紫陽花が濡れそぼる頃 33(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 33(オヤジの小説・全33話)

2021年10月21日

 翌朝、携帯が鳴り液晶を見ると由起からだった。
「児童相談所から面会できますって連絡があったの。一緒に行ってくれる?」
「勿論」そう答え、まだ寝不足だったが小河原は起き上がった。
 小河原と由起は児童相談所のある多摩地区の西武線の駅で待ち合わせた。この日も猛暑の上、風一つ吹いていなかった。遠くの景色が陽炎のように揺れていた。児童相談所は駅から少し離れた場所にあり徒歩ではとても暑さに耐えられそうになくタクシーで向かった。四、五分で相談所に着いた。
 児童相談所は鉄筋コンクリートの立派な三階建ての庁舎で入り口の直ぐ側に受付があり児童援護担当の名前を職員に伝えた。職員は控え室に案内してくれた。部屋は応接用のテーブルと椅子が四脚あるだけで由起と小河原はその椅子に座り職員が来るのを待った。
 五分程待つと担当の職員が現れた。小学校か中学校の先生のようなタイプだろうと思っていたが想像していたタイプと違って如何にもお役人という感じだった。小河原より若干若そうな職員が真面目な顔をして事務的に話し始めた。
「精神鑑定も行いましたが特に問題はありません。ただストレスが強くかなり神経質になっています。ご両親が離婚されたことが相当ショックだったようです。お父さんが家を出て行って他の方と暮らしていることも理解できないようです。それからお母さん、いつもお父さんの悪口を息子さんに話していませんでしたか?」
「はい……そうだったかもしれません」
「お母さんの愚痴をこれ以上訊きたくなかった、そう言ってますよ。それにお母さんに頭が上がらないでおどおどしているお父さんを見たくなかったようです。息子さんのためにもう少し和也君との接し方を考えてやって頂けませんか?」
「はい」としか小河原は答えられなかった。
「それじゃ、和也君を連れて来ますが優しくしてやってください。怒ったりしちゃ駄目ですよ」
「はい」小河原と由起は同時に答えた。
 担当職員が内線して「じゃ、お願いします」と言った。女性職員に連れられて和也が部屋に入って来た。その女性職員は和也を担当職員の隣に座らせた。
「和也、元気?」由起が訊いた。和也は無言で頷いた。小河原は和也に許してもらいたかった。
「和也、ごめんな。お父さんが全部悪いんだよ。許してくれ。あの家にいた時は何も自信が持てなくてお母さんに何を言われても何も言い返せない本当に私はダメ親爺だったよ。お前の目から見れば情けない父親に映っていたのは分かってる。でも最近、前向きに考えられるようになったって言うのかな。人付き合いが嫌じゃなくなった。気が弱いのは相変わらずだが少し自分の性格が明るくなった気がするよ」
「……今、一緒に住んでいる人と結婚するんだ?」和也は俯いたまま小声で言った。
「いや、彼女は故郷に帰って行ったよ。でもお父さんは当分一人で暮らしてみようかって思ってるんだ。これからお父さんはもう少し違った人生を送ってみたいんだ。新しいことにもチャレンジしてみたい」
「やっぱり自分のことしか考えてないんだな」和也は捨て鉢気味だった。
「いや、和也のこともちゃんと考えてるよ。でもお前に相談もせず勝手に離婚したことは許してくれ」和也はまだ納得の行かない顔をしている。
 担当職員が間に入って和也に聞いた。
「和也君、ご両親の仲が悪くて君が辛いのは良く分かるが、みんなそれぞれの人生を大切してもいいんじゃないかな?」
「どう言う意味ですか?親が好き勝手に生きてその子供がとばっちりを受けてもしょうがないって言うんですか?」
 和也が顔を上げて担当職員に反抗的な目を投げ掛けた。
「いや、親は子供にストレスのない環境を与えるのが責任だよ。でも上手く行かない夫婦が世の中にはいっぱいいるんだよ。そんな環境の中で子供が生きていくのは大変なことだ。だから無理をして傷つけ合いながら一緒に暮らす必要もないんじゃないかな?」
 職員が和也に諭すように言った。
「…………」
 和也は俯いたまま返事をしなかった。この場で急に親子の仲が修復できる筈はない、もっと時間が掛かると小河原は思った。ましてまだ和也は十四歳だ。大人の世界を理解し難いのかもしれない。急いて息子を無理に説得するのは止そうと思った。暫く沈黙の間が流れた後、小河原が言った。
「和也、今度みんなで食事に行かないか?いや、お父さんがスパゲティを作ってやる。父さん料理ができるようになったんだぞ。旨いぞ。お母さんより旨いぞ」
「そんなこと言うとお母さんに殺されるよ」
 和也が小さく笑った。そしてそのまままた俯くと肩を震わせている。横にいる由起も俯いてハンカチで目を押さえていた。
「お父さん、お母さん、和也君をもう少し預からせてもらいます。この調子でしたら和也君がおうちに帰れる日も近いと思います。またご連絡しますから今日はこの辺で」
 担当職員に礼を言って和也と部屋で別れた。
 中々タクシーが拾えず国道沿いを由起と歩いた。
「あなた、同棲してた方とは別れたの?」
「まあな」
「まだその人が好きなの」
「ああ、好きだ…」
「これからどうするの?」
「まだ良く分からない。でもたまに家に帰っていいかな」
「いいわよ。あなたが建てた家でしょ」
「すまん」
〝謝ってばかりね〟笑ってそう言う咲知の声が頭の中で聞こえた。

