紫陽花が濡れそぼる頃 21(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 21(オヤジの小説・全33話)

2021年5月23日

 小雨そぼ降る鉛色の空合が小河原の気持ちを暗くした。それと対照的にベランダに飾った紫陽花の萼は鮮やかな青色を呈して生き生きとしていた。咲知が夜の勤めに毎夜出掛けるようになって小河原は咲知のために早めの夕飯を作ってあげた。ホステスは滅多に客の前で口に物を入れることができない。下手をすれば明け方まで何も食べることができないから少しでも胃の中に何か入れておいた方が良いと思った。咲知が自分で作ると言っても小河原は聞かなかった。夕食の用意が唯一の咲知への恩返しのような気がしていた。最初はそんな義務感しかなかったがそのうち料理が楽しく、自分は料理人に向いているのではないかと思い始めていた。今日の献立は福岡名物の鯖の糠味噌炊きと肉じゃがで、咲知は喜んで箸を付けていた。

「ね、嫌だったらいいのよ。あなたのお仕事のことなんだけど、聞いてくれる?」

 咲知が気遣いながら何かを提案しようとしている。

「うん、何?」

「本当に嫌だったら断ってね……怒らないで聞いてね」

 余程言い難いのかもしれない──。

「うん、大丈夫だよ」小河原はなるべく話しやすくなるように優しく答えた。

「実はね、クラブマカオのバーテンダーが辞めちゃうの。それでね、ママが誰かいい人がいないか探してるんだけど中々見つからなくて、それであなたにどうかなと思って…会社勤めじゃないし、お洒落なクラブでもないし、あんなお店だからあなたには相応しくないかもしれないけど……あ、ごめんね、やっぱり今のは、聞かなかったことにして」

「働くよ」

「……えっ……なんて言ったの?」咲知は自分の耳を疑った。小河原は目の奥を輝かせにんまりと笑っている。咲知は逆に少し不安になった。

「だからクラブマカオで働くよ」

「本当にいいの?」

「ええ、これで咲知さんといつも一緒にいられるし、簡単なカクテルと料理なら僕にもできる気がします」

「でもね、お店のお掃除もしなきゃいけないし、お酒とかおつまみの仕入れもしなきゃいけないし、お金の計算もしなきゃいけないし、結構大変なのよ。たまにカウンターに座るお客さんの相手もしなきゃいけないのよ」

 咲知は小河原がマカオの仕事内容を良く理解していないのではないかと不安になった。一瞬小河原の表情が曇ったが気を取り直して答えた。

「お客さんの相手…………大丈夫!……今日から早速働きましょうか?」

「ちょっと待って。大丈夫だとは思うけど、まだママにはきちんとお話ししていないの。今夜話してみるわ」

「はい、じゃ、宜しくお願い致します。履歴書、書かなくていいですか?」

「そうね、じゃ、書いておいてくれる?」

 咲知の心配を他所に小河原はやる気満々だった。ハローワークであらゆる業種の求人をパソコンで捜したが何一つピンと来るものがなかった。飲食に興味はあったものの広告業界一筋で働いて来た小河原には免許も食材の知識もなく全く自信がなかった。この時、営業マンほど潰しの利かない商売はないと思った。営業マンは組織の中に在籍して企業の後ろ盾があって始めて個人の力が発揮できるものだ。過去の功績はすべて自分の力によるものだと信じている営業マンは定年後に肩書きがなくなると自分の非力さに気付かされるものだ。そんな世界にどっぷり浸かって五十を越えると独立起業する勇気も自信もなくなっていた。だから咲知の話しは小河原には願ってもないチャンスだった。カクテルの勉強でもすればこれから手に職が付くし高級バーやクラブで働けるかもしれない。今までと全く違う世界で小さなクラブのしかもオカマの店を任せられることは不安でもあったが挑戦しがいがあると思った。 

 二日後、小河原はクラブマカオに初出勤した。バーテンダーは開店前の準備でオカマのホステスたちより先に入店しなければならない。さすが初日は咲知も心配で小河原と一緒に出勤した。店に入ると後二週間で辞めてしまうバーテンダーがカウンターの中で洗いものをしていた。客として来店した時は気が付かなかったが照明が明るいせいでソファの染みやカーペットの汚れや壁のカビがはっきり見えた。営業中の暗い照明は汚い物を全て覆い隠してくれるようだ。これから出勤するオカマたちを明るい照明の下で見るのも少し恐ろしかった。バーテンダーは小河原よりかなり年上に見えた。咲知が訊く所によると彼が辞める理由は七十を越えてから深夜の労働がきつくなったと言うことだった。白髪もやや後退しており痩身で額には深い皺が刻まれて口と顎に髭を蓄えていた。二重の瞼は切れ長で若い頃は可成り美男子で浮き名を流していたのだろうと思った。何より彼の全身から二丁目を全て知り抜いているようなオーラを感じた。

「おはよう」とバーテンダーが小河原に声を掛けて来た。名前を「よだ」と名乗った。「依田」と書くらしいが「ヨーダさん」と愛称で呼ばれているらしい。

 まずは店内の掃除から始まった。フロアに掃除機を掛け、テーブルの拭き掃除とトイレ掃除を済ませた。次に依田と一緒に近くにあるスーパーで食材を買った。つまみや出来合いの物が多く料理しなくてもそのまま客に出せるものばかりだった。食材は何を買えばいいのか客が何を喜ぶのか小河原に丁寧に教えた。小河原はその度に聞き漏らすまいとメモを取った。ちょうど店に戻った頃、酒屋が酒の配達に現れた。依田はここの酒屋は二丁目一帯の飲食店に配達していてクラブマカオとは古い付き合いがあるのだと教えてくれた。挨拶の後、配達人が納品時間と後日分の注文、締め日と支払い日等詳しく教えてくれた。

