運命──我が故郷、小倉

運命──我が故郷、小倉

2021年1月30日
閑話

上の写真は現在の小倉を流れる紫川の畔です。下水道の整備により水質も今では随分綺麗になっています。下の写真は1955年当時の紫川です。ボートに乗っている後姿の女性は父の妹です。

今月22日に国連で「核禁止条約」が発効されましたが、相変わらず日本は被爆国にも関わらず批准しない矛盾は何か不条理な寓話の様です。日本は米国に保険を掛けていれば安心感を得られるのでしょうが、米国が有事の際に本当に支援してくれるのか甚だ疑問です。「核抑止力」とか「安保」とか言うとるが、もっと簡単に行かんもんかと、思います。😤

幼い頃に母が原爆の標的は当時「長崎」ではなく我が故郷の「小倉」だった、しかし小倉の上空は雲と煙が多く、視界が悪かったから投下されなかったと聞かされた記憶があります。その母も今から8年程前に亡くなり、翌年の新盆に近い毎日新聞の朝刊に小倉に原爆が投下されなかった新事実が掲載されていました。

以下、記事本文──長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で、「コールタールを燃やして煙幕を張った」と製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言した。米軍は当初、旧日本軍の兵器工場があった近くの小倉市を原爆投下の第1目標としていたが、視界不良で第2目標の長崎に変更した。視界不良の原因は前日の空襲の煙とする説が有力だが、専門家は「煙幕も一因になった可能性がある」と指摘した。(中略)工場の従業員たちは8月6日に広島市が「新型爆弾(原爆の当時の呼称)」で壊滅したことを、広島経由で八幡に戻った同僚を通して7日ごろには聞いていた。周辺には八幡製鉄所のほかに小倉の兵器工場などもあり、「次はこっちだと考えていた」と言う。(中略)原爆搭載機「ボックスカー」など2機は9日午前9時55分に第1目標の小倉に到達。原爆投下を3回試みたが、目標が「もやと煙」で見えず第2目標の長崎の攻撃を決定し、10時58分に投下した。(中略)西部軍管区司令部は7時48分に警戒警報を、7時50分に空襲警報をそれぞれ発令しており、宮代さんが煙幕を張ったのはこの時だと見られる。(『毎日新聞』2014年7月26日朝刊)

製鉄所構内の製缶工場勤務の宮代氏が敵機襲来のラジオ放送を聞き、上司に命じられて煙幕装置に点火。自分の取った行動で長崎が被爆したと責任を感じてこれまで証言できなかった様です。

亡父は小倉の旧家で育ち、終戦間近は、予科練(海軍飛行予科練習生)だったそうです。終戦が長引いていれば特攻で父もこの世にはいなかったと話していました。母は戦前、一家で京都から小倉に移り住み、父は母の兄と同級生でそれが縁で二人は1949年に結婚致しました。父の妹(私の叔母)は母と同じ歳で女学校時代に、佐賀の兵器工場の設計課に配属され、武器の設計を担当していたそうです。軍事機密で、何を設計しているのか、どこの部品なのかも知らされず設計を任されていた様です。「もしあの時、小倉に原爆が落ちていたら私は戦争孤児よ」と話していました。叔母は未だ小倉で元気に過ごしています。

1955年生まれの私は戦争も原爆も知りませんが、もし小倉に原爆が投下されていたら、私の姉も子供や孫達も存在しないと思うと、この「煙幕」に運命を感じます。

しかし運命というには人為的な愚行によるもので、余りにやるせない思いが致します。当時の米大統領トルーマンがソ連との駆け引きのために原爆を使用し、広島9万〜16万人が死亡、長崎は14万人が死亡。それでも米国の年配の世代の人たちはトルーマン大統領を英雄視しており、彼の決断による原爆投下で、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われたと、信じています。

原始時代の武器は石や棒から斧、槍、弓矢。鉄の時代は刀剣や銃、大砲。そして現代は化学兵器や核兵器。これ以上、武器など作らず、人類の未来を明るくする様なそんな発明を期待します。A FAREWELL TO ARM(武器よさらば)の主人公が「戦争なんかより彼女が一番大事だ」と言うセリフがありました。戦争なんか止めて、みんな恋をしましょう!

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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