向い風 3 (オヤジの小説・全9話)

向い風 3 (オヤジの小説・全9話)

小説

 妻の多佳子はアウトドアが嫌いだった。結婚する前にキャンプに連れて行ったらテントに虫が入って来る度、悲鳴を上げていた。それ以来、妻がキャンプに行くことはなかった。陽に焼けるのが嫌いでしかも泳ぎが苦手だから海にも近付かなかった。趣味は読書とテレビ鑑賞。最近は専ら韓流ドラマに嵌っているようだ。
 なぜこんなに趣味、嗜好の違う女性と結婚してしまったのか?ただあの二十代の頃は真剣に多佳子を愛しているつもりだった。社内恋愛だった。このチャンスを逃すとまた暫く結婚する機会を逸するのではないか思った。結婚したのは山村が二十三歳で多佳子は三つ年上の二十六歳だった。姉さん女房だった。歳上の大人の魅力を感じていたのかもしれない。当時は女性の結婚適齢期が二十三、四だったせいもあって多佳子も焦っていたようだ。山村のプロポーズに多佳子も二つ返事で承諾した。
 六十年代後半に就職して、それから九十年代頭のバブル期まで広告業界は多忙を極めた。その間、妻の出産、子供の成長。四度の転職。二十年間ひたすら走り続けた。しかしバブルがはじけると業界も家庭も少しずつ冷えて行った。それでも山村は五十を過ぎても精力的に仕事をこなした。そして同年代のオヤジに比べればまだ自分の人生は充実している筈だと優越感を持っていた。趣味を通じてこうして素敵な女性と知り合い、明日もヨットの上で時間を共有できるのだから。これはヨットオーナーならではの特典だ。その辺のオヤジには羨ましい話だろう──。

 山村が船の出航準備をしていると、夏海から携帯に連絡が入った。今、メイン桟橋のゲートにいると言う。ゲートまで迎えに行く。ゲートは暗証番号とカードのオートロックになってオーナーと関係者以外は立ち入ることができない。夏海は今日は赤いヨットパーカーに黒いキャップと言うコスチュームで決まっていた。青い空、青い海、夏海の赤いパーカーは眩しい程のコントラストだ。
「今日は、三崎港まで行くけど帰りは遅くなっても大丈夫かい?」
 山村が聞くと少し夏海は考えているようだった。
「ええ、いいわ」笑顔で返事が返って来た。
 早速、メインセールとシートをセットしてスターターモーターを廻し、エンジンをかけた。暖気運転後、静かにハンドルを前に倒す。ヨットは離岸した。
 山村が指示しなくても夏海は手際良くセールを揚げる。バウダウンしメインシートを引くとセールに風が入り走り始めた。山村はその一連の動作に見とれていた。マストが揺れ、上下する舳先に白い水しぶきが立ち、岸がどんどん遠く離れて行く。観音崎からの風がヨットに向かって吹いている。灯台を越え香山根から磁針路二一〇度で剣崎に向かって走る。山村が舵を切るとゆっくり右舷側に船は弧を描く。コクピットで操舵している山村の隣に夏海が腰を下ろした。潮の香りと夏海の髪の香りが鼻をかすめる。山村はその髪の中に顔を埋めてしまいたかった。
 剣崎を過ぎ、右舷真横に城ヶ島を見た所で三〇〇度に進路を変えた。暫く走って城ヶ崎大橋をくぐり三崎港を目指す。
 三崎港に着いたのは夕方四時頃になった。少し疲れたのか夏海の顔色が優れなかった。
「疲れたかな?」と聞くと「昨夜は余り寝付かれなかった」と言う。
 係留を済ませ、夕食を取ることにした。漁港の側の小さな居酒屋に入り、山村と夏海はビールとマグロの刺身を注文した。暫くすると夏海の顔にようやく血の気が戻った。アルコールのせいか頬に薄らと赤みが差している。一時間も経たないうちに地元の漁師らしき男たちが店に入って来て、夏海の斜め後ろに座った。山村は男たちの視線を感じた。男たちの下品な笑い声が聞こえて来る。何となく落ち着かなくなって夏海に「出ようか?」と小声で言った。夏海も居心地が悪かったのか「そうね。出ましょ!」とオヤジたちに聞こえるように言って立ち上がった。
 勘定を済ませ店を出ると先に夏海が歩いている。山村は夏海の後を追った。二人の楽しいひと時に水を差されたようで気まずい雰囲気が漂った。気を取り直してもう少し飲みたかった。ヨットに戻って、キャビンのチャートテーブルに備え付けられたアイスボックスから冷えたワインを取り出し、彼女にワイングラスを渡す。ワインを注いでグラスを合わせる。
「私の後ろに座っていた人たち、私たちのこと噂し合っていたわ」
 夏海は悔しそうに呟いた。
「何て?」
「あの二人は親子か、それとも違う関係かって……もっと嫌らしいことも言ってたわ」
「世の中には下品な奴が多いからな」
「私と山村さんがどんな関係だっていいじゃない……でもごめんなさいね。あんな人たちに変な風に思われちゃって……」
「いや、僕は光栄だよ。あなたと恋人同士に思われたなんて。それよりあなたの方が迷惑だったでしょう」
「いえ、迷惑だなんて……でも今日は何だか疲れちゃった」
「余り寝てないんじゃ疲れるよね」
「……実は昨日あまり良く眠れなかったのは遅くまで主人と話していたせいなの」
 突然、夏海が私生活に触れた。
「ご主人と何かトラブル?」優しく聞いてあげる。
「ええ………もう別れようかなって感じ」
「そう……人生、色々あるね」
「山村さんは、奥さんと上手く行ってるんでしょう?」
 夏海が山村の表情を窺っている。
「どうかな。彼女とは性格も趣味も違うし、最近は何で一緒に暮らしてるんだろうって考えちゃうよ」
「あら、そうなの?…私と同じね………でもこんなに山村さんに何でも話せるって不思議。私の父と同じ歳なのに…」
「お父さんには良く相談するのかい?」
「余りしたことないわ。でも父にはこの前、吉田さんを紹介してもらったわね……山村さんは娘さんの相談には乗ってあげるの?」
「娘が相談に来たことはないな」
「ねえ、山村さんには私は娘さんのように見えるの?」
「君は僕の子供じゃない。素敵な女性だよ。じゃあ、僕は君のお父さんかい?」
「お父さんじゃないわ。素敵なおじさまよ」
 こんな台詞もお互いに酔って海の上だから言えるのだろう──。山村は夏海の体を抱き寄せた。夏海も安心し切って山村に身を預けている。まだ二度目のセーリングなのに自然過ぎて当たり前の行為のように感じた。歳の差があるものの考え方が似通っていたのかもしれない。そしてお互い寂しかったのかもしれない。夏海が耳元で囁く。
「山村さん、今日はもうヨットに泊まって、明日の朝、帰らない?」
 すべて海の女神テティスの魔法せいだろうか──。山村は昂る気持ちを抑え、ワイングラスを持ち上げ「素敵な夜に乾杯」と気障を承知で言った。素直に夏海も「乾杯」と微笑んで言った。赤々とした太陽が沈み水平線に解け合って空はオレンジ色と紫色のグラデーションになる。暫くするとオレンジ色も濃いブルーに覆われ無数の星が瞬き始めた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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