文香が発見されてから一か月が経った。伊藤は久しぶりにクラブ「エンジェル」に顔を出した。
九月の下旬になって随分と過ごし易くなって客たちもホステスも生き生きとしていた。陽子ともうひとりのホステスが伊藤のテーブルに付いた。
「伊藤さん、大変だったわね」
陽子が気の毒そうに言った。
「ああ……でもあの時、文香さんのマンションに行って良かったよ」
「本当!だれも気が付かなかったらずっとあのまんまだったのかしら?」
「高層マンションって考えようによったら怖いよな…」
あの聳え立つマンションは伊藤に巨大な棺を連想させた。
「文香さん、あなたに知らせたんじゃないかしら?……伊藤さんのこと、文香さん、とても気に入ってたんだもの」
「しかし和光の前で見た文香さんは幽霊だったのかな?マンションで見た時、あの白いドレスを着ていたんだ。不思議だよなあ」
「不思議と言えば、文香さんが亡くなった頃、彼女が付き合ってた平井さん、心筋梗塞で倒れて間もなく亡くなったのよ……あれっ?伊藤さんの会社、東洋商事よね?」
「ああ、そうだよ」
「平井さんって、確か東洋商事の営業部長よ」
「個人的な付き合いはないが知ってるよ……そうかうちの平井と文香さんがね……」
伊東は死んだ平井に微かな嫉妬を覚えた。
「それに文香さんに辛く当っていたこの店の店長も交通事故で亡くなったんだもの。やっぱり文香さんの呪いかな?」
「陽子さん、もう止めてよ。私そう言うの苦手なの」
もう一人のホステスが怖がっている。
「それで文香さんのお葬式はどうしたの?」
伊藤のグラスに二杯目の水割りを作りながら陽子が聞いた。
「いや、それが家族がどこにいるか分からなくて納骨堂に預けたよ」
「あら、納骨堂も結構お金が掛かるんじゃないの?」
「まあな。でも共同墓地なんかじゃ可哀想だろう?」
「伊藤さんって優しいのね。私にも優しくしてくれないかしら?」
陽子が伊藤の右肩に寄り添って甘えるように言った。
「じゃあ、文香さんに献杯しようか」
伊藤がグラスを持って言った。
「ええ」
陽子が文香のためにウィスキーの水割りを作ってあげた。伊藤が「献杯」と言って三人はグラスを掲げ文香を弔った。どこから入って来たのか季節はずれの一羽の蝶が伊藤の左肩に止まった。
「あら、蝶々。どこから入って来たのかしら?」
伊藤の前に座っていたヘルプのホステスが気付いた。
「夜の蝶か」
伊藤はその蝶を目で追った。蝶はまた店の入り口のドアの方へ飛んで消えて行った。
*
六本木タワーマンション 4218号室
地方で恵まれた家庭に育った青年が高級マンションに引っ越して来た。引っ越しと言っても衣類や生活用品を詰めた大きなトランク一つと布団一式を宅配便で送った程度の簡単なものだった。
家具や電気用品は東京で買い揃えるつもりだった。日時指定で送った荷物は夕方遅く着いて、当座暮らしに必要な物だけ取り出し引越し作業はあっけなく終わった。
夜も遅くなって近くのコンビニに夕食を買いに行って、簡単に食べられる出来合いのスパゲティやサラダを買った。マンションに戻りまた自分の部屋に入ろうとカードキーをポケットから取り出そうとすると隣の部屋のドアの開く音がした。
ドアは回廊の壁より少し奥まった所にあり、壁の角から若く美しい女性が上半身だけ覗かせて黙って青年を見ている。青年は気まずい思いから先に挨拶した。
「今晩は。始めまして。隣に引っ越して来た柳田と申します」
しかし彼女からの挨拶はなかった。
「その部屋出るわよ」
その女性はそれだけ言うと赤ん坊の泣き声のする部屋に戻ってしまった。
霊感はないが幽霊が出ると言われて気持ちがいいはずはなかった。どうせ質の悪い冗談を隣の住人は言ったのだろうと思ったが妙にどこか気になった。もし本当なら管理会社は告知する義務がある、自殺や殺人事件が起こった場合でも住人に告知しなければいけない、そう思うと青年は管理会社に腹が立った。
