紫陽花が濡れそぼる頃 28(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 28(オヤジの小説・全33話)

もう逃げ出したい気持ちに駆られた時、店のドアが開いて客が一人入って来た。
 親友の渡辺だった。
 小河原は渡辺に気付かれないように俯いて顔を隠した。渡辺は真っ直ぐカウンターに向かい、止まり木に座って辺りを眺めていた。ホステスが「こちらにどうぞ」とテーブルに誘うと「嫌、今日はカウンターでいい。それより小河原がここで働いてるって訊いたんだけど……」尋ねられたホステスは必死に笑いを堪えている。小河原は渡辺を盗み見た。自分が女装していることがバレたらこの芝居が台無しになるだろうと気が気でなかった。ビン子ママがカウンターに入って止まり木に座っている渡辺に「ウィスキーでいいかしら?」と尋ねると渡辺は「ああ」と生返事をして辺りを眺め回している。
「オガちゃんは今、外出中でそのうち戻ってきますから…」
 ビン子ママは誤摩化した。納得したのか渡辺はボックス席に移って他のホステスと歓談し始めた。
「オガちゃん、あんた歳はいくつだ」
 松野は他の客を放っておいて小河原にだけ話し掛けている。なるべく声を出さずに頷いたり首を振ったりしていたが答えずにはいられなかった。
「五十になります」
「そうか、結構若いんだな」誰かと比べているような口調だった。他の松野の仲間はホステスとデュエットしてカラオケに興じている。松野はその間、自分の半生を話し始めた。結婚、妻の出産、何度かの出世と転勤、娘の成長、娘の結婚、看取れなかった妻の臨終。それはただひたすら一途に生きて来たサラリーマンの人生だった。
「もしあんたさえ良ければ俺と暮らさないか?二人で余生を送るのはどうだ?そうすれば俺も北海道になんか行かなくて済むんだ。勿論お前がオカマでもいい」
 松野の申し出は本気のように聞こえた。男に真剣に言い寄られどう答えていいのか困惑していた。本当のことを松野に伝えた。
「好きな人がいて一緒に住んでいます」
「そうか……残念だな……その相手は幸せだ」目の前にあった水割りを松野は一気に飲み干した。本当に残念そうだった。目の前に座っていた咲知も小河原の顔を一瞥した。小河原はもしかしたらこの松野と言う男は案外善人なのかもしれないと思った。
「ごめんなさい」小河原は小さな声で詫びた。終電の時間が迫り、松野は他の仲間に曲をリクエストしていた。流れた曲は「ラストダンスは私に」だった。
 松野にエスコートされダンスを踊った。
 小河原の耳元で松野は小さく呻いた。「ヨシコ、許してくれ」小河原にはそう聞こえた。ヨシコと言う女性は松野の妻のような気がした。小河原に妻の面影を重ねたのかもしれなかった。曲が終わると松野の仲間の一人が清算してお開きになった。ビン子ママと小河原、他のホステス二人も一階の入り口まで松野たちを見送った。
「松野さん、じゃお元気で。道中お気を付けて」ビン子ママが松野に花束を手渡し餞の言葉を贈った。小河原も深々と頭を下げた。咲知も手を振って見送った。
 ビン子ママと咲知と小河原はまた階段を下りて店に戻った。見送り終わったビン子ママと咲知の後ろに隠れてロッカールームにそのまま消えて着替えてしまおうと思っていたが「オガちゃん、どこに行くの?こっちいらっしゃいよ」と渡辺の前を通り過ぎる所を他のホステスに呼び止められてしまった。
「オガちゃん?」
 立ち竦む小河原を渡辺は奇妙な動物を見るような目をして固まっていた。
「あっ、小河原!」渡辺は大きな声を出して唖然としている。暫く口をぽかんと開けて目を丸くしている。現実に戻ったかのように目を瞬いて小河原に話し始めた。
「お前の再就職ってオカマになることだったのか?お前にこのケがあったとは知らなかった!」渡辺は長年の交友関係にも関わらず小河原の本性を見抜けなかったのが悔しいようだった。
「渡辺、誤解しないでくれ。俺にそのケはない」
 小河原は渡辺の手を引いて彼をカウンターまで連れて行った。
「何を言ってるんだ?オカマそのものじゃないか?それにさっきそこに座ってた親爺とチークダンスを踊っていたのはお前だろ?」
「まあ、そうだけど……」
「で、離婚したのもこれが原因か?……な、そうなんだろ?……そうか。そう言うことだったんだ。心配するな。恥ずかしがるな。これも立派な職業だ。堂々と生きろ。俺はお前の良き理解者だ。ただ誤解はするな。俺はノンケだ。お前を愛することはできない……」渡辺は人の話を訊こうともせず早口で言った。
「渡辺!違うんだ」
「あ、嫌、俺はお前が好きだが肉体的に無理だと……」
「頼む!頼むから落ち着いて訊いてくれ!」
 渡辺のために気分の落ち着くミントトニックを目の前で作った。手慣れた感じでコリンズグラスにアルコールを入れステアしてグラスに注いだ。渡辺が口につけると感心した顔で小河原を見た。小河原は渡辺に男らしくきっぱりと言った。
「渡辺、俺はオカマじゃない。バーテンダーになろうと真剣に勉強している」
