紫陽花が濡れそぼる頃 18(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 18(オヤジの小説・全33話)

2021年4月8日

 降り頻る雨。不快な湿気。薄れぬ噂。気は晴れず体が気怠かった。咲知は噂の立った翌日から二丁目に出勤し始めた。咲知の帰りは明け方で二人は擦れ違いの生活になった。 

 夕方、咲知のマンションに帰っても咲知は店に出勤して小河原一人だった。翌朝、目が覚めると小河原の隣で咲知は熟睡していた。そんな生活パターンが数日続き小河原は週末が待ち遠しく思えた。咲知と二人っきりだけの静謐な時間を過ごしたかった。ようやく明日は日曜日。小河原は昼食に咲知の好きなバジリコのスパゲッティを料理しようと思った。昼からワインを飲み始め、雨空に似合う物憂い音楽を流す。小河原は社内で朝からそんなことを想像していた。そこに営業部長から内線が掛かって来た。

「君にお客さんが見えてる。応接室に待たせているから直ぐに行きなさい」

 突然の来客。アポイントもない客は初めてだった。あれ以来、離席する時は必ずノートパソコンにパスワードなしでは開けないように設定した。パソコンを閉じて営業部を出て、会議室の隣にある応接室のドアをノックしゆっくりと引き開けた。ソファに見覚えのある後ろ姿があった。

 妻の由起だった。

 小河原は怖ず怖ずと由起の真正面に座った。化粧気もなく近くのスーパーに買い物にでも行くような恰好で由起は憮然とした表情をしていた。

「電話したのに何で出ないの?」苛立った口調で由起は切り出した。

「えっ?気が付かなかったよ」小河原は白を切ろうとした。

「嘘、おっしゃい!この変態!」語気の強さに圧倒された。

「何で俺が変態なんだ?」

「昨日、この会社の代表の番号に電話したら受付があなたの部長さんに繋いでくれて詳しく教えてくれたわ。あなた、ここに勤めていたオカマと付き合って今一緒に暮らしているそうね」

「いや、オカマじゃない……」小河原が弁解する余地もなく由起に遮られた。

「オカマであろうとゲイであろうとそんなことどうでもいいわよ!変態と変態が付き合ってるんでしょ?私が相手は変態だって言ったけどまさか本当だったなんて!気持ちが悪い!」吐き捨てるような口調で由起が罵倒する。

「お前には関係ないことだ!放っといてくれ!」

 咲知が侮辱されたような気がして結婚して以来、小河原は初めて由起に激怒した。

「変態が私にキレないでよ!こんな男と結婚したかと思うと虫酸が走るわ!あなたが反省してるようだったら家に戻って来てもいいと思ってたけど……私が甘かったわ。もう二度と帰って来ないで!」

「分かった!」帰って来るなと言われ却って解放された気分になった。

「これに印鑑を押して。それから慰謝料も払ってもらいます」

 バッグの中から何やら緑色で印刷された薄い紙を取り出し小河原の目の前に突き出した。それは由起がすでに署名押印した離婚届だった。

「もうあなたの顔なんか見たくないから後は弁護士と話してください」

「分かった」小河原は力強く答えた。

「ふん、何が分かったよ!あなたは私の人生を滅茶苦茶にしたのよ。それが分かってるの?このうだつの上がらないダメ親父!その上、変態だったなんて最低の男よ!あなたなんか死ねばいいのよ!そうだ!離婚する前に死んで。そうすれば保険金が入るから。頼むから死んでちょうだい!」

 そう言うといきなり立ち上がり由起は会議室から出て行った。自分が蒔いた種だが原因は妻の性格にもある、そう自分に言い聞かした。殺伐とした家庭から逃れ、人生に潤いと癒しを求めていた所にたまたま咲知が現れただけだ。遅かれ早かれ妻との結婚生活に終止符を打っただろう──。小河原は雨で白く煙った景色をぼんやりと眺めている内に昂る気持ちが徐々に冷めて行った。

 その日の夕方、由起の依頼した弁護士から小河原の携帯に連絡が入って、小河原は翌日の金曜日にその弁護士と面会の約束をした。弁護士事務所は市ヶ谷から有楽町線で一つ先の麹町にあった。午後三時、小河原は雨の中、約束の時間通りに弁護士事務所に着いた。平屋の近代的な白い建物で中に入ると大きなウィンドウガラスから洒落た二坪程の細長い和風の中庭が見えた。白い玉砂利を敷き詰めたその中庭に雨に濡れた背の低い植物が青々としている。庇の上から落ちる雨粒はその玉砂利に当たってリズミカルに音を立てている。広いスペースに事務職員らしき若い男性と中年の女性二人いるだけで、その中年の女性に名を名乗ると奥の部屋から自分と同じくらいの年齢の男が現れた。きっと高級ブランドなのであろうスーツが太り過ぎた体のせいで形が崩れていた。髪は薄毛で頭の地肌が脂ぎっていた。弁護士から名刺を渡されると小河原も自分の名刺を差し出した。

 弁護士は余談もなくいきなり核心から入った。不倫の場合、慰謝料の相場は二十年の結婚期間で一千万が相場だと言う。今すぐ一千万の支払いは無理だろうから今、住んでいる不動産の財産分与の中に慰謝料を含めてしまうが、不動産を売却してもまだ十年ローンが残っているから実質価格一千万にもならない。夫婦で分与すると四百万程度で後の不足分は小河原の口座の中の残高四百万円と小河原の生命保険を解約した積立金二百万を充当することとする。そうすれば由起と息子は今の家を売却せずにそのまま住み続けることができ家の名義は由起になる。そして由起が息子の親権を得て、小河原は大学卒業まで息子の養育費を毎月十万円ずつ支払うこととする。小河原には何も残る私財はないが、息子への送金のみで済む。

