胃が痛くなるような問題もなく精神的に平穏で肉体的に多忙な日々が続いた。上司や部下ともこれと言った揉め事もなく仕事は順調だった。野村もあれ以来神妙だった。大きなプロジェクトの受注はなかったが細かな仕事を積み上げ、僅かだが二ヶ月後には利益も上がるだろうと思った。吉崎営業部長も小河原には相変わらず冷淡だったが、最近はねちねちと小言を言うこともなかった。あの立花とのデートは小河原にツキを呼び寄せたのかもしれない。立花とはあれ以来、個人的な付き合いはなかったがすれ違うと彼女から秘密めいた親しみのある視線を感じた。小河原はそれだけで思わず頬が緩んだ。
そんな微妙な二人の雰囲気を勝木は見逃さなかった。まるで噂好きの中年の叔母さんのように目を光らせていた。小河原は喜びの余りその勝木の視線には全く気が付いていなかった。
ある日、小河原が用を足しに洗面所に向かうと通りかかった女性用の洗面所から勝木の声が聞こえた。
「ねえ、立花さんと小河原さん、なんか怪しいと思わない?」
「えー?本当?」別の女性社員が嬉々とした声を上げている。
「だってあの二人、仲が良さそうなんだよ。お互いを見る目がなんか怪しいの」
「だってあの立花さんとうだつの上がらない課長じゃ釣り合わないよ」
もう一人の別の女性の声が聞こえた。どうやら三人で話しているようだ。
「ミスマッチで全然お似合いじゃないんだけど、やっぱ怪しいんだよね」
勝木が繰り返して言う。
小河原は動揺した。過去、社内で自分が話題になったことなどなかった。こんな噂はあっと言う間に広まるかもしれない、立花に迷惑がかかるかもしれないと思うと彼女に申し訳なかった。独身でイケメンの若い男ならいざ知らずこんな妻子持ちの親爺と噂を立てられれば立花もいい迷惑だろう──。だが小河原は噂になった経験など初めてでどう対処していいか分からなかった。
今日は残業もなく小河原は定刻通り退社した。会社の一階のエントランスに下り、市ヶ谷の駅に向かう途中で後ろから「小河原さん」と呼び止められた。立花だった。
「ちょっとお話しできません?」二人の噂についてだと直感で察知した。
「は、はい」
二人は裏通りの目立たない喫茶店に入った。席に付いてメニューを見ることもなく二人はコーヒーを注文した。
「私たち噂になっているようですね。本当に申し訳ありません。私が軽率でした」
立花も二人が噂されていることを知っていた。
「いや、立花さんのせいじゃないですよ。それに私たちは人に責められるようなことはまだ何もしていないじゃないですか?」
〝まだ何もしていない〟と言う言葉は不適切だと思った。
「それでも小河原さんに迷惑が掛かっているかと思うと申し訳なくて……」
「それは私の台詞です。こちらこそ済みません」
「いえ、私が悪いんです。これからもっと気をつけます。それにもう、私、小河原さんと個人的にお会いするのは止めます」
「そんな……」
「いえ、止めましょう。その方がいいと思います」彼女はコーヒーが来る前に財布から千円札を二枚テーブルの上に置いて立ち上がった。小河原は宙を掴むように手を差し出して立花を制したが、彼女は振り向きもせずに足早で店から出て行ってしまった。
次の日から彼女の態度は一変した。会社の中ですれ違っても小河原は完全に無視された。まるで小河原が見えていないように、見知らぬ赤の他人のように。何度か小河原が彼女に微笑み掛けるものの、全く表情を変えずに通り過ぎて行った。何もそこまで気にしなくても──。立花の掌を返したような余りにも極端な態度が小河原には理解できなかった。彼女はただ噂を恐れているだけでなく社員たちとの付き合いを極力避けようとしているように見えた。それがなぜなのか皆目見当がつかなかった。一日一日と日を重ね、焦燥感だけが募って行った。一週間が過ぎた頃、小河原は立花が退社するのを見計らって後を追い、地下鉄の駅の近くで声を掛けた。
「立花さん」小河原が呼び止めてみたが彼女は振り向きもしなかった。もう一度声を掛けた。それでも彼女は立ち止まることなく駅に向かって歩いている。彼女に追いつき肩に手を掛けた。彼女は振り向き小河原をきっと睨んだ。
「話し掛けないでください!」
「どうしてですか。いいじゃないですか?」
「だめです。誰かに見られていたらどうするんですか?」
「見られても構いません」
「小河原さんに迷惑がかかります」
「迷惑なんて掛かりません。私は噂になってもいいんです」縋り付くように彼女の腕を掴んで懇願した。今日は自分でも信じられない程積極的だった。
「小河原さんは何も知らないからそんなことを言うんです。お願いですから私を放っておいてください」立花は小河原の手を払い除けた。
