彷徨(KWAIDAN)第三話 全十七話

彷徨(KWAIDAN)第三話 全十七話

2021年12月23日

 萩原と出会って一週間後、伊藤は銀座のクラブ「エンジェル」のホステス文香に久しぶりに連絡してみた。

「やあ、文香さん、お久しぶり」

「あら、伊藤さん、本当にお久しぶり」

 文香の明るい声が返って来た。

「ええ、先週まで松江に一週間出張に行ってました」

「松江ですか?」

「そうか。文香さんも出身は松江でしたね」

「ええ」

「久しぶりにどうですか?」

「同伴ですか?」

「はい」

「ええ、喜んで」

「じゃ、いつものように銀座三越前で七時に」

「はい、お願い致します」

 

 汐留にある伊藤の会社からタクシーを拾って銀座の和光に向かった。陽が落ちて日中に比べれば蒸し暑さもややおさまっていたが、それでもクーラーの効いたタクシーから降りると都会の熱気が伊藤を襲った。

 夕方の銀座四丁目の交差点はいつものように歩行者で溢れ返っている。銀座通りの往来はタクシーとバスと車でごった返し、排ガスの匂いと騒音で充満していた。

 和光の前の信号で青になるのを待っていると三越のライオンの銅像の前で文香が立っていた。しかし奇妙なことに赤いドレスを着て、生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。そして伊藤にゆっくりと頭を下げた。伊藤は額に汗をかいているのになぜか背筋が寒くなった。

 信号が青になる直前、目の前に大型バスが通り過ぎ、文香が立っていた辺りを捜したがもうどこにも彼女の姿はなかった。文香を見たのも多分気のせいだと思い伊藤は三越の前で文香が現れるのを待った。一時間近く待ったが文香は来なかった。

 携帯に何度連絡しても繋がらず、「お掛けになった電話は、電波の届かない場所にいらっしゃるか、電源が入っていないため、掛かりません」と同じメッセージが聞こえて来る。仕方なく一人でクラブ「エンジェル」に向かった。並木通りはクラブの恒例行事「浴衣祭り」のせいで若い女性の浴衣姿が目立った。八時近くに店に入ったがまだホステスも少なく客の入りも疎らだった。店の入口付近のソファでは浴衣を着用したホステスたちが携帯片手に待機していた。

 黒服に奥のコーナーの席を案内され、そのシートの真ん中に座ると早速顔見知りのホステス陽子嬢とヘルプのホステスが席に付いた。伊藤は黒服にまずビールを直ぐに持って来る様に注文した。ホステスから注がれると乾いた喉に一気に流し込んだ。一息つくと陽子に文香はまだ出勤していないのかどうか聞いた。

「ええ、まだ来てませんよ。て言うかここ一か月彼女お店に来てないんですよ……あんまり無断で休むと馘になっちゃうんですよ。文香さん、ただでさえ店長と反りが合わなくていつも怒られてるのに…」

 陽子が文香に同情して言った。

「そうですか?今日、同伴の約束したんですけどね」

「あら?それで文香さん来なかったの?」

「ええ……」

 伊藤は段々不安になって行った。

「で、それから連絡はしてみたんですか?」

「ええ……何度連絡しても携帯にも出ないし……」

「私も文香ちゃんに連絡して見ます」

 そう言って陽子は携帯のボタンを押して発信音に耳を傾けていた。

「あら、本当!出ないわね」

「ちょっと私、心配ですから彼女のマンションに行って来ます」

 伊藤は意を決して立ち上がった。

「文香さんのマンションご存じなの?」

 陽子も心配な顔になっている。

「ええ、タクシーで送って行ったことも何回かあるので…」

 

 伊藤は店の勘定を済ませ銀座通りからタクシーを拾った。嫌な胸騒ぎがしている。

 文香のマンションは六本木タワーマンションと言う名称の高級高層マンションだった。エントランスはオートロックだったが、住人の後に付いて中に滑り込んだ。マンションの内装はまるで近未来映画に登場するような人工的な造りだった。外の蒸し暑く息苦しい程の不快感がロビーの最適に調整された空調によって一瞬の内に消えて行った。セキュリティも管理もしっかりしていて受付まであった。エレベーター前にも指紋照合と暗証番号のオートロックが設置され部外者はエレベーターにも乗れないシステムになっていた。

 受付カウンターには銀行員のような制服を着た受付嬢が二人立っていて、ネームプレートに田村と書かれていた女性に尋ねた。

「ここに萩原文恵と言う女性が住んでいるはずですが部屋に連絡は取れませんか?」

 文香は源氏名で本名は文恵のはずだった。文恵と言う古臭い名前を彼女はいつも嫌がっていたので伊藤も彼女の本名を憶えていた。出身も島根の田舎でもう何年も帰っていないと伊藤に話していた。

「はい、お部屋に連絡は取れますが、ご家族の方ですか?」

「いえ、友人です」

「ご家族以外の方は規則で連絡できないようになっているんですが」

「いえ、彼女に何かあったかもしれないんです。調べてみていただけませんか?」

「そうは言われても……でしたら、そこのインターフォンからお部屋を呼び出されてはいかがです?」

「部屋の番号が分からないからあなたに聞いているんじゃないですか?」

「ではご家族の方に連絡してみます」

 受付嬢はカウンターにあるパソコンから家族の連絡先を調べているようだった。

「お一人でお住まいのようですね」

「そうです。彼女は一人暮らしです。そんな事は私でも分かっています。携帯に連絡しても全く出ないし、職場にも出勤していないんですよ。何かあったとしか考えられないでしょう?」

