紫陽花が濡れそぼる頃 30(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 30(オヤジの小説・全33話)

 バーテンダースクールに遅刻しそうで慌てて小河原は外に出た。真夏の日差しで茹だるような熱気がアスファルトから立ち上った。道すがら由起に電話を掛けた。掛けてどうなる訳でもないことは分かっていたがそれでも連絡せずにはいられなかった。
「家主に手紙を出したのはお前か?」小河原は単刀直入に切り出した。
「さあ、何のことかしら?」
 どことなく喜んでいるような口調だった。
「頼む。もういい加減にしてくれないか?僕を幾ら責めても構わないが咲知を虐めるのは勘弁してくれ。こんなことして何になる?」小河原は由起に拝むように必死に懇願した。
「だから何もしてないわよ。オカマと暮らすと色々大変みたいね。あなたが未だに幸せになれないのは神様の罰よ。私に言いがかりをつけるのは止めてちょうだい」
「そうか、あくまで白を切るならしょうがない。もう二度とこちらから連絡することはないからそのつもりで」小河原は毅然とした口調で由起に言った。
「あなたはお気楽でいいわね。報告しておきますが、和也は学校も塾も行かないで部屋に閉じ籠っています。こんなことになったのもあなたがオカマと不倫して家を出て行ったからです。子供のことは全部私に任せっきりであなたは何もしなかったわ。あなたがしたのは不倫だけ。最低のダメ親父ね。私の連絡に出ないつもりならオカマの方はこれからもっと不幸になるでしょうね」一方的に携帯が切れた。
 この先、死ぬまで由起の怨念に悩まされるのかと思うと陰鬱な気持ちになった。警察に追われるより由起に追われる方が怨念が混じっている分だけ恐ろしかった。本当に国外逃亡しか道は残されていないような気がした。
 
 バーテンダースクールの講習では今日はアレキサンダーの作り方を習った。ブランデー、生クリーム、カカオを入れシェイクする。妙に甘過ぎたり、ブランデーが強すぎたりと何度も小河原は失敗した。苦戦する小河原を見て講師が言った。
「バーテンダーは雑念が入ると味覚も変って思い通りのカクテルができなくなります。カクテルはとてもデリケートな飲み物なのです」
 カクテルの味だけで自分の精神状態を見抜かれていた。バーテンダーとは技術だけではなく冷静な平常心を持ち続けなければならない。確か依田からも同じことを助言されたのを思い出した。依田は客の好みに気を遣い常に冷静に振る舞っていた。たった二週間しか一緒にいなかったが、あの矍鑠と紳士然とした依田に久しぶり会ってみたくなった。
 授業が終わると依田に連絡した。相変わらず渋さのある容貌の割には澄んだ美しい声が携帯から聞こえた。依田は快く小河原の訪問を了承し、小河原は住所を教えてもらった。依田の住まいはクラブマカオの近くで厚生年金会館跡地の裏手にあると聞いた。あの風貌からするときっと古い木造アパートの畳敷きの和室で、難しい書物が積まれた居間と古い鍋釜の置かれた台所、昭和の名残りがする質素な生活を送っているに違いないと想像していた。三丁目で降りて伊勢丹の地下で依田の好みそうな煎餅を手土産に買った。靖国通りに出て会館跡地の手前を左に折れそこから二、三分歩いて教えられた番地に着くと小河原の想像と違って洒落た近代的なマンションが建っていた。エントランスのドアの前にインターフォンのパネルがあり、部屋の番号を押した。小河原が名乗ると「どうぞ」と依田の声が聞こえた。エレベータで三階まで昇りエレベータホールから少し離れた所に「依田」と書かれた表札を見つけた。ドアチャイムを押すと依田はTシャツにジーンズと言う出で立ちで現れた。
「やあ、久しぶり。どうぞ狭い所ですがお入りください」
 小河原は「失礼します」と恐縮しながら部屋に入った。洋室の居間と和室が一室ある2DKの間取りでどこも整然と片付けられていた。居間に通されデパートの包装紙に包まれた煎餅の詰め合わせをテーブルの上に置いた。何だか煎餅がこの部屋にはとても不釣り合いに思えた。
「こんな気を遣わなくてもいいのに」依田は箱を両手で触れ頭を下げた。
「いえ、気持ちですから……それにしても綺麗にお部屋ですね」
 洋室の壁は全面白一色で床は明るい色のフローリングだった。書棚の上段には酒とカクテルの本が並び、下段にはCDが沢山立て掛けられていた。その側にCDプレーヤーと木製の高さ三十センチ程のスピーカーが置かれていた。全く飾り気のない部屋だが全体明るめの木目で統一されてセンスの良さを感じた。
「もっと爺むさい部屋だと思っていた?」
 依田が片方の口角を上げて小河原の表情を興味深く眺めていた。
「いえ、そんな……何かもっとダンディーな感じの部屋に住んでいるのかなって……」図星だったから必死に誤摩化した。だが部屋の雰囲気がどうも依田のイメージと噛み合ず違和感を感じた。
「珈琲でいいかな」依田が訊いた。「はい、お構いなく」小河原は勧められたダイニングテーブルの椅子に座り、依田がキッチンでコヒーを煎れ始めた。鍋も釜も表に見える所にはなく、シンクもその周りにある食器棚も綺麗に片付けられていた。所在無さげに部屋を見廻していると書棚の一番上に木枠の写真立てがあった。その中にはモノクロの母子の写真が収められていた。中年の着物姿の女性が椅子に座ってその隣には中学生ぐらいの少女が立っていた。ズボンに白い長袖のシャツを着て、髪はショートカットで切れ長の目をした少女だった。写真館で撮ってもらった記念写真のようだった。
「この写真は奥様と娘さんですか?」小河原は何気に訊いてみた。
「それは私の母です」
「それじゃお母様の隣の女の子は依田さんの妹さんですか?」
「ははは、それは私だよ。私が中学を卒業した時の記念写真だ」
 小河原は言われた意味が良く分からなかった。はっと気が付き依田と写真の中の少女を見比べた。
「そう、私はオナベです。今風に言うと性同一性障害、FTM(女性から男性)って言うのかな」写真の中の二重瞼の少女は確かに依田の面影があった。
「……………」
 小河原はショックで暫く言葉が出なかった。咲知が同一性障害だと聞かされた時の衝撃を思い出した。クラブマカオなら依田がオナベであってもおかしくはない。しかし女性が男性になると言うことに小河原は理解できなかった。精神的に肉体的にどうなっているのだろうか──?
「でも立派なお髭ですし、体格も男らしいですよね」
「そりゃ、私だって未だに男性ホルモンを打っているからね。それに胸はとっくの昔に取ってしまったよ。ただ下の方はそのままだがね」
 依田はマグカップを両手に二つ持ってその一つを小河原の前に置いた。
「お店の皆さんは依田さんがオナベだって知ってるんですか?」
「ああ、みんな知ってるよ……そうか、君には言ってなかったな。別に隠す気なぞなかったよ。昔は女と思われるのが嫌でしょうがなかったがこの歳になったらどうでもいい。私はオナベの天然記念物だ」堂々として男らしかった。依田が続けた。
「その母もその記念写真を撮った後に癌で死んだよ。母と写った最後の写真だ」
「でも可愛らしいお嬢様だったんですね」
「そう言われるのが物心ついたときから嫌でね……父親は私が二、三歳の時に戦死してね……まあ、娘の成長を見なくて済んだから幸せだったろう。ただ母には苦労掛けた。写真を飾ってるのも自分への戒めだね。母が死んで親戚に預けられたが居心地が悪くてね。高校も中退して直ぐに上京してこの二丁目で働き始めた。まだその頃はオカマなんて世間からすれば化け物扱いだったし性転換手術なんか認められてなかったから今よりもっと肩身が狭かった」