「私が何を知らないって言うんですか?」
小河原は自分にこんな熱い感情がまだ残っているとは思わなかった。立花と何とか以前のように気の置けない関係に戻りたかった。彼女は急に踵を返してまた歩き始め、通り掛かったタクシーを停め振り返りもせずにそれに乗り込んで走り去って行った。追い掛けることもできずに小河原はその場に取り残された。立花がなぜあれ程急に自分を拒絶するのか理解に苦しんだ。幾ら考えても答えの見つからないもどかしい気持ちだけが残った。気分が鬱々としてどこかでやけ酒でも引っ掛けたくなった。小河原が酒に逃げる気持ちになったのは生涯初めてのことだった。上司に罵倒されようが妻に虐待されようが酒に逃げたことはなかった。そこにちょうど携帯の着信音が鳴った。大学の友人渡辺からだった。
「おう、元気か?」「余り元気ではない」「そうか。景気付けに一杯やらないか?」
「うん、飲みたいと思ってた所なんだ」「へえ~珍しいな」
いつもの新宿三丁目の居酒屋で渡辺と待ち合わせることになった。金曜日の夜とあって伊勢丹の前の靖国通りも人通りが多くどこが不景気なのか分からない程の活気があった。ちょうど一週間前、この靖国通りを立花と一緒に歩いたのが随分昔のような気がした。
渡辺は小河原より先に居酒屋に着いてすでにカウンターでビールを飲んでいた。渡辺の話しは毎度自分のことばかりで呑気な話しが多かった。転勤先の建設会社ではノルマもなく一種天下りのような楽な役職だったからいつも彼の表情には余裕があった。未だに相当額の給料をもらい、毎週日曜日は町内の少年野球チームの監督に就いて子供たちと休日を楽しんでいると言う。お互いの半生の苦労を天秤にかけたらどれだけの差があるのだろうか──。これから先、小河原に希望の持てる晩年が待っているとはどうしても思えなかった。小河原の酒のピッチはいつもより速く一時間も経たずに体にアルコールが廻っていた。暗い家庭、不遇なサラリーマン人生。何よりやり切れないのはつい最近見つけた立花と言う心の拠り所がなくなってしまったことだ。
「何かあったのか?」渡辺がいつもと様子の違う小河原を訝しんで尋ねた。
「まあ、ちょっとね」馬鹿にされそうで渡辺には話したくなかった。
「話したら楽になるぞ」渡辺が興味津々の顔で鎌を掛ける。
「いや、言えば余計に惨めになる」小河原は頭を振る。
「惨め?ははん、それは女だな」渡辺は妙に勘がいい。
「渡辺が考えてるような関係じゃないよ」
動揺を悟られまいと平静を装いながらも答えてしまった。
「どんな関係でも好きになったらやることは同じだろ?どうせ同じ職場のつまらん女に振り廻されてるんじゃないか?ふん!」鼻で笑って口を歪めている。
「いや、つまらん女なんかじゃないよ」
「まあ、いいさ。さ、次、行くぞ」と腰を浮かして渡辺が言う。いやな予感がした。
「あの店か?」
「嫌か?」渡辺はしかめ面で言った。
「いや、嫌という訳じゃないんだが……」小河原は躊躇した。警察に世話になったあの夜のことを思い出したからだ。もう結構酔っている。同じ失敗を繰り返さないように店に着いたら自重して飲もうと思った。
「それじゃ行こうか」渡辺の軽佻浮薄なノリが羨ましく思えた。
今日は二丁目界隈も週末だけあって賑わっていた。バブル期に比べれば客足もかなり少なくなったようだが、二丁目は客単価が安いせいもあって小遣いの少ない中年のサラリーマンでも気軽に飲めるようだ。
クラブマカオの階段を下りてドアを開けると前回と全く同じ調子で黄色い声が飛んで来た。「いらっしゃーい」二、三人のオカマの声が妙にハモっていた。バーテンダーに案内され一番端のボックスシートに付くと早速ママの宇田川ビン子と三田マンジョビッチがまるで河馬と恐竜ように大きな足音を立てて突進して来た。
「ひさしぶり~。ナベッち、どこに行ってたのよ?寂しかったよ~」
マンジョビッチが渡辺の隣にどっかり腰を下ろしたかと思うと肩に凭れ掛かって甘えた声で挨拶している。
「オガちゃんも元気だった?」ビン子ママが言う。
「あのね。今日はこの前にお話ししてたうちのナンバーワンのマーちゃんがいるからご紹介するわ」ビン子ママが奥に座っていた赤いチャイナドレスのホステスに声を掛けた。
小河原はチャイナドレスの切れ上がった両裾から覗く白い脚に釘付けになってしまった。そのすらりと伸びた脚は官能的で小河原の胸を締め付けた。そのオカマが渡辺の隣に座って「渡辺さん、お久しぶり」と挨拶している。小河原の方を向いて挨拶をしようとしたその瞬間、小河原は凍り付いた。思考が止まった。息が止まった。その白い脚の持ち主が誰だか分かった。
なぜ──?