彷徨(KWAIDAN) 第一話 全十七話

彷徨(KWAIDAN) 第一話 全十七話

小泉八雲オマージュ小説(2011年作)

 嫌な天気……黒い雲……気持ちがどんどん沈んで行く……体も沈んで行く……暗い穴に落ちて行く……とてもだるい……もう、もう何もしたくない……って言うかもうどうでもいい感じ……どうでも……寒い………寒い……今頃、田舎の山は雪が降って真っ白になってる……良く歌った、あの歌………………雪やこんこ、あられやこんこ、降っては降ってはずんずん積もる……ずんずん積もる………………武志君、元気かな?……美樹ちゃん、結婚したかな?……もう田舎に随分帰っていない気がする……お父さん、元気かな?……あれ?お父さん死んだんだっけ?……お婆ちゃん死んだよね……ポチも家の前で車に轢かれて死んだんだよね?……ポチかわいそうだったな…潰れちゃった…雪の上でぺっちゃんこ……ポチのあの赤い舌……口の中から血がいっぱい出てた…あれ?お母さん生きてたっけ?……憶えてない……止めた、考えるの止めた……疲れた……………雪やこんこ、あられやこんこ、降っても降ってもまだ降り止まぬ…………お化粧もした、ラメもちょっと目の周りに入れた……綺麗……髪も自分でセットした……上手くできた……このドレスはお客さんに買ってもらった……私ってお店でも人気があった…………毎晩同伴してた……赤いドレスもいいけどやっぱり白よね……でも赤いドレスも気に入ってたの……どうしようかな?……白は純潔、赤は情熱よね……白いドレス……白……白い雪……うん、決めた、こっちにしよう…………………雪やこんこ、あられやこんこ………………こんなにお腹大きくなっちゃった……雪だるまみたい……お腹の子はちょっと可哀想…ごめんね…赤ちゃん……ごめんね……ちゃんと生んであげたいけど……お父さんがいないから……産まれても不幸になるんだよ…………やだ!紐が汚れてる……アルコールで拭かなくちゃ……念入りに拭かなくちゃ……念入りに……私、潔癖性なんだよね……電車の吊り革にも触れない……誰が触っているか分らないから嫌!……外の化粧室も苦手……便座に座れない……除菌シートで拭かなきゃ駄目……本当はそれでも嫌なんだけど……汚い……みんな汚い……嫌だ……本当に嫌な天気……頭が痛い……頭が割れそう……お医者さんにもらったお薬どこに置いたかな?……バッグの中かな?……洗面所?……あれがないともうだめ……お医者さん、飲み過ぎちゃ駄目だって……でも飲み過ぎちゃう………最近、手が震える……何か思い出せないことが多い…………凄く強い薬だって……イライラする……最近、薬切れるとイライラ、イライラ……あのママ!……私がちょっと成績が悪いと直ぐ説教しやがって……私だけ……私だけいつも説教しやがって……頭に来るんだよ……雅子にはチヤホヤしやがって……死んでしまえ!あんなクソババア!……陰険だよ……陰険……雅子も嫌い……美香も嫌い…………あの男も許せない……あのエロ部長……殺してやる……奥さんと別れて私と結婚するって言うから体を許したのに……何回もあいつに抱かれた……何回も何回も何回も……何年も奥さんと別れるの待った……何年も何年も何年も……みんな死んじまえ……みんな死んじまえ……みんな死んじまえ………ひいいいいいいいいい…………………あれ?何するんだっけ?……薬、飲んだっけ?……もう一回飲んでおこう……先生、余り飲んじゃいけないって言ってた…………どこ?…この紐どこに引っ掛ければいいの?………マンションって不便……天井の照明のコード……ここ?……外れないように固く…………椅子………これで完璧………紐が冷たい…………あの部長、知ったらどう思うかな?……少しは悲しんでくれるかな?………もうそんなことどうでもいい………雪やこんこ、あられやこんこ………………椅子を……蹴って………ううっ……く、苦しい……あれ?……私……トイレ行ってない……トイレ行くの忘れてる……嫌だ!…漏らしちゃう……嫌!嫌!……駄目!こんなの格好悪い……首が締まる……ロープ外さなきゃ……でも、駄目……指と一緒に食い込む……嫌、死にたくない……トイレに行かせて……誰か助けて……うう……苦しい……苦しい……痛い……痛い…死にたくない……死にたくない……恐い……誰か助けて……誰か助けて………お母さん助けて……

             *

 平成十八年夏 島根県飯石郡

 朝から黒い雲に被われ、夏なのに冷たい風が吹いていた。飯石の萩原新一郎の借家からバス停まで三十分、それからバスに乗って三十分ぐらいの所に萩原の勤めるガラス工場がある。萩原は今日も全く働く気が起きそうにない憂鬱な一日を迎えようとしていた。

 今日二十五日は毎月の給与支払日。お前の働きはこれぐらいにしか値しないと少ない支給額を突きつけられ、この日ぐらい労働意欲のなくなる日はない。自動振り込みで明細書だけが経理の女子事務員から社員一人ずつに手渡され、萩原は変わることのない給与額を確認もせず無造作にズボンのポケットに仕舞い込んだ。

 額面は二十四万だが所得税やら住県民税、それに厚生年金などで引かれると手取りは二十万、借家の賃貸料が五万円、光熱費二万円、食費三万円、そして借金の返済に毎月七万円支払うと萩原の毎月の小遣いは昼食代と煙草代で消えて行った。

 どんな安い居酒屋にも行けず仕事仲間の誘いも断っていると同僚から付き合いが悪い、愛想がないと陰口を叩かれそのうち誰からも誘われることがなくなった。

 

