紫陽花が濡れそぼる頃 17(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 17(オヤジの小説・全33話)

2021年3月22日
小説

 退社時間までまだ二時間も余している。時間の流れが遅く感じた。全社員の好奇な視線が痛く身の置き場がなかった。営業部長から内線で会議室に来るように指示された。

 重い足取りで会議室に向かい扉の前で覚悟を決めて中に入った。まだ部長の姿はなくドアの側にある照明のスイッチを押した。二十人ぐらいが座れる細長い部屋に細長いテーブルが二列に並んでいた。ドアから一番近い場所に座り部長を待った。お白洲でお奉行を待つ罪人のような気分だった。十分後に会議室のドアが開いて部長が目の前の椅子に座った。部長は小河原を無表情な面持ちで暫くじっと見ていた。

「君も見かけに寄らず案外やるもんだね」

「…………」何を言いたいのか分かっていたが返事はしなかった。

「噂がこれだけ広がって私もどうしていいかまだ分からないんだが……君たちは本当に一緒に暮らしているのかね?」部長は汚いものでも見るかのような目で訊いた。

「はい」

「ご家族はどうしてるのかね。君にも奥さんやお子さんはいるんだろ?」

「家族も承知しております」

「それで立花君が男だと言うのは本当のことかね?」

「はい」小河原が肯定すると部長は低く唸った。

「奥さんは君が女装趣味の男と暮らしているのも知っているのかね?」

 部長は段々呆れ果てたと言うような表情に変って行った。

「いえ、それはまだ……それに立花さんは女装趣味なんかじゃありません」

「女装趣味じゃなければ何なんだ?男が女の恰好してどこが女装趣味じゃないって言うんだ!」部長は苦虫を潰したような顔で興奮気味に言った。

「彼女は性同一性障害なんです」

「せいどういつ?そんなことはどうでもいいんだよ。彼女の……いや、彼のおかげで社員は混乱しているんだよ」彼女を弁護しても無駄だと悟った。部長が冷静さを保とうと深呼吸を二、三回繰り返した。さらに部長が続けた。

「これから立花君を斡旋した派遣会社にも連絡を取って真偽を確かめるつもりが……まあこのままって訳にもいかんだろ?」小河原はこれにも何も答えずこれ以上咲知の悪口を訊くに堪えず別の話題に変えた。

「部長、こんな時に何ですがご報告したいことがございます。実は本日、グローバルホテルから取引停止を言い渡されました。全て私の責任です。いかなる処分も覚悟しております」

「なに~?」部長は困惑の表情から赤面して怒りの表情に変わった。小河原は責められるなら一度で済ませたかった。手短かにグローバルホテルの宣伝部長と担当の昼間のやり取りを説明した。それを訊いていた部長は拳をわなわなと震わせていた。

「もういい。早くここから出て行ってくれ。これ以上お前の顔を見たくない」

 頭を抱える部長を残して小河原は一礼した後、会議室から出た。

 小河原は兎に角一刻も早く咲知に会いたかった。退社時間にはまだ間があったが誰にも報告せず早退した。会社のビルを出ると外は冷たい雨が降っていた。彼女の後を追うように電車に乗って咲知のマンションに向かった。満員電車の中はむせ返る程の熱気と湿気で充満していた。身動きが取れずに太腿の後ろ辺りに冷たさを感じた。他人の傘がスラックスに当たってじわじわと雨水が染み込んでいた。

 咲知のマンションに着いてドアチャイムを押したが返事がなく合鍵でドアを開けた。玄関に咲知の白いヒールと濡れた赤い傘があった。小河原が部屋に入ると咲知は電話で誰かと話しをしていた。神妙な顔をして咲知は頷いていた。短い会話で電話を切ると「お帰りなさい」と言いながら咲知はキッチンに立って夕食の支度を始めた。咲知の様子がおかしいのに気が付いた。