翌朝、隣の女性の一言で睡眠不足になった青年はマンションのネームプレートに田村と記されていた受付に聞いてみた。
「すみません。隣の女性から私の部屋は幽霊が出るって言われたんですが……私の部屋で何かあったんですか?」
こんな唐突な質問をしてこの受付嬢に頭がおかしいと思われるのじゃないかと青年は不安になったが聞いてみた。
「部屋数が多くて私共も良く分らないんですが、何号室にお住まいですか?」
美奈は馬鹿にすることもなく、真摯な態度で青年に対応していた。
「4218号室です」
「えっ?お隣さんって何号室ですか?」
美奈は恐怖に顔を歪ませて若者に聞いた。
「4219号室です」
「その部屋には今は誰も住んでいません」
「それじゃ、あの人は誰なんですか?」
美奈はその青年に何も話せなかった。
*
飯石に戻った萩原は暫くは大人しくガラス工場で働いていた。伊藤と会ってから少し気持ちの余裕ができていた。
─こんな工場いつでも直ぐに辞めてやる。東京に行けば俺には出世コースが待っているんだ。
そんな気持ちと裏腹にやはり悩みの種は露子だった。
黙って縁側で煙草を吹かしていると露子が優しい声で尋ねた。
「最近そうやって何か考え事をしてるけど何を考えてるの?」
「べ、別に何も……」
露子に見透かされているのではないかと思うと少し慌てた。動揺した萩原を見てきっと他愛ないことでも考えているのだろうと露子は微笑んでいた。
「十年間も俺の面倒を見てくれて済まないと思ってる。だけど俺は東京に出て友だちの妹と結婚するから別れてくれ。」
こんなことは幾ら萩原でも言えなかった。
伊藤と出会って一か月が経つ頃、萩原は工場の社長に呼ばれた。
工場の敷地の一角のプレハブの事務所には営業と経理の部屋、その奥は社長室になっていた。
毎回同じことを言われているから社長の苦言は直ぐに予想できた。また営業成績が悪い、もっとやる気を出せと文句を言われるのだろうと思った。社長室にある応接用のソファに座ると待ち構えていたように背の低い小太りの社長が小言を言い出した。挙げ句に給料を三分の一カットすると言う。ただでさえ苦しい給料でこれ以上減給されては生活できる訳がなかった。
萩原はついに長年抑えていた不満が爆発して、社長の胸ぐらを掴み恫喝した。
「このだらくそ(ばか)殴っちゃーか?」
「君、止めたまえ」
「ふん、この憶病者が」
「君、もう明日から来らんでいい。馘だ。馘!」
「ああ、こんなおんぼろ会社辞めてやーわ。だがな、退職金ぐらい出せよ。今日の分までの賃金と退職金合わせて五十万で許しちゃるわ。それとも痛い目に遭いたいか?」
萩原は社長の前に拳を突き付けた。社長は怯えて金庫の中から渋々金を取り出した。萩原は社長の手からひったくり、金を数えると四十万しかなかった。
「今はそれしかない。それにその金は明日の材料費の支払いに廻すつもりのやつだけん。せめて半分で勘弁してくれれ!」
社長は情けない顔で萩原に哀願した。
「ふざけんな!あんな安い給料で働かせやがって!こんぐらいで済めば有り難いと思えや」
ドアの隙間からこのやりとりを工員や経理の叔母さんが覗いていた。萩原が事務所を出た後、中から社長の大声が聞こえた。
「お、おい、お前たち、警察を呼べ!」
萩原は社長の怒鳴り声を背に慌てて工場を出てバス停にタイミングよくやって来たバスに乗り込んだ。
家に着くとまだ露子はスーパーのパートから戻っていなかった。やはり露子の目の前で東京に行くから別れて欲しいとは言えなかった。警察がこの家にやって来るとまた面倒になると思い、萩原は急いでトランクに着替えを詰めた。そして露子宛の書き置きと社長から奪い取った四十万のうち二十万を入れた封筒を座卓の上に置いて家を出た。