 帰宅し露子に憮然として給与明細書を渡した。露子は「お疲れ様」と言って頭を下げ両手で受取った。萩原の働きには愚痴一つ言わず心の底から感謝している。

「直ぐに食事の用意をするわね」

 露子は台所に立ち萩原のために甲斐甲斐しく料理を作り始めた。

 露子は今年でもう三十五になろうとしていたが、見た目は三十と言っても良いくらい若く見える。白い肌、切れ長の美しい目、そして何より長い黒髪がよく似合っていた。

 しかし萩原は露子が自分に優しくすればする程疎ましかった。何よりも自分の不甲斐なさ、貧しさが許せなかった。そんな自分を露子に慰められたりすると余計腹が立ち、まるで負け犬のような気持ちになった。

 今から二十年前、萩原は東京の大学で優秀な成績を修めていたが中々就職の内定が決まらず焦心の日々を過ごしていた。それは萩原の傲慢さと協調性に欠ける性格のせいだった。学業の成績ではなんら問題はなかったが面接試験になると高慢な自分が出て、試験官の不躾な質問に答えず口論になることも度々あった。

 三十社近く応募して全て不採用通知が送られて来た頃にはもう半ば自棄になっていた。そんな最中、田舎で暮らす父が脳梗塞で倒れ、萩原は急遽島根に帰郷したが、それから一週間後、父は意識が戻ることもなく五十五歳でこの世を去った。

 父には萩原も知らなかった多額の借金が残されていた。酒と女と博打に明け暮れる毎日で借金は晩年雪だるまのように膨れて行った。

 実家の土地と畑はすでに銀行の抵当に入っていた。競売に掛けられ銀行が代金を受け取ってもまだ多額の借金が残っていた。翌月から萩原に返済義務が生じ、学費も払えず、大学を中退せざるをえなかった。萩原は父を恨んだ。 

 

 山の中の集落に一軒家を借りて母と妹と三人で暮らしていた。島根に戻って三年後、その母も他界した。妹の文恵は高校を卒業するとあっという間に一人で東京に行ってしまった。この飯石の何もない田舎暮らしを嫌っていた。文恵からはそれ以来何の連絡もなく、どこで何をしているのかも分からなかった。

 萩原が島根にいる理由は何もなくなったが、東京に戻ろうとも思わなかった。生きる気力も働く気力も失せ、ただ父の借金が残っているだけだった。

 それでも人間関係の不得手な萩原は運送業、おしぼり配送業、清掃業と人の交わりの少ない職を選び働いた。しかし経営者や従業員との諍いが絶えず、どの仕事も長続きしなかった。

 ある日、街外れにあるガラス工場が新聞折り込みチラシで社員を募集していた。萩原は早速その工場に出掛け、敷地内の片隅にあるプレハブの事務所で面接を受けた。

 事務所の粗末なソファで待っていると小太りで色白の中年男性が現れた。その男は「私がここの社長です」とわざとらしくドスの利いた声を出した。着ているスーツは上等らしいがまるで七五三の貸衣装のように見えた。

 萩原は手に職を付ければ将来潰しがきくだろうと職工を希望したが、「今は営業職しかない。それが嫌ならうちは雇えない」と言われた。家賃も溜まり食べる物にも事欠く有様で仕方なく承諾した。

「それなら明日から雇ってやろう」恩着せがましく言う。

 社長は自分の容姿にコンプレックスを持っていた。目の前にいる背が高く男前の萩原に嫉妬を覚えた。

─こんな男を職工なんかにして堪るか!辛い外廻りと雑用でこき使ってやる。

 働き始めて一週間で分かったが、ガラス工場の営業とは週に二度、松江の得意先に食器を納品して新規顧客を開拓することだった。それ以外の日は工員たちから工場内の掃除と雑用に使われた。それ程大きな工場ではなく製造量も大手のガラス食器メーカーとは比べ物にならず、どう見ても将来性のある会社とは思えなかった。

 大学だけでもあの時卒業していれば地方公務員にでもなれる可能性があったのだが中退ではその道も閉ざされていた。

 

 萩原はすっかり自分の人生などどうでもいいと思う捨て鉢な人間になってしまった。しかしそんな萩原の無気力さが周りの女性たちを虜にした。松江の食器の小売店や百貨店の女性店員は萩原を放っておかなかった。どこか遠くを見るような目が女性たちには虚無的で神秘的に映った。近づいて来る女性たちと一、二度、萩原は関係を持ったが誰も長続きはしなかった。萩原は若い頃より背が高く彫りの深い顔立ちで高校、大学と女性に不自由することはなかった。自分の容姿に惹かれて抱かれに来る女性には愛は感じなかった。萩原の外見だけを愛し、内面を愛そうとするような女性は誰もいなかった。ただ愛のない退廃的なセックスばかりを繰り返し、深く暗い穴に沈んで行くだけだった。

 

 萩原が三十になる頃、髪を後ろに束ね眼鏡を掛けた露子が女子事務員として働き始めた。露子とたまに顔を合わせることがあったが萩原には何の興味も示さなかった。大抵の女性は萩原にデートに誘って欲しいと目で訴えて来るのだが、露子はそんな素振りを微塵にも見せることはなかった。

 萩原は次第に露子に興味を持ち始めていた。地味だが良く見ると露子は透き通るような白い肌と生き生きとした黒い髪を持っていた。眼鏡を外して髪を下ろしその地味な服を取り払ったらどんな女が現れるのか興味があった。

 そして萩原は一度でいいから抱いてみたいと言う欲求が膨らんで行った。露子を何度もデートに誘ったがその度に断られ早足で逃げられた。こうなると萩原は余計頭に血が上り、理性を失った。

 

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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