 弁護士はそう提案して来た。提案というより不躾な命令口調でそれ以外に選択の余地はないようだった。それにしても小河原の口座に四百万も残高があったことを初めて知った。由起と結婚して以来、自分の口座に幾らあるのかも知らなかった。小河原は妻の条件を全て受け入れた。これで妻の呪縛から解放されるなら安いものだと思った。

 ところが妻の要求はそれだけではなかった。咲知に対してまで慰謝料を要求した。金額は五百万だった。咲知には迷惑をかけたくなかったのでその五百万も小河原が支払うから訴訟は取り下げて欲しいと願い出た。息子の大学卒業まで後八年。咲知に対する慰謝料と養育費を足すと月額約十五万。この金額を八年間払い続けることになる。今の給料の手取りが三十三万円だから、小河原は何とか毎月送金できる筈だ。由起に管理されていた口座も小河原が管理するようになって逆に楽な生活になるのではないかと思った。今までは由起から小河原は毎月の小遣いとして二万円渡されていた。それがこれから三十三万円から十五万引いた十八万が自由になるのだ。この金で咲知に家賃と生活費を多少入れることができる。神も仏もいるものだと思った。「宜しくお願い致します」と弁護士に頭を下げ一時間足らずで小河原はその事務所から退散できた。

 会社に戻るとデスクの上にメモ書きがあった。「部長に内線してください」そう書かれていた。営業部長に内線すると会議室に行きなさいと言う。「来なさい」ではなく「行きなさい」と言われて嫌な予感がした。また由起か?── 会議室に向かった。ドアをノックすると聞き覚えのない男性の声がした。

「どうぞ」

 見覚えもなかった。手渡された名刺には〝アウトソーシングコンサルティング〟と社名の横に業種が印字されていた。コンサルティング会社が何の用だろう──。

「こんにちは。どうですか?お仕事楽しいですか?」

 唐突な質問に小河原は戸惑った。真意が掴めず相手が何を言い出すのか細心の注意を払い小河原は体を固くして身構えた。小心者は人一倍、自分の身の危険を感じる。自分より年下の若いスーツ姿の男は微笑みながら話しを続けた。

「これがここ三年のあなたの課の売り上げです。グラフを見ても右肩下がりですよね」

 分厚いファイルを小河原の目の前に差し出しグラフを指差している。

「しかし最近になってようやく上向いて来たと思います」

 小河原はようやく下期に入って利益が見込めそうだと予想していた。

「でも目に見える程の数字ではありませんよね」

「ええ、ですが、仕事も割と順調に受注できているし、後二ヶ月後にはある程度の成果が表れると思うんですが……」

「小河原さん、それからあなた、最近、社内でトラブルを起こしたみたいですね」

「……………」

「ここには派遣社員の女性の方が相手だと書かれていますが……あなたはご家族がいらっしゃるのにその方と一緒に暮らしてそれが社内の噂になっているとか……こう言うのはコンプライアンスとかセクハラの問題になるんですよね」

 若い男は小河原の目を見ず、報告書ファイルの同じページを何度も行ったり来たりして覗き込んでいた。小河原は単刀直入に訊いてみた。

「すみませんが、あなたは私にリストラの勧告をしているんですか?」

 これには何も答えず若い男は薄ら笑いをして話し続けた。人の話しを聞かない不人情な人間に見えた。

「小河原さん、会社が出しているあなたの評価はかなり低いんです。こうなると私たちは、小河原さんのような社員を余剰人員と見なすしかないんです」

「馘ですか?」多分低い評価とは営業部長個人によるものだろう──。小河原は早く話しを終わらせたかった。

「今なら、自主的に退社されれば退職金も多少多めに払えますし、次の就職先も斡旋致します。その方があなたのためでしょ?」

 全く小河原の質問には答えようとしない。人の意見を聞いてはいけないルールでもあるのだろうか──。

「少し考えさてください」

「まあ、これから納得行くまで何度も話し合いましょう」

 若い男は最後に妙に明るく大きな声で言った。

 これが肩叩き?初めての経験だった。こんな話し合いを何度も繰り返したくはなかった。どんなに抵抗しても次第に苦痛になって最後には退職の決断をしてしまうのだろう──。良く訊く手口だ。久しぶりに胃酸が喉元まで込み上げて来た。

 今日は二つの面談を片付けた。結果、来週早々、離婚届を役所に出して、同時に退職願いを会社に提出することになるだろう──。妻に慰謝料と養育費を送金しなければならないのに職を失ってしまった。この歳で再就職の口が簡単に見つかるとは思えなかった。自分を高く評価してもらう術や上司から好意を持たれる技も知らない男にはサラリーマンは不向きだと常日頃痛感していた。だからサラリーマン以外で自分を生かせる道はないものかとここ数年前から思案していた。退職勧告されたのもいい機会だと思った。

「早退するよ」小河原のデスクから一番近くに座っている課長補佐の社員にそう言い残して会社を出た。雨は上がっていた。梅雨の晴れ間。紫色とオレンジ色の混じった雲が大きく流れている。久しぶりの夕焼けだった。歩道はまだ濡れていて大気は水分を含んで爽涼感のある風が吹いている。行き交う人の表情も心なしか輝いて見えた。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。