「どうしたの?」と小河原は優しく訊く。

「別に」素っ気ない返事。

「誰から電話?」恐る恐る訊く。

「派遣会社から」淡々とした返事。

「ふーん……それで何だって?」さらに気を遣って何気なく訊いてみた。

「明日からもうあなたの会社に行かなくていいって」声に抑揚がなかった。

「そう」平静を装って穏やかに返事をした。

「お夕飯、もう少し待ってね」トマトや胡瓜を洗いながら咲知が言った。

 小河原は咲知に近付いて後ろからそっと抱きしめた。

 こんな時でも料理をして落ち着いている咲知を見て彼女の強さを感じた。二十分も経たずに春巻きと小龍包とサラダが出来上がった。

「トマトとキュウリを切っただけだから」と咲知が申し訳なさそうに言った。

「それでまた違う会社に勤めるの?」

「ちょっと休むわ。その代わり夜は毎日お店に出ようかって思ってるの。まだはっきり決めてないけど……」

「クラブマカオ?」

「ええ、あそこは気が楽。みんな似たような人が多いから……それよりあなたの方がこれから大変じゃない?」

「まあ、何とかなるよ」それは甘い考えだと後で思い知らされることになった。

 今日は何事もなかったように噂も収まり平常の会社に戻っているかもしれない──。そう思って降り続く雨の中を沈痛な面持ちで出社した。いつものように他の社員たちより一足早く自分の席に着いて早速見積書や請求書の整理に取り掛かった。九時半になると社員が一斉に出社して来た。午前中に事務関係の仕事も片付き、伏せ目がちにフロアを見廻した。昨日のような好奇な視線は感じなかったものの誰も小河原には近付いて来ようとはしなかった。携帯の着信音が鳴った。液晶画面には「由起」とデジタル文字の表示があった。小河原は一瞬迷ったが、留守電のボタンを押して電話には出なかった。今、妻の愚痴や文句を聞く余裕などなかった。これ以上、精神的に追い詰められるのは避けたかった。避けると言うより全ての問題から逃げてどこかに消えてしまいたかった。咲知と二人だけで暮らせる遠い国に行ってしまいたかった。

 課長の望月が近寄って来た。

「お前が男色だったとは思わなかったよ。人は見かけによらんもんだな。いやあ、いい勉強になった。しかし男でもあそこまでの美人ならちょっと俺も興味あるがな。世の中何が起こるか分からんな」

 望月は自分だけ言いたいことを言ってまた自分の席に戻って行った。

 営業部長から依頼された企画書のプレゼンの期日が迫っていた。野村と勝木を呼んで会議室で細かい詰めに入った。二人の気力はすでに失せていた。野村は前髪を始終弄って、勝木は目を合わせよう灯せずそっぽを向いている。小河原は自分が原因だと思ったが、どう彼らと接すればいいのか分からなかった。ただ、この仕事を無事終わらせたいと願う気持ちだけだった。一時間の打ち合わせで何とか最終の調整をして来週早々部長に提出することにした。

 昼食はコンビニで缶コーヒーとサンドイッチを買って自分の席で食べるのが習慣だったが今日は社内にいたくなかった。食欲はなかったが、サンドイッチでも摘もうと会社のビルの近くにある喫茶店に逃げ込んだ。小河原は窓際に座り雨の雫が伝っているウィンドウ越しに滲む景色をぼんやり眺めていた。

 少し離れたテーブルで自分の名前が混じる会話が途切れ途切れに聞こえて来た。

「あの小河原さんと立花………付き合って暮らしてるって………本当、吃驚……」

「偶然、千恵子が聞いちゃっ………?」

「うん、………で小河原さんと立花さんが……会議室で話してる所偶然……」

 千恵子と呼ばれる女性は勝木だった。さらに勝木が話している。パーテーションのおかげで彼女たちは小河原に気付いていないようだった。

「それに先週木曜日、小河原さん……と一緒に休んでたでしょ……もうばればれよね」

「それで立花さん………って分かったのも千恵子でしょ?」

 他の女性社員が勝木に興奮して質問している。

「それがね、たまた………課長のデスクに行っ………慌ててノートパソコン………たから………と思って課長がいない時に開いたら〝性同一性障害のサイト…………てっきりエロサイトだと……でも性同一性……」

「それで立花さんだって分かったの?」

「それで分かる……じゃない。でも………思い当たるふしがいっぱい………もしかしたら立花さんは………じゃないかしらって」

「私は全然……なかったよ」

「まあ、それでね、悪いと思ったんだけど立花さん…デスクの上に………置いてあったからちょっと……しちゃったの」

「千恵子……探偵だね」妙に勝木に感心している口調だった。

「………なんと!カードの名義……〝タチバナマサチカ〟……」

「男の名前………?」

「うん」力強く勝木が頷いている声だった。

「でもこんなに早く噂が広まるなんて思わなかったね」

「しかも本当に男…だったなんて……」

「キモイよね~」「うん、キモイ~」「超キモイ」

 女子社員が全員で興奮して騒いでいる。

「でも………どんなエッチしてるのかな?」

「やだあ!千恵子……したくないわ!」

 何となく経緯が理解できた。小河原と咲知が会議室で相談していたのを勝木が盗み聞きして、さらに小河原のパソコンを覗いて、咲知が性同一性障害だと見当をつけて、挙げ句の果てに咲知のカードまで調べて男だと突き止めたと言うことだろう──。

 真剣に生きている咲知が興味本位の人間の餌食になってしまった。咲知に非はない。罪もない。ただ他の人間とほんの少し違って産まれて来ただけだ。往々にして多数派の人間は少数派の人間に対して余りにも酷薄な態度で接する。その少数派が性同一性障害、インターセックス(体の性別が男性、女性のいずれでもない状態)、ゲイ、レズビアンと大多数と特徴が異なる場合、多数派は見世物でも見るような視線で距離を置いて付き合おうとする。少数派が社会に適応しようと努力しても多数派が彼らを拒絶するケースが多い。劣等感のある者は弱者を攻撃して優越感に浸ろうとする。根拠のない虚栄心やプライドで自分が優位であると証明しそして快感を得ようとする。人間の残忍冷酷な一面が偏見と差別を生むのが世の常だ。小河原は激しい憤りを覚えた。咲知には内緒にしておこうと思った。こんな話しを咲知に聞かせれば彼女をきっと傷付けるに違いない──。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。