依田は遠い目をして話を続けた。

「東京オリンピックの頃に〝ブルーボーイ事件〟って言うのがあってね。性転換手術をした医師が訴えられて有罪になった。それから日本では性転換手術は医者たちの間でもタブー視されて、後は国外で手術をするか国内のヤミ治療を受けるしかなかった。しかも男性から女性ならまだ治療法が進んでいたが女性から男性の場合、手術が難しくってね。女が男になるってことは大変なんだよ。オカマは取るだけでいいが、オナベはない所にくっ付けなきゃならんだろう」
「オカマ、オナベの歴史って色々あったんですね」
「そうだね。今じゃ十五歳からホルモン注射を打てるし、女性が男性になれる手術もあるし、いい世の中になったね……ところでマーちゃんは元気かな?」
 急に咲知の話題に変わった。
「はい、元気です」
「そうか、マーちゃんはいい子だ。大事にしなさいよ」
「はい」
 ドアフォンからチャイムが鳴り若い女性の声が聞こえた。
「アタシい。今、入り口い。早く開けて」
 依田が立ち上がりドアフォンのボタンを押して「どうぞ」と返事した。
「アタシ」直ぐにまたドアフォンから同じ若い女性の声が聞こえて依田はドアに駆け寄り鍵を開けた。
「ねえ、ヨーダ、アタシに合鍵ちょうだいよ。もう面倒くさいよ。それから今日の晩ご飯は豚しゃぶだけどいい?」
 そう言いながらアイドルグループのメンバーのような娘が入って来た。金髪のロングヘアの上に大きな黒いリボンを付けそしてピンクのワンピースに黒いハイソックスを穿いた二十歳そこそこに見える少女が重そうにスーパーのビニール袋を両手に下げていた。小河原はその娘と目が合いお互いに動きが止まった。
「あら、やだ。お客さんだったの」若い娘が赤い顔をして言った。
「どうも」小河原は恐縮しながら頭を下げた。後ろから依田が「私の彼女です」と照れもなく平然と言った。
「ああ、そうですか?……宜しく」
 もう一度頭を下げながら自分でも間の抜けた返事をしたと思った。
「小河原さん、夕飯でも食べて行かない?」
「いえ、これからお店ですからもう行かないと……」
「じゃあ、またゆっくり遊びに来てよ」
 依田のマンションを後にして歩いて店に向かった。依田の住まいも生活も予想に反してシンプルでセンスもいいし、男だと思っていたら実はオナベで、しかも四十以上は離れているであろう恋人はいるし、世の中、愉快だなと思った。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。