彷徨(KWAIDAN)第六話 全十七話

彷徨(KWAIDAN)第六話 全十七話

 夕起は野次馬の中に交じって警察や救急隊員たちの処理を見物していた。夕起自身、何故ここに立っているのか理解できなかった。

 救急隊員は夕起をタンカーで運び救急車に乗せていた。その様子を夕起は側で見ていたが自分が救急車に乗せられているとは思っていなかった。

─これから新宿の靖国通り沿いにある洒落たフランス料理店で恋人とデートの約束があるの。結婚式場、新婚旅行、新居や楽しい未来の話を沢山話し合うの。早く行かなきゃ…

 夕起はルーズな人間が嫌いで自分が約束の時間に遅れたことがなかった。しかし車は壊れて動かないし夕起はこれからどうすればいいのか分らなかった。

 二時間程で現場は警官と事故処理班に片付けられ、夕起の車もレッカー車で運ばれて行った。何事もなかったかのように環七の交通は元に戻っていた。夕日も沈みどっぷりと暗くなった環七の道路の真ん中に夕起はただ立ち尽くしていた。

 森山家に事故の連絡が入ったのはそれから一時間後だった。救急隊員からの電話を受け取ったのは母親の昌美だった。

「そちらに森山夕起さんと言う方がいますか?上馬の交差点で事故に遭われました。現在、目黒病院に搬送されましたので直ぐに来てください」

 母親の昌美は夕起が事故に遭ったと聞かされても信じられなかった。もっと細かな情報が欲しかったが、救急隊員からの連絡は事務的で直ぐに切れてしまった。

 救急隊員の言葉をどう受け入れていいのか頭は混乱していた。

─だってつい三時間程前に恋人とデートだと言って元気良く出掛けて行ったのに…でも大したことないわ。きっと擦り傷程度よ。

 昌美は気が動転しながらも父、徹の勤める区役所の地域振興課に連絡した。

「夕起が事故に遭ったって連絡があったの………これから目黒病院に行きます……あなたも直ぐに来て。きっと大したことはないわ」

 昌美の心配が受話器の向こうから伝わって来た。徹はこんなことになるなら車なんか買い与えなければ良かったと今になって後悔した。

「分かった。これから直ぐに会社を出るよ」

 

 弟の春樹が昌美を車に乗せ病院に向かった。病院に着いて森山夕起の名前を病院の受付の看護婦に告げると担当医が現れて事情を説明し出した。

「警察の報告によると娘さんの車の側面に相手の車が衝突して娘さんは即死でした。その後、相手の運転手もトラックに追突して亡くなりました」

 昌美は信じられなかった。

─まさか夕起が死ぬなんて……そんな馬鹿な…間違いに決まっている……誰かが夕起と間違えたのよ。そうに決まってるわ。

 気が遠くなりそうだったが必死に堪えた。それから昌美と弟の春樹は地下の霊安室に看護師に案内された。安置室のドアを開けると遺体にはシーツが掛けられ、顔にも白布が被せられていた。

 昌美は顔の白布をそっと取った。

 そこには半分潰れてしまった夕起の顔が現れ、昌美は半狂乱になった。

 春樹がひきつけを起こして呼吸困難に陥っている昌美を外に連れ出し廊下のベンチに座らせた。駆け付けた医者に安定剤を打たれようやく落ち着き始めた。昌美はそれから看護師に連れられ病室のベッドで横になり、結構強い安定剤のせいか直ぐに眠ってしまった。

 暫くして父の徹が会社から慌てて病院に駆け付けて来た。

 恋人の岸川朝雄は夕起と連絡が取れないまま約束のレストランで二時間も待っていた。岸川は心配になり目黒の自宅に向かった。玄関先で一足早く病院から戻って来た春樹と出会ってやっと夕起の死を知った。岸川もまた余りに突然のことで呆然とした。

 直ぐに夕起の自宅から病院に駆け付け霊安室のドアを勢い良く開けた。夕起の顔を見ようと白布を取ろうとすると父親が止めに入った。しかし父親を振り払い白布を取った。目に飛び込んで来た夕起の悲惨な顔を見て岸川はその場でへたり込んでしまった。

 

 翌日、父の徹が葬儀社に連絡を取り通夜の準備が始まった。流石に徹はコミュニティー形成や保養所・斎場の運営を行う地域振興課だけあって葬儀の仕切りは手慣れていた。

 布団の上で横たわる夕起の周りには白黒幕が掛けられ供花や供物が並べられ、急に家の中が慌ただしくなった。

 遺体は葬儀社の持って来た棺桶に入れられようとした時、夕起の顔に掛かっていた白布がはらりと落ちた。通夜の準備に来ていた親戚たちは潰れた夕起の顔を見て悲鳴を上げた。 徹は棺の窓は閉ざし娘の顔を弔問客には見せなかった。どうしても見たいと言う夕起の友人たちにも固く断った。病院からエンバーミング(遺体修復)を勧められたが徹はこれ以上夕起の体を触られたくなかった。