 伊藤は段々苛立ちを憶えた。

「そう仰られても……」

 伊藤は一番想像したくない事をその受付嬢に告げた。

「もし本人が部屋で死んでいたらどうするんですか?」受付嬢の顔色が変わった。

「すみませんが、免許証とお名刺をお預かりしても宜しいですか?」

 伊藤は受付嬢にそれらを渡し、カウンターの後ろの壁にあるドアから事務所に入って行った。二、三分経って警備員と共に受付嬢が現れ免許証と名刺を返された。コピーでも取ったようだった。

「只今、お部屋の電話に連絡しましたがご不在のようでした」

「だから部屋を調べてみてください。何か事故が起きていたらどうするんですか?」

 伊藤は融通の効かない受付に切れそうだった。こんな近代的なマンションに人の動きを感知するセンサーが付いていないのも不思議だった。

「承知致しました。ではお部屋の様子を調べにこれから警備員と参りますのでご同行して頂けますか?」

「勿論!」

 マンションの四十二階に彼女は住んでいた。黒と銀のツートンでコーディネイトされたエレベーターは高速で上昇して四十二階まで僅か四十秒程で着いた。

 エレベーターから降りて萩原はフロアを見廻した。マンションは吹き抜けになっていたが、自殺と事故防止のために高い塀に遮られ階下は見えず、ロビーの明るさとは対照的にフロアは薄暗く静かだった。一階のロビーでは分らなかったがロの字型の回廊になっていて、ワンフロアにおよそ三十室ぐらいはある造りになっている。

 文香の部屋はエレベーターから一番離れている東側の奥にあった。三人で文香の部屋の前まで行くと警備員が何度かチャイムを押しながら名前を呼んだが応答はなかった。

 側にある鉄のドアを開けると電気メーターがあってそのメーターがクルクルと回転しているのを見て誰か人がいると警備員は確信した。

 部屋の密封性がいいせいかそれほど強烈ではないのだが微かに異臭がして、三人とも黙っていたが何か嫌な予感がしていた。 

 警備員は恐る恐るスペアカードキーを差し込んだ。開けた途端、淀んだ重い空気と腐敗臭が襲って来た。受付嬢は中に入るのを躊躇っていた。

「文香!いるのか?」

 伊藤は大声で文香を呼んだが返事はなかった。警備員と伊藤は靴を脱がずにゆっくり中に入った。

 長く続く廊下は文香の几帳面で綺麗好きな性格が表れていて、ワックスで磨かれ余計なものは何一つ置いていなかった。最初に廊下の両脇にある和室と洋室のドアを開け、中の様子を見た。洋室は寝室でベッドと化粧台が置かれていた。

 もう一つの和室には調度品も何もなかった。警備員も伊藤も恐怖に震えていた。その先に浴室とトイレがあり、そこもまたバス用品、トイレ用品が綺麗に片付けられて人の気配はなかった。二人は悪臭のする部屋は正面のリビングルームからだと何となく分っていた。警備員が奥のリビングルームに近づき、ドアのノブに手を掛けゆっくり押し開いた。

 そこには首を吊った文香がいた。

 警備員は恐怖で床にへたり込み、伊藤は警備員の直ぐ後ろに立って茫然としていた。死体は強烈な腐敗臭を漂わせている。まるで腐ったクサヤかイカのような酷い匂いだった。こんな匂いは一生忘れられないと思った。

 伊藤はポケットからハンカチを取り出し鼻を押さえた。部屋のカーテンは閉め切られていたがどの部屋も照明が点けっぱなしだった。暗ければまだ良かったかもしれない。部屋の惨状がはっきり見えて伊藤は吐き気を催した。多分、死後一か月以上は経っているだろう。首は妙に折れ曲がり顔はチアノーゼを起こして紫色と言うよりすでに黒ずみ腐敗している。眼球は二つとも飛び出てかろうじて視神経のおかげで頬の辺りにぶら下がっている。舌もどす黒くなって長く垂れ下がっていた。口内からの出血のせいで赤いドレスの腹部の辺りは血液と体液で黒ずんでいる。夏場一か月も密閉された換気の悪い部屋では腐敗の進行が早かったようだ。

 床にはもう一つ異臭を放つ黒い固まりがあった。ロングドレスのせいで文香の両脚が見えないのだろうと思ったが、その床の固まりは文香の臍から下の胴体と両脚だった。腐敗が進んだ胴体は体の重みで下半分が千切れてしまったようだ。

 伊藤は最初判然としなかったが、目を凝らすと腹部の断面から人間の形をした胎児の姿が見えた。その胎児ももうすでに腐敗していた。伊藤は我慢できずに慌てて外の回廊に出た。警備員も伊藤の後に追うように飛び出して来た。伊藤は外の空気を大きく吸い込み、呼吸を整えて受付嬢に警察と救急車を呼ぶように指示した。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。