 それから小河原は今日女装している理由、会社を辞めた経緯、妻と別れた経緯、咲知と同棲した経緯、クラブマカオで働き始めた理由、バーテンダースクールに通学していること、仕事も忘れて渡辺と一時間も延々と話し込んでしまった。渡辺は「え〜」とか「何?」とか「本当か?」とか一々目を見張って驚いていた。咲知と同棲している件では渡辺の好奇心で質問攻めに遭った。「一緒に寝てるのか」、「あっちの方はどうなっているのか」、「風呂は一緒に入っているのか」、「彼女と結婚できるのか」と渡辺は矢継ぎ早に早口で捲し立てた。結婚について以外は無難に答えておいた。小河原も結婚の二文字を考えたことはある。しかし日本の現行の法律では咲知が肉体的に完全な女性でなければ結婚はできない。咲知の今の状態のまま結婚をすればそれは同性婚になる。ところが同性婚はまだ日本では認められていない。しかし性同一性障害の場合、条件を満たせば結婚ができる。二十歳以上で子供がいないこと。性適合手術を受けていること。そうすれば咲知の戸籍の親との続柄の欄が「長男」から「長女」に変る。賛否両論はあるものの同性婚を認めている欧米と比べれば日本はまだまだ封建的だ。結婚はできなくとも咲知と一生支え合って生きて行けたらと、今はこんな気持ちになっていた。
「それで、今、お前は幸せなのか?」渡辺にそう訊かれた。
「ああ、幸せだよ」小河原は率直に答えた。
「元の奥さんとはお互い納得の上だろうが息子のことは心配じゃないのか?」
「気がかりだけど、あいつは大丈夫だろう」
 本心を言えば多少の心配はあった。夫婦の離婚に関係のない息子を巻き込んでしまったのだから──。しかし息子が少しでも父親に未練や愛情を示してくれたなら息子のために離婚を思い留まったかもしれない。息子は日々の勉強に追われ母親の命令に従うだけで父の意見など訊こうともしなかった。小河原の息子に対する愛情も次第に薄れて行ってしまった。結果がこうなってしまった今、息子の想いも割り切って前に進んでいたつもりだがいつも頭のどこかで枷となっていた。
「まあ、お前が幸せなら良かった。それにしてもお前、綺麗だな……また来るよ」
 渡辺はそう言い残して店を出て行った。
 客が少なくなって店が落ち着いた所で咲知に化粧を落としてもらった。ドレスを脱いでティーバックもヌーブラも外してすっかり男に戻るとやはり男の方がいいと思うのはノンケの証だろうと思った。バーテンダーの格好に戻ってカウンターで洗い物をしようとしたらマナーモードにした胸ポケットの携帯が震え出した。携帯を開いて液晶の画面の履歴を見ると由起からだった。気にはなったがもう深夜一時を廻っていたから昼間に掛けようと思いまた胸のポケットに戻したが直ぐにまた携帯が震え出した。由起からだった。こんな時間に何だろうと恐る恐る携帯に出た。冷たく暗い声が聞こえた。
「久しぶりね。元気なの?」
「ああ、元気だ。何の用?」久しぶりに聞く声で小河原は身が竦んだ。
「一緒に暮らしてるオカマの立花正親さんも元気なの?」
 咲知の名前を言われ愕然とした。由起は慰謝料を請求するために弁護士に頼んで咲知の本名と住所を知ったのだろう──。
「ああ元気だよ」
「立花さんのお父様は上京したのかしら?」
「なんでお前が知ってるんだ?」
「あんなお兄さんがいたら妹さんも大変よね」
「由起、お前が妹の結婚を駄目にしたのか?」胸の中に重苦しさを感じた。
「あら、変な言いがかり付けないでよ。それにもう夫婦じゃないんだから由起なんて呼び捨てにしてもらいたくないわ」
「な、頼むから咲知の家族まで巻き込まないでくれ……」
「ふざけないでよ。あなたたちだけ幸せにしてなるもんですか!」
 人間の女性が復讐心で姿を変えた鬼女と話しているような錯覚に襲われた。
「俺と咲知だけならお前の嫌がらせも甘んじて受けよう。でも咲知の父親や妹は関係ないじゃないか?」
「何のお話しているのか分からないんだけど……最近眠れないからあなたの声を聞いたら安心して眠れるかなって思って電話しただけよ。でもまだ元気そうだからがっかりね。あなたがもっと不幸じゃないと眠れない。また電話するわ。お休みなさい」
 由起の妙に落ち着き払った声色が小河原を怯えさせた。咲知に妹の破談は由起のせいだと伝えることなどできなかった。真実を言えば咲知は由起だけでなく小河原まで恨みに思って小河原の元から離れて行ってしまうかもしれない、いずれ話せる時が来たら打ち明けよう。やっと咲知に笑顔が戻ったばかりだ──。小河原はそう思った。目紛しい一日だった。小河原は女装と由起の電話のおかげで憔悴し切っていた。ビン子ママに早退を申し出ると「お疲れ様。大変だったわね。今日はもう上がっていいわよ」そう労ってくれた。翌日、早目に出勤してきちんと後片付けするからとママに断り咲知に先に帰っているからと言い置いて店を後にした。
 外は雨が降っていたようで街が薄らと濡れていた。始発で帰宅しようとするオカマ、ゲイ、レズビアン、客たちがビルから這い出して来た。小雨が降っていた。アスファルトの水たまりに二丁目のネオンの明かりが映っていた。水たまりに飛び込めば鏡のように映っている向こう側の世界に行けるような気がした。その水たまりの上を歩くと映り込んでいたネオン街の景色が波紋で掻き消されてしまった。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。