 

 通夜を終え次の日の朝、斎場に向かった。徹は娘の遺影を抱え霊柩車の助手席に座り、春樹は位牌を持って後部座席に座った。母親の昌美は未だにショックで斎場に行けるような状態ではなく一人寝室に閉じ籠ったままだった。

 斎場に着くと喪服を着たスタッフが火葬炉から収骨室の骨上げまでの手順を説明した。

 そしてお棺はステンレス製の台車ごと炉の中に入り、炉の扉が閉まるとその前には明るい笑顔の故人の遺影と花が置かれた。それから直ぐに強い火力のバーナーの音がした。親戚と弔問客が休憩所で焼き上がるのを待つ中、誰もが重い空気に包まれ口を聞く者も少なかった。

 一時間半程で火葬場のスタッフが休憩室に現れ焼骨が終わったことを告げた。炉の前に四十人ぐらいの親戚や遺族がまた集まった。炉の中から引き出された台車には白骨化した夕起の姿があった。

 岸川はまだ信じられなかった。来年の春には結婚式を挙げる予定だったし結納も来月行う予定だった。夕起は岸川との結婚をそして南の島の新婚旅行を楽しみにしていた。

 昨日まで死とは無縁だった人間がこの世からいなくなってしまう交通事故死は余りに突然で受け入れがたい別れだった。

 親族のすすり泣く声があちこちから聞こえ、誰もが夕起の元気な姿をもう一度見たいと願った。収骨も済ませ全員がタクシーや自分たちの車でまた森山家に戻った。

 

 葬儀社に勤める高梨は霊柩車の運転手も兼任していた。火葬場に着いて明日の予定を調べようとスーツのポケットを弄り、手帳を捜したがどこにも見当たらなかった。霊柩車の中も隅々まで捜したが見つからず、森山家の居間に自分の手帳を置き忘れているのにはたと気が付いた。

 森山家にもう一度戻らなければならない。手帳の中には細かいスケジュールがびっしり書き込まれていて手帳がなければ明日の予定もさっぱり分らなかった。

 しかし霊柩車の禁忌として出棺から火葬場までの同じ道を帰りに通ってはならないというしきたりがある。もしこれを犯せば霊がまた家に戻って来ると言うのである。高梨はこんなことはただの迷信で別に遺族に知られなければいいだろうと考えた。

 高梨は同じ道順で森山家に戻った。遺族に気付かれないように森山家の玄関から三十メートルぐらい離れた場所に霊柩車を停めた。辺りはすっかり暗くなっていた。霊柩車の後ろのドアが開いて直ぐにまた閉まる音がした。気のせいだろうと思って助手席側の窓から外を見ると今日の故人に似た娘が森山家の門に入って行くのが見えた。良く似た親戚の娘だろうと高梨は思った。

 森山家の玄関の扉を開けて「葬儀社の高梨ですが」と挨拶すると奥から故人の叔母らしき女性が現れた。

「すみません。奥の居間に私の黒い手帳がありませんか?置き忘れてしまったようで……」

「ちょっと待ってください」

 そう言って奥の居間に戻って行った。入れ代わりに居間から先程外で見た若い女性が音を立てずに二階に上がって行くのが見えた。二階に上がって姿が見えなくなると同時に叔母らしき女性が手に革の手帳を持ってやって来た。

「これかしら?」

「ええ、そうです。すみませんでした。このまま帰るのも失礼ですのでご焼香させて頂けますか?」

「では、どうぞお上がりください」

 高梨は自分で持参の塩を体に撒き数珠を取り出し家に上がった。階段の前で立ち止まり、二階の奥の暗がりに目を凝らしたがただひっそり静まり返っているだけだった。

 奥の居間に通されるとまだ三十人程の親族が集まっていた。高梨は遺影の前で焼香した。遺影はやはり外で見た女性に似ている。高梨の後ろに座っている徹に尋ねた。

「失礼ですが、お嬢様の他にご兄弟はいらっしゃいますか?」

「ええ、弟が一人。そこに座っているのが弟です」

 所在なさげに座っている二十歳そこそこの青年がいた。

「お姉さんか、妹さんは?」

「いえ、いません。それが何か?」

「ちょっと聞いてみただけです……それでは失礼致します」

─やはり霊が戻って来てしまったのか。そんな馬鹿な!錯覚に決まってる。

 高梨は親族に挨拶をして玄関を出た。玄関から正門まで十メートルぐらいあり、正門から振り返って見ると家全体が見渡せて、その窓の一つから若い女性の姿が見えた。

 その女性はカーテンの隙間から顔半分を覗かせて外を見ていたが、カーテンが揺れるとその顔の半分がなかったように見えた。それから直ぐにカーテンの影に隠れて姿は見えなくなった。高梨は見てはいけないものを見た気がした。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。