彷徨(KWAIDAN)第八話 全十七話

彷徨(KWAIDAN)第八話 全十七話

 露子は借家に戻るといつものように萩原が帰宅する頃を見計らって夕食の支度をしていた。居間を片付けようとした時、座卓の上の萩原の書き置きと封筒に気が付いた。露子は書き置きを読んでその場に座り込んでしまった。便箋にはたった一行書かれていた。

   

 露子、すまない。俺は東京に行く。俺のことは忘れろ。

 出雲空港に着くとまず伊藤の携帯に連絡して「今から会いに行っていいか」と聞くと「待っている」と答えが返って来た。ガラス工場の社長から巻き上げた金で東京行きの航空券を買って、一時間で東京に着いた。

 萩原は二十年振りに上京した。モノレールから見る東京の目まぐるしい変わり様に驚いていた。萩原は羽田空港からそのまま伊藤の会社に向かった。

 汐留の四十二階建てのビルの中にあり、一階のフロアには三階から十三階までの東洋商事の各部署の案内プレートが貼られていた。

 エレベーターに乗って一旦三階の受付まで行き受付嬢に名前を告げると十三階まで行くように指示された。十三階に上がると女性秘書が待ち受けていて会議室に通された。

 最上階には会長室そして社長室と役員用の会議室があった。百坪くらいありそうな会議室は人気がなくがらんとしていた。

「やあ、待たせたな」

 十分程すると伊藤が会議室に入って来た。萩原と伊藤の距離は二十メートル程離れている。

「大きな会社なんだな」

「まあな、でも三年後は自社ビルを建てるつもりだよ」

「随分景気がいいんだな」

「いや、ここの家賃が結構大変なんだ。それを考えると自社ビルを持った方が楽でね」

 伊藤が萩原に少しずつ近付いて来た。

「それで俺はいつからどこで働けばいい?」

「七階の営業三部に空きがある。取り合えずそこにいてくれ」

「ああ、分かった。ありがとう」

 先程案内してくれた女性秘書が入って来た。

「秘書の加納君だ。お前のねぐらを探してくれてる。当分お前の世話をするよ。分らないことがあったら何でも彼女に聞いてくれ」

「何から何までありがとう」

「おっと、萩原、ちょっと聞きたいんだがお前、妹がいたよな」

「ああ……恥ずかしい話だが今どこにいるか分からないんだ。消息不明だよ」

 萩原は情けない顔で答えた。

「そうか……名前は?」

「文恵だ…お前、妹のこと何か知ってるのか?」

「いや、ただ聞いてみただけだ。それからもう一つ、社内では〝お前〟じゃなく〝社長〟と呼んでくれ」

「ああ、…分かった。」

 自分にはお前と呼ぶな、しかし自分をお前と呼ぶ伊藤に服従するしかなかった。

「じゃ頑張ってくれ」

 やはり萩原の妹だったのかと伊藤は苦い思いがした。文香と最初に出会った数年前も誰かに似ていると思ったがまさか旧友の妹とは思わなかった。兄に似て妹の文香も彫りの深い綺麗な顔立ちをしていた。伊藤は出社初日に妹の訃報など伝えたくもなかった。

 

 萩原は秘書に連れられエレベーターで七階のフロアに下りた。エレベーターのドア正面にはAE  3DIV.(営業三部)と標示された銀の浮き文字が木目の壁に取り付けられていた。

 その壁の裏に廻ると三百坪程の広いスペースに社員たちが忙しそうに動き回っている。各テーブルはパーテーションで区切られ仕事がし易い環境のように見えた。

 奥の窓際の席に案内され秘書からテーブルの上にある資料に目を通すように言われた。この資料に全て東洋商事の事業内容が記されていると説明された。

「ここに座っていた方は昇進でもされたんですか?」

 一通りの説明を聞いて萩原は秘書に質問した。

「いえ、先月、心筋梗塞で亡くなられました」

 加納は冷淡に答えた。

「そうですか……」

「それからこれがお住まいになられるマンションの地図とカードキーです。それから暗証番号と指紋照合のオートロックですから受付でご登録してください」

「ありがとう」

 加納から渡されたカードキーには「六本木タワーマンション」のロゴマークが入っていた。

「明日の夜は伊藤会長のご自宅で食事会があるようです。六時に迎えに参りますので宜しくお願いします」

「はい、こちらこそ宜しく」

 萩原は同じ部の社員と簡単な挨拶を済ませ、東洋商事を後にすると汐留の大江戸線に乗り、今日から住む六本木のマンションに向かった。

 六本木の駅から七、八分歩くと高く聳える高級マンションに着いた。萩原はその巨大な塔に圧倒された。

 受付の女性にカードキーを見せ名前を名乗ると書類を渡され、そこに暗証番号を記入し、指紋を捺印した。

 四、五分待つと受付に登録が完了した旨を伝えられ「ありがとうございました」と愛想良くお辞儀をされた。萩原はネームプレートを見て「田村さん、今後とも宜しく」

 そう笑顔で言って萩原はエレベーターに乗った。四十八階のボタンを押してエレベーターの扉は閉まった。エレベーターは音も揺れもなく急上昇して快適な乗り心地だった。誰も同乗する者もなく萩原一人で階数のデジタル表示パネルをじっと見ていた。