 巣鴨の咲知のマンションの近くに家賃七万と手頃な賃貸マンションを見つけた。巣鴨の街が好きになっていた。咲知の部屋にいると寂しい思いがしたが巣鴨から離れるのは余計寂しい気がした。この巣鴨にいれば咲知にいつか会えるのではないかと言う一縷の望みのようなものがあった。しかし相変わらず咲知からの連絡はなかった。郵便局に移転届けを出したが咲知からの手紙は来なかった。郵便物は〝立花正親〟の名前で送られて来る百貨店のバーゲンの案内状だった。名前から男性と判断されているようで男性向けのダイレクトメールばかりが届いた。携帯メールも届かなかった。もう二度と会えないのだろうか──。小河原は咲知を懐かしく思った。
 和也はあれから一週間後に帰宅することができた。学校にもまた通学するようになり、塾にも通い出して和也は完全に元の生活に戻っていた。ただ以前と違って自分の意志で勉強しているようだった。和也の本心は今でも小河原は理解できていなかったが、きっと和也なりに答えを出したのだろうと思った。あの事件が和也のガス抜きになったのかもしれない。溜り溜った抑圧されたガスが一気に吹き出したに違いない。
 由起も清瀬の駅の近くの花屋で働き始めた。外に出て働くことや客が喜んでいる顔を見ると楽しいらしい。自分で稼いだ給料を初めて手にした時は感動したらしい。そんな取り止めのない話を小河原が家に帰る度に聞かされ、二人の間に会話が生まれた。今まで親に甘やかされて働いたことのない由起には全てが新鮮な体験のようだ。あんなに暗い性格だった由起が外で仕事をするようになり性格も人並みに明るくなった。しかし小河原の咲知に対する想いが未だ薄れていないことを知ってか清瀬の家に戻って来て欲しいとは由起の口にすることはなかった。お互い完璧に割り切れたと自信を持って言えないがこんな元妻との付き合い方もありかと身勝手に思った。
 小河原はバーテンダースクールの講師の勧めで本格的なカリキュラムのある学校に入学した。翌年の三月に開かれたバーテンダーコンクールでは創作カクテル部門の予選に通過した。この秋の全国大会に向けて創作カクテルの研究に励んでいる。料理の腕も上がった。それでも新宿のクラブマカオを辞めようとは思わなかった。この新宿二丁目の何とも不思議で奇妙な世界が好きになっていた。ここで働きここで生活している人間が好きだった。強烈に陽気でユニークだけど優しくて暖かで、強烈に過激だけど妙に物悲しくて寂しい人間たち。小河原はこよなく彼ら彼女らに親しみを覚えた。
 宇田川ビン子ママと三田マンジョビッチは相変わらず陽気で溌剌としている。この人たちの人生は当分変わりそうもなかった。依田はこの春あの若い彼女と結婚した。正式な婚姻はできないがクラブマカオで盛大に披露宴を挙げ一晩中オカマたちは騒ぎ捲った。
 その翌日、小河原は自分のマンションで洗濯物を干していた。付けっぱなしのテレビのニュース番組から小河原の聞いたことのある名前が聞こえて来た。小河原は何気にテレビの方に目をやった。テレビの画面には随分とやつれてしまったあの営業部長の写真が映っていた。悪徳商法の詐欺事件で検挙されてしまったようだ。
 人間万事塞翁が馬。禍福は糾える縄の如し。人生は幸福と不幸の繰り返し。楽しい時もあれば悲しい時もある。幸福と不幸を一緒に合わせてそれが人生。この先も予定外、想定外の事件が起こりながら人生を歩んでいくことになるのだろう──。
 
