紫陽花が濡れそぼる頃 27(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 27(オヤジの小説・全33話)

2021年8月9日

 その日は一日中、そして次の日曜日もずっと咲知は元気がなかった。久しぶりに雨が上がり真夏のように晴れ上がった天気だったが小河原が咲知を外に連れ出そうとしても口数が少なく部屋に閉じ籠り切りだった。咲知は何かを考え込んで時折深い溜息を吐いている。小河原が話し掛けても返事はなく食事を作って咲知の前に出しても口を付けようとしなかった。
 夕方七時近くになっても外はまだ明るくマンションの窓から西陽が射していた。テレビはコメディアンが多く出演しているバラエティー番組が流れていた。咲知はテレビの前に座り呆然としている。テレビの中では底抜けに明るい笑い声が聞こえ煩い程だった。その笑い声に紛れて咲知の嗚咽が聞こえて来た。小河原は気付かない振りをして夕食の後片付けをしていた。咲知が近付いて小河原の背中に縋り付いて泣いている。小河原は振り返って咲知の背骨が折れる程きつく抱きしめた。どう慰めていいのか分からなかったし、何か言葉にしてしまうととても薄っぺらい気がして何も話すことができなかった。ただ咲知を抱き締めことしかできなかった。
 
 次の日の月曜日はバーテンダースクールに通学するためにいつも通り同じ時刻に咲知のマンションを出た。外はまた梅雨空に戻っていた。バーテンダースクールではちょうど半分のカリキュラムが終わり実習も佳境に入って小河原はカクテルにさらなる興味が湧いていた。ただレシピ通りに作ればいいと言う訳ではなく客の好みに合わせて工夫と創意が必要なのだと思った。たった一滴の違いで味が変わる。バーテンダーとは奥の深いクリエイティブな職業だと思った。一ヶ月の短期コースではなく二年間ぐらいじっくりとバーテンダーの勉強をしてみたいと考えるようになっていた。
 六時半に出勤して店の準備が全て終わった八時頃に咲知が店に入って来た。着替え終わりロッカールームから出て来ると今日の咲知は菫色のドレスを身に纏っていた。小河原は相変わらず美しいと咲知に見惚れてしまった。そこに咲知の携帯が鳴った。
「あ、おはようございます……はい……でも……」
 咲知は電話の相手に返事をしながら小河原の顔をちらちら見ていた。
「はい、分かりました。本人に訊いてみますね」
 咲知が携帯を切った後、小河原に近付いて話し辛そうに言った。
「今、ママから電話あったんだけど、この前、お店に来た松野さんてお客さん覚えてるでしょ?」子供に言い聞かすような優しい口調だった。
「そりゃ、まあ、忘れたくても忘れられないよ」何を言い出すのだろうと怪訝に思った。
「うん、その松野さんがもう定年退職で今月会社を辞めるんだって……その後は北海道に行って娘さん夫婦と一緒に暮らすみたいなの……それで最後にあなたに…」
「ちょっと待ってください…まさか?…」
「当たり!そのまさか。オカマのオガちゃんに会いたいって言ってるの。もう一度だけ女になってくれない?ねっ、もう最後だから、松野さん、どうしても最後にあなたに会いたいんだって。北海道に行っちゃったらもう二度とここには来ないから…いいでしょ?」
 咲知は小河原を何とか押し切ろうと早口で捲し立てた。
「いやあ、勘弁してください。もう無理ですよ」
「あのね、実は死んだ奥さんって言うのがあなたにどことなく似ているんだって…だから最後の別れだと思って松野さんとお話ししてあげて」
 咲知は今度は泣き落としに掛かった。
「そんな……何時頃、松野さんは来るんですか?」
「十時頃にはお友達といらっしゃるって」
「ちょっと待ってくださいよ」
「松野さんたち、終電のあるうちに帰るから、たった二時間よ。カラオケですぐ時間なんて経ってしまうわ……お願い。ママも困ってるのよ」
 咲知の口調が昼間と違って元気になっている気がした。小河原を必死に説得しようとしている。
「咲知さん、何か楽しんでない?」疑いの目で咲知をじっと凝視した。
「何言ってるのよ。ママのためよ」咲知は怒った顔をして言った。
 理由は何であれ咲知が明るくなってくれれば小河原は道化になっても構わないと思った。小河原はやむなく首を縦に振ってしまった。また親爺に迫られるかもしれない恐怖と不安が過った。松野の来店時間が十時頃と曖昧だったから咲知が早めに女装を済ませようと言い出した。ロッカールームに連れられてまず服を脱ぐように命じられた。語気まで強く勢いがあった。次に青いティーバックのパンツを穿くように指示された。咲知に背を向けてそのティーバックを穿くと男性物のティーバックパンツで前回穿いたものより収まりが良かった。次にウェストにくびれのできる矯正下着を付けた。さらにヌーブラを四つ取り出し小河原の胸にヌーブラを二枚重ねで装着した。咲知は小振りの乳房だが詰め物をする程薄い胸ではなかった筈だが、なぜこんなものまで用意しているのか不思議だった。小河原がまた女装する機会を窺っていたとしか思えなかった。咲知はシェービングフォームを掌いっぱい取ると小河原の両脚に塗り付け安全剃刀でむだ毛を処理し始めた。