「お兄ちゃん」

 後から不意に声を掛けられた。暗く哀しい声だったがその声は確かに妹の文恵の声だった。しかし振り向いても誰もいなかった。

 エレベーターの速度が徐々に落ちて四十二階で止まった。扉が開くと白いドレスを着た文恵が通り過ぎるのを見た気がした。萩原はエレベーターから飛び降り文恵の姿を探したがフロアは静まり返り誰もいなかった。

 翌日、夕方六時きっかりに秘書の加納が迎えに来た。ビルの一階には会社の商用車が手配されて加納と一緒に後部座席に乗り込んだ。

 黒塗りの高級車の乗り心地は萩原にとって初めての体験だった。ガラス工場のボロ車とは比較にもならなかった。一昨日までの島根にいた生活と全てが一変してしまった。車のウィンドウから見える東京の夜景は自分を歓迎してくれているイルミネーションのように見えた。

 三十分程で杉並区永福町の伊藤会長の自宅に着き、秘書加納は九時にまた迎えに来ると言い残し車は去って行った。

 生い茂った木々で森のように見える正門から三十メートル程の緩いカーブの小道を歩くとやっと洋館が見えて来た。ここに会長夫婦と社長の伊藤夫婦と二人の子供たち、そして会長の娘の万里子が住んでいる。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと最初に萩原を迎えに出て来たのは万里子だった。

「お久しぶり。萩原さん、変わってないわね」

 垢抜けてすっかり大人になった万里子が玄関のドアを開けながら言った。

「万里子さんは随分美しくなられましたね」

 萩原は正直に答えた。しかし都会の洗練された美貌が備わっていたが気丈で高慢な感じが漂っていた。婚期が遅れている理由が直ぐに理解できた。

 この女と結婚するとなると余程覚悟しなければ長くは続かないだろうと思った。

「あの頃は十か十一の子供でしたからね。でももう今年で三十よ。さあお入りなさい」

 万里子の後から居間に入ると会長の伊藤荘太郎と社長の隆志が大きなテーブルに付いて黙ってワインを飲んでいた。

「今日はお招き頂きありがとうございます」

 まず萩原は会長に挨拶した。

「うん、まあ座りなさい。万里子は少し外してくれないか?」

「お父様、手短かにね」

 そう言うと万里子は食事の準備を手伝いにキッチンの方へ消えて行った。

「息子から君の話は聞いている。大学では随分優秀だったようだね」

「まあまあです。でも中退ですから」

 萩原は謙遜したつもりで言った。しかし意に反した答えが帰って来た。

「そう、君はまともに大学も出ていない半端者だ。それでも息子の友人で息子の頼みだから私は君を入社させた」

「父さん!」

 息子の伊藤が父を制した。

「隆志は黙っていなさい。これだけは言って置く。伊藤家には何があっても絶対に服従して欲しい。それができなければ君にいてもらう意味がない。分るね?」

 会長伊藤荘太郎は威圧的な口調で萩原に迫った。

「はい、承知しています」

 萩原はどんな事があっても耐え抜く覚悟があった。魂を悪魔に売ってでも裕福になりたいと思っていた。この世に愛など必要ない、ただ金さえあれば幾らでも幸せは手に入ると信じていた。

 家族全員が揃って重厚なマホガニーのダイニングテーブルにフランス料理が並び和やかな雰囲気で食事が始まった。

 伊藤家は屋敷に来て調理してくれる何人かの派遣シェフと契約を結んでいる。料理は萩原が今まで味わったことのない物ばかりで美味しいのか不味いのかさえ分からなかった。

 母の和江が萩原に優しく話し掛けて来た。

「萩原さん、あなたまだ独身なんですって?」

「ええ、まあ」

「随分ハンサムでいらっしゃるのになぜ結婚されなかったの?」

「どうも結婚なんて私の性に合わないんじゃないかと……」

「うちの万里子も同じようなことを言ってるわ」

「お母さん、余計なことを言わないで!」

 万里子が和江に怒った顔をして窘めた。

「萩原さん、万里子とたまに食事でもしてやってください。万里子は昨日からあなたが来るのを楽しみにしていたんですよ」

 和江は万里子にお構いなしで萩原に話し続けた。

「お母さん、止めてってば!」

「あら、でも本当じゃない?」

 母娘の会話の間を割って萩原が万里子に言った。

「万里子さん、もし私で良ければ今度お食事でもしましょう」

「ええ、喜んで」

 万里子は打って変わって嬉しそうに答えた。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。