産湯に入れ、バスタオルで体を拭いた後、夏海に赤ん坊を抱かせた。病院なら産湯に入れるため別室に行き、新生児室に連れて行かれるのだが、自宅出産なら母子が引き離されることがない。赤ん坊が安らかな顔で眠って、母は穏やかな顔で見守っている。これが出産の本来あるべき姿ではないかと思った。思わず感動で目頭が熱くなった。全身の力が抜け、やっとまともな呼吸ができた。これは正に生命の誕生、神秘の世界だ──。
「夏海、よく頑張ったね」労いの言葉を掛けると夏海は満足げに頷いた。
 産まれたばかりの子なのに綺麗で夏海に似て可愛らしかった。助産婦も「綺麗な赤ちゃんですね」と感心している。嬉しかった。きっと美しい子供になるだろう。
「どうだろう?子供の名前、ミホって言うのは…美しい帆、ホはセールの帆」
「綺麗な名前ね。いいわ。美帆ね」
 山村は夏海の手を両手で優しく包んだ。

「今、なんて言ったの?」多佳子が怪訝な顔をしている。
「だから…子供ができたんだ」妻と二人だけの自宅の居間は重い空気が流れていた。
「いつ?」
「……一年前」
「一年前?……私にずっと隠していたのね」
「………」
「それで、一体その子をどうするつもり?」
「いや、まだ良く考えていないんだが…一応子供は認知したんだ」
「何ですって?!」多佳子の声が怒りで裏返っていた。
「許してくれ!」
「あなた、何考えてるの?」
「頼む、多佳子、もう俺とは別れてくれないか?!」
 山村は単刀直入に多佳子に切り出した。もうあれこれ弁解したくない──。
「別れてあなたはその愛人と子供と三人で一生暮らすって言うの?」
「ああ……まあな……」
 長い沈黙が流れ、デジタルの壁掛け時計の針の音まで聞こえた。多佳子が深い溜息をついて重い声でまた話し始めた。
「結婚して子供を育てて、あなたの妻として三十年間仕えて来たわ。あなたが浮気をしていたのも見過ごして来たわ。でもこの歳になって別れてくれなんて言われるとは思っても見なかった」
「父親のいない子供にしたくないんだ」
「本当に都合がいいわね。自分のことしか考えないのね。じゃ、私はどうなるのよ?」
「子供も手が離れたんだからお前ももう楽だろう。生活費は今まで通り振り込むよ」
「もう勝手にすれば!」
「そうか。許してくれるのか。すまない」
「何言ってるの?許す訳ないでしょ!……勝手にその女と暮らせばいいわ。でも絶対に別れない。一生、あなたの妻でいてやる!」
 重く沈んだ声が俄に怨念の混じった声になった。

 多佳子への罪悪感が心に重くのしかかる。自分に非があるのは充分に理解している。しかし多佳子に罵倒された時、心の奥底で安堵する自分がいた。妻に嫌われれば嫌れる程、憎まれれば憎まれる程、気が楽になった。自分が家を出て行かなければならない理由が欲しかったからだ。そして〝もうこうなれば仕方がないさ〟と自分に言い聞かせていた。
 週末になると山村、夏海、美帆の三人はマリーナの中で過ごすことが多かった。帆を降ろし係留しているヨットの上で本を読み、音楽を聴いているだけでも山村は癒された。
 夏海とは同じ夢を共有していた。いつの日か三人で世界中の海を航海することだった。二人の合い言葉は「ドリーム・カム・トゥルー」〝夢は実現する〟いや、〝夢を必ず実現させる〟だった。この歳で同じ夢を追い掛ける女性が現れるとは思わなかった。山村は夏海が生涯連れ添う伴侶に思えた。妻も過去の女性たちもみんな霞んで行った。容姿も気だても良く趣味も好みも気の合う女性、そしてその娘との生活は山村にとってこの上なく大切ものだった。
 美帆は日増しに可愛さを増し、山村は美帆と遊んでいると時間を忘れる。夏海に似たくりっとした目が可愛い。花弁を摘む小さな指が可愛い。きゃらきゃらと笑う声が可愛い。目の中に入れても痛くないどころではなかった。歳のせいか娘と孫の可愛らしさを同時に感じているのだろうか山村は美帆を溺愛した。娘の塔子にはまだ子供がいない。孫でもいれば可愛がっていたのだろうが──。
 美帆は山村を「コウたん」と呼ぶ。一歳の頃に突然「コウたん」と呼ぶようになった。夏海のことは「ママ」と呼ぶ。実は夏海が美帆に「コウたん」と呼ぶように躾けたのだった。理由を聞くと、夏海と美帆の戸籍が一緒でないうちは「パパ」と呼ばせたくないと言うのだった。何でもはっきりさせる夏海らしかった。「パパ」と呼んで欲しかったがいずれそうなるだろうと思っていた。今は美帆が「コウたん」と呼んでよちよちと抱かれに来るだけでも充分に幸せだった。
 夏海は出産直前まで働いていたが、今は会社も辞め育児に専念していた。当然、夏海には収入がなく、山村が全ての面倒を見ることになった。夏海の両親に頼れば、母子二人は心配なく生きて行けるだろうが山村はそうさせたくなかった。認知したのだから扶養義務も生じている。何とか自分一人の力で乗り越えたかった。夏海と美帆の生活だけでなく、多佳子の口座にも生活費を入れなければならなかった。離婚が成立して慰謝料を払うまではこれも当然の義務だと考えていた。

 美帆が二歳になり、そして三歳の誕生日に夏海と美帆を南の島バリ島に連れて行った。
島の南端にあるホテルに四日間滞在し、充分にリゾート気分を満喫した。プライベートビーチも美しく部屋はエスニック調で落ち着けた。昼はヒンズーの寺院をいくつか見て廻り、夜はケチャやレゴンと呼ばれる舞踏を鑑賞した。夏海も美帆も始終喜びはしゃいでいた。二人の喜ぶ顔を見ているだけで山村は幸福に浸れた。この思い出は一生忘れることはないだろう。美帆にもこの記憶が一生残って欲しいと願った。そしてずっとずっとこの幸せが続くだろうと思っていた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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