「どうせなら綺麗な方がいいでしょ?」
 小河原は諦め咲知の好きなようにさせていた。これで咲知が元気になるのなら──。
 さらに咲知のロッカーに入っている深い赤のドレスを手渡された。
「前と同じチャイナドレスでもいいんじゃない?」と小河原が面倒臭そうに言うと「それじゃ面白くないじゃない」と真面目な顔をして言う。やはり咲知は楽しんでいる──。咲知のドレスでサイズが合うと思わなかったが着てみるとぴったりだった。咲知も「まあ、ぴったり」と嬌声を上げている。化粧も前回と違って全体的に濃く妖艶さを増していた。どうも咲知は娼婦のようなエロチックな女性に仕立て上げようとしているらしい。咲知は鼻歌を歌いながら小河原にメイクを施している。最後にブラウンのロングの鬘をブローして美しい熟女が完成した。咲知は小河原を立たせ女装した全身を数歩下がって眺めている。
「完璧なオカマだわ。この前よりずっと素敵」オカマの着せ替え人形になったような気がした。咲知は作品の出来映えに満足しているようだった。小河原は鏡の中の自分を見て胸の鼓動が高鳴った。胸を触ってみるとまるで女性の乳房のようなリアリティがあった。確かに前回より数段女っぷりが上がっていた。満更でもないと見惚れていたがその思いを必死に打ち消した。女装に嵌って行く中年親爺の気持ちが分かってしまった。女装趣味の男を「女装子(じょそこ)」「男の娘(おとこのこ)」と言うぐらいの知識はこの二丁目で身に付いていた。小河原ぐらいの歳でも「子」であり「娘」なのだろうかと馬鹿のことを考えていた。そしてニューハーフもオカマもゲイも女装癖の男もどこが違うのか分からなくなっていた。何だか全然違うのかもしれないが紙一重のような気もした。女装が終わったのは開店間際だった。どやどやとオカマのホステスたちが入店して来た。小河原はフロアに怖ず怖ずと現れるとホステスたちから「あら、新人さん、宜しくね〜」と声を掛けて来た。前回女装した時は皆、食中毒で店を欠勤していたから小河原の女装を知っている者はビン子ママと咲知の二人だけだった。咲知は相変わらず楽しそうに微笑んでいる。
 そこにビン子ママが店に入って来て「まあ、オガちゃん、素敵!」とうっとりした目で嘆声をもらした。それを聞いたホステスが「え〜!オガちゃ〜ん?うっそう!」と驚愕の声を上げた。その声を聞いた他のホステスたちが小河原の周りに集まり、みんな目を丸くして小河原のつるつるした脚や胸の膨らみを触っている。酷いのになると小河原の股間にまで手を伸ばして来た。「どうしたの?今日からオカマ?」「すっご〜い」「信じられない」「なんで、なんで?」「何よ!あたしより綺麗じゃない?」オカマたちは小河原に賞賛と嫉妬の声を浴びせた。小河原はこれほど恥ずかしい思いをしたことはなかった。
 ビン子ママがホステスたちに事情を説明した。一日だけのオカマだと分かり他のホステスは残念そうだったが面白がってもいた。しかし今夜は小河原の闖入でどのホステスもテンションが上がっていた。どこのテーブルもホステスたちの奇声と笑い声で盛り上がって喧騒のオカマバーと化していた。不必要に小河原は言葉で弄られていた。「オガちゃーん、可愛いわよ」「オガちゃん、こっちのテーブルにいらっしゃい」「オガちゃん、もうちゃんとアソコ取ったの?」
 松野ご一行は予定より三十分早く来店して、予約席のプラスチックのプレートが置かれた奥のボックスシートへビン子ママに案内されて席に付いた。その後から咲知ともう一人のホステスが客の間に座り小河原はその後に従い接客が始まった。バーテンダーが不在な分、ホステスたちが助け合ってお酒をセットした。今夜のオカマのホステスたちは自分たちのお気に入りのカクテルを我慢していた。その分、手間の掛からないビールとシャンパンに切り替えていた。
 松野は小河原の前回よりドレスアップした格好を見ると「ほう」と感激した声を漏らした。全身を舐め廻すように見ている。またも背中に悪寒が走った。松野は小河原の腰に手を廻して引き寄せた。その手を払い除け距離を取ろうとすると松野は小河原が恥じらっていると勘違いして目を細めている。それでも松野は気にもせず今度は小河原の肩に手を廻した。もう諦めて放っておいたがそれは小河原が松野を受け入れたとまた勘違いされた。何をしても松野から気に入られた。もう逃げ出したい気持ちに駆られた時、店のドアが開いて客が一人入って来た。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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