 咲知がいなくなって一年が過ぎまた梅雨の季節になった。蝙蝠傘を差して二丁目界隈を歩いていると「オガちゃん」と気さくに声をかけられた。今では新宿二丁目のちょっとした顔である。今日はあの紫陽花の鉢を持参して店の電飾看板の前に飾った。雨に紫陽花は良く似合う。ビルの一階に店の郵便受けがある。郵便物の確認も小河原の仕事の一つだった。電気代、電話代の領収書。酒屋の請求書。チラシの数々。その中に絵はがきが一枚紛れていた。何気に見ると絵はがきの写真の中に東南アジアの寺院の前で女性が立っていた。宛名は小河原の名前になっていた。小さなスペースにボールペンでぎっしりと小さな文字が埋まっていた。
 
 お久しぶりです。連絡しなくてごめんなさい。父は私が福岡に帰って半年後に癌で亡くなりました。息を引き取る前にもう反対はしない、好きなように生きろと父は涙をためて私に言いました。私も父にすがり大声を上げて泣きました。始めて父と最後の最後に理解し合えました。妹はあれから素敵な彼氏ができて近々その人と結婚するようです。少しほっとしています。今、私はタイのバンコクにいます。一大決心してついに女性になってしまいました。事後報告です。ごめんなさい。この葉書がそちらに届く頃には日本に戻っているかもしれません。

 もう一度、写真を穴の開く程凝視した。咲知だった。タイの民族衣装を身に纏って顔立ちも以前より女性らしくなって胸回りも幾分大きくなっているような気がした。小河原は急に落ち着きをなくした。胸が高鳴っている。本当に戻って来るのだろうか──。
 ビン子ママが開店一時間前に出勤して来た。ホステスたちは開店間際に傾れ込んで来た。今夜もオカマたちの宴が始まる。雨が降っている割に客足は順調だった。いつも通りオカマたちは客を持て成し客とともに酔って楽しんでいた。十二時近くになると客が終電を気にして潮の引くように少なくなる。慌ただしさが一旦収まり店の熱が下がったようだ。そんな時、ホステスたちは少ない客に群がりカラオケで盛り上がろうとする。オカマたちのリクエストで今夜も客のカラオケが始まり音楽に合わせてホステスたちは奇声を上げ始めた。小河原はそれを心地の良いBGMのように訊いてグラスを一つ一つ磨き上げていた。
 店の金属製の重い扉が開いてカウベルがカランと鳴った。真っ赤なヒールと真っ赤なドレスの美しい女性が入って来た。
 カウンターの中の小河原の前に座りその女性は言った。

「表の紫陽花、綺麗ね」
「ええ、あの紫陽花はずっとあなたを待っていましたよ」
                                    (了)

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。