 水廻りではウィスキー、ワイン、シャンパン、焼酎、日本酒等のセットの仕方。グラスと食器の洗い方。伝票の記入の仕方。カクテルはジントニックとモスコミュール、それからマティニー、カシス、ダイキリ、スクリュードライバーの作り方を覚えておけばよいと、他はメニューはないからと覚えなくていいと言う。依田はまずジントニックの作り方を教えてくれた。マドラーのようなもので掻き混ぜる手付きは鮮やかで熟練の技を垣間見た気がした。懸命にメモを取り、次は見よう見まねで小河原もジントニックを作ってみた。飲み比べたが依田のジントニックより劣っていることは小河原の舌でも分かった。小河原の不安な表情を見て依田は「気を楽にして作りなさいよ。うちは高級バーじゃないんだから」と慰めてくれた。それでも一夜漬けではとても覚えられそうもないと少し不安になった。

 一番最初に出勤して来たのはビン子ママだった。ビン子ママはいつもと変わらぬ和服姿で身支度や髪のセットだけでも毎日大変な労力だろうと思った。ボックス席の端でしきりに客たちに営業電話をしていた。二時間の開店準備が終わり営業時間になった。全部でオカマのホステスは八人。明るい照明の下で照らされた彼ら(彼女ら)は毒々しさと華々しさに迫力があった。咲知はかなりこの店では美しい部類で後は少女のように可愛らしいオカマが一人いた。メイクをし終えて出勤するオカマもいたが、店に入ってからドレスに着替え化粧するオカマもいた。化粧前はオヤジそのもののオカマもいるし、スッピンでもどことなく乙女チックなオカマもいた。三田マンジョビッチも九時前にスッピンで出勤して来た。一瞬誰だか分からなかった。

「オガちゃん、今日から宜しくね」「オガちゃん、頑張ってね。ところでマーちゃんと一緒に住んでるんだって?」オカマたちは小河原にそんな挨拶をした。咲知が予めホステスたちに店で働くことを伝えておいてくれたのだろう──。

 三十分程経つと客もまばらに入り始め咲知もボックスシートでマンジョビッチと接客していた。比較的暇な時間に依田が次はマティーニの作り方を教えてくれた。小河原はジンとベルモットの割合を三対一にするのをマティーニ、ジンをそれより多めに入れたものをドライマティーニだと言うことを初めて知った。ミキシンググラスに氷とメジャーグラスで計ったジンとドライベルモットを入れ掻き混ぜる。たったこれだけのことなのに依田の作ったマティーニと飲み比べるとまたも味劣りがした。奥が深い。付け焼き刃では到底無理だと思い知らされた。しかし依田は意外にも小河原を褒めた。

「いや、私のカクテルと味が違うと分かるだけでも大したもんだよ」

 深夜を廻ってから客の入りが良くなった。女性同伴の男性客も何組かいた。女性たちは歌舞伎町、区役所通り辺りのホステスらしかった。オカマは女性に手厳しいと聞いたことがあったがこの店のオカマたちは女性に優しかった。

 夜が更けるにつれオカマたちはさらにパワーアップしてエネルギッシュになり奇声を上げカラオケで客と盛り上がっていた。客席が殆ど埋まっても依田がいたおかげで順調に仕事をこなすことができた。二週間後、依田がいなくなり小河原一人で切り盛りできるか不安になった。

 暫くすると小さな悲鳴が聞こえた。小河原がついその悲鳴の方に目をやると咲知が隣に座る若い客に胸を触られようとしていた。咲知はそれでも何とか冗談ではぐらかし客を諌めようとしていた。小河原はその男に憎悪を感じた。今直ぐにその男の胸ぐらを掴んで殴りたい衝動に駆られた。自分でも感じたことのない怒りだった。幼い頃、自分の大事にしていた玩具を他所の子供にぞんざいに扱われた経験に似ていた。小河原は動揺した。これが嫉妬というものかもしれないと思った。小河原は過去一度も嫉妬と言う感情を味わったことがなかった。

 咲知が空のアイスペールを持ってカウンターにやって来た。

「氷をお願いします」少し酔った目をして咲知が言った。

「マサコさん、大丈夫ですか?」小河原は少し苛つきながら咲知に訊いた。その小河原の目付きで咲知は察したようだった。

「大丈夫よ。ああ言うお客にはもう慣れてるわ。余り気にしちゃダメよ」

 そう言って咲知はまた客の席に戻って行った。小河原はその客が咲知にまた破廉恥なことをしないか気が気ではなかった。

「お客のすることに怒っていると疲れるよ。たまに本気でオカマを口説いているお客もいるけど殆どが冗談なんだよ」

 後ろで依田に肩を優しく叩かれそっと耳元で言われた。

「冗談?」

「そう、客は彼らを本当の女だとは思っていない。虐めていたりからかっていたりしてる客が多い。まあ、たまにマジな奴もいるけどね。うちに来る客は殆どノンケだからオカマ相手に遊んでいるのさ」

 女に見えるが男。客も愛を語るがそれも嘘。すべて虚構の世界。依田の言葉を素直に飲み込もうとしたが咲知ならその辺の女より魅力的だし、本気で口説く客がいても不思議はないと思った。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。