向い風 2 (オヤジの小説・全9話)

向い風 2 (オヤジの小説・全9話)

小説

 自分のはしゃぐ気持ちを必死に抑え、海の男らしく爽やかに振る舞った。
 夏海が「ジャイブ用意!」と合図を出す。山村が「オーケー!」と返事をして束ねたメインシートを引っ張る。一気にメインセールを返し体を入れ替える。この一連の動作をスムースにこなす。滑らかにヨットは弧を描く。
「どうだい?久しぶりの海は?」
 夏海の隣に座り少し気障っぽく言う。
「やっぱり海はいいですね」彼女の清々しい笑顔が脳裏に焼き付く。
「海は嫌なことを忘れさせてくれるよね」
「ほんと!辛い時に船の上にいると気分が晴れます」
「……ああ 海よ。大きな肩とひろい胸よ。どんな辛い朝もどんな酷い夜もいつかは終わる。人生はいつか終わるが海だけは終わらないのだ」
「あら、誰の言葉ですか?」夏海の表情がぱっと輝く。
「寺山修司です」
「へえ〜……詩がお好きなんですか?」
「若い時に読んでましたね」照れることもなくさらっと言いのけた。
 吉田が何も言わずに呆れた顔をしている。
「山村さんってロマンチックなんですね。お仕事は何をされてるんですか?」
「僕?…僕はね、広告の企画みたいなことを少しね」
「じゃあ、趣味がヨットで業界の人なら結構女性に持てるでしょう?」
「ははは…ちっとも持てませんよ。あなたこそそれだけ美しいんだ。男性が放っておかないでしょう?」
 吉田は聞いていられなくなったのかキャビンに消えて行った。
「山村さん、何言ってるんですか?私、これでも結婚してるんですよ」
「あっ、こりゃ失礼。それじゃ今日はご主人は?」
 夏海が既婚者だと聞いて少し落胆した。
「うちの主人は海とかヨットがあんまり好きじゃないんです」
 それじゃうちの家内と同じだ──。
 三時間程、三人で談笑しながら内海をぐるりと廻りマリーナに戻った。夏海と息が合って今日は楽しい帆走が味わえた。欲を言えば吉田が邪魔だった。クラブハウスで三人はシャワーを浴び、その後、山村と吉田はサロンでビールを飲みながら彼女が戻って来るのを待った。十分後、二人の座るテーブルに夏海が近付いて来た。このまま別れるのは忍びなく夕食に誘って見たが「今日は失礼します」とあっさり断られてしまった。深々とお辞儀をして夏海はクラブハウスから出て行った。吉田が耳打ちした。
「どうだ?いい女だろ」
「ああ、いい女だ」つい正直に答えてしまった。
「ほう、もう惚れたのか?だが亭主がいるぞ」
「分かってる」
 しかし分かってはいなかった。娘のような女性に惚れている自分がいた。

 既婚者だと分かっていても頭の中で夏海の笑顔が占領している。翌週の土日もマリーナに足を運ぶ。彼女が今週も来るのではないかと心待ちにしている。その次の週もマリーナに行く。クルージングしなくてもマリーナで時間を過ごす。三週間目の土日が過ぎても彼女は来なかった。吉田が訳知り顔で近付いて来る。
「毎週クルージングもせずに良く来るな。あの彼女を待ってるのか?」
「彼女?何だそれ?」
「誤摩化さなくても分かるよ。……まっ、健闘を祈る!」すっかり見透かされている。
 出航届けの控えの用紙に彼女の連絡先が記入されていたが、何とか連絡するのを思い留まった。軽薄なオヤジには思われたくなかった。
「どうしてるの?最近来ないね。明日でも一緒にセーリングしない?」だめだ。無理だ。こんな浮いた台詞は言えない──。
 
 四週目の土曜日の前日、就業中に携帯の着信音が鳴った。
「夏海です。お久しぶりです」声を聞いて心臓の鼓動がどくんと波打った。
「こんにちは。お元気でしたか?」必死に平静を装う。
「はい、元気です。明日なんですがマリーナに行こうと思って……山村さん、明日ご予定ありますか?」
「いえ、特にありませんが…」
「また乗せて頂けませんか?」
「ええ、喜んで」声が一オクターブ高くなっていた。
「私、サンドイッチとワインを持って行きますから一緒にヨットの上で食事しませんか?」案外、彼女の方が冷静で積極的だった。
「分かりました。じゃあ、明日、朝八時でもいいですか?」
「はい。それじゃ明日八時に」
 電話を切ってから喜びが込み上げて来た。「やったー!」と声を上げそうになったが必死に堪えた。心の中で何度も「やったー、やったー、やったー」と叫んだ。夕方は会社の同僚の酒の誘いを断って早めに帰宅した。今夜は明日に備えよう──。

「ただいま」と居間のソファに座ってテレビを見ている妻に声を掛けた。
「お帰り」と返事だけで振り向きもしない。浴室に行って昼間の汗をシャワーで洗い流す。明日は何を着て行こうか?コースはどうしようか?バスタオルで頭を拭きながら冷蔵庫のビールを取り出す。食卓には夕食の用意がされていた。出来合いのハンバーグと味噌汁とご飯が並べられていた。ビールを飲みながらラップの掛かったハンバーグをそのまま電子レンジに入れ暖める。
「随分、今日はご機嫌ね」多佳子がいきなり突っ込みを入れて来る。
「ん?そんな風に見えるか?」
「何かいいことでもあったの?」
「いや、何もないよ」動揺すまいと冷静に振る舞った。
「あなたって分かりやすい人ね。鼻歌なんか歌ってよっぽどいいことがあったのね」
「えっ?鼻歌?俺、鼻歌なんか歌ってたか?」無意識のうちに口ずさんでいたらしい。
「そうよ。いつもの鼻歌」
「いつもの?」
「機嫌がいい時にいつも歌ってるわ。あなた自分で気が付いてないの?」
「何の歌?」
「尾崎豊の〝アイラブユー〟私でもその歌、知ってるわ」
「…………」言葉に詰まった。
「まさか、浮気してるんじゃないでしょうね」疑いの目でじっと見ている。
「何言ってるんだ!浮気なんかする訳ないじゃないか!」
「ほら、すぐムキになる。怪しいもんだわ」
 完全に妻にも見透かされている。これ以上妻の側にいたら危険だ──。夕飯を飲み込むように済ませ、そそくさと自分の書斎に退散する。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。