紫陽花が濡れそぼる頃 7(オヤジの小説・全33話)

紫陽花が濡れそぼる頃 7(オヤジの小説・全33話)

2020年11月10日
小説

 僅かな変化だが少し気持ちに余裕が生まれた。自分の側に理解してくれる社員がいると思うだけで孤独感が薄れるのかもしれない──。エレベーターの中で、通路で、コピー機の側で目が合うと彼女は軽く会釈をしながら微笑んでくれる。職場に誰も味方がいなかった今までと違って自分の性格が明るくなったような気がした。たった一人の存在が心を癒してくれている。テラスで他愛もない会話をしてから少しお互いが意識し始めたようだが、社内で会話をしたり声を掛けたりする訳ではなかった。ただ彼女が同じフロアにいるだけで日頃の閉塞感と緊張感が解されていた。
 やがて小河原が願ってもない好機が訪れた。八時頃まで残業をして企画書のコピーを取っていると「手伝いましょうか?」と後ろから立花が声を掛けて来た。
 不意を突かれた感じで「あ、いや、大丈夫です」とどぎまぎして小河原は振り向きながら答えた。彼女は「はい」と言って両手を小河原の前に突き出した。小河原は躊躇しながらも彼女に書類を手渡した。「何部ずつ取ればいいんですか?」「二十部ずつ、お願いします」立花は企画書全てをコピー機の上蓋にある給紙口に差し込み、パネルのボタンを「20」にセットしてスタートボタンを押した。企画書は一枚ずつするするとコピー機の中に入って行った。
「こうすれば、自動で直ぐにコピーできます。できたらお席までお持ちします」
「ありがとうございます」会社のコピー機もまともに扱えないと思われている気がして小河原は少し恥ずかしかった。それまで小河原はコピー機にそんな機能があるとも知らず一枚ずつ上蓋を開け閉めしてコピーを取っていた。
 十分も掛からないで立花が小河原の席にやって来た。企画書をクリップで留めて二十部のセットもできていた。企画書を手渡し「それでは、お先に失礼します」と挨拶する彼女に小河原は勇気を出して訊いてみた。
「今日もこれから夜のお仕事ですか?」
「いえ、今日はお休みです」
 小河原は思い切って訊いてみた。
「あのう、宜しかったらお食事しませんか?」何だか唐突で不様な誘い方だと自分でも嫌気が差していた。今日は小河原の五十歳の誕生日だった。自宅で一人冷凍食品を解凍して寂しい食事を摂るより今夜ぐらい誰かと一緒に過ごしたかった。彼女は思案しているのか数秒の間があった。断られる──。一瞬そう思った。
「じゃあ、リーズナブルなフレンチレストランがあるからそこに行きませんか?」
 意に反した答えが返って来た。半信半疑で改めて立花に訊いた。
「えっ?いいんですか?」
 誘っておきながら間の抜けた質問だと思った。彼女は微笑みながら頷いた。
「さあ、行きましょう」

 それからタクシーを拾って新宿に出た。財布の中には五百円玉一枚しかなくタクシー代はカードで支払った。紀伊国屋の側のビルの最上階にそのレストランがあって、ウェイトレスが二人を奥のテーブルへと案内した。フロアは五十坪程の広さで薄暗くスタイリッシュな雰囲気だった。椅子に座り店内を見回す小河原の気持ちを察してか「ここは結構お安い店ですから……それから割り勘にしましょうね」彼女の細かな気遣いが嬉しかった。しかし先日の礼に何としても小河原はご馳走したかった。それに今日が自分の誕生日だと言えば立花はお祝いにここの代金を支払うと言い兼ねない。そしてただの食事が違う意味を持って特別な日になってしまう。小河原は何となく軽い気持ちで食事に誘った、それに立花は応えてくれた、そんな雰囲気にしたかった。今夜は僅かなへそくりが入っている銀行のカードで支払うつもりだった。
「いえ、先日の件もありますし今日は是非私に任せてください」
「……分かったわ。じゃあ、今日は甘えます」
 彼女は少し躊躇しているようだったが小河原の目を正面から見据えて頷いた。
 全面ガラス張りの窓際の席で靖国通りのタクシーのライトと街のネオンの夜景が眼下に広がっていた。赤いクロスが掛けられたテーブルの上には蝋燭の灯った赤いキャンドルグラスが置かれていた。小河原は久しぶりの外食でしかもフランス料理など結婚式以外で食べたことがなかった。注文は彼女に任せることにした。メニューを指差しながら「これでいいかしら?」と尋ねられるとただ「はい、それでいいです」と答えた。メニューにはフランス語と日本語でコースの内容が詳しく説明されていたがそれがどんな料理か皆目見当がつかなかった。五十にもなってフランス料理のメニューさえ分からない自分が情けなくなった。この歳まで一体何をして来たのだろう──。彼女の前で少しは男らしく格好良く振る舞いたかったが付き合う程にボロが出そうだった。しかしそんな自分の不甲斐なさを感じつつ、こうして夜のレストランで立花と向かい合っていると小河原は勝手に恋人気分になっていた。食事に誘ったことが今になってとても大胆なことに思えた。こんな小心者の人間がこんな若い女性と食事するなんて端から見たら全く不釣り合いなカップルに見えることだろう──。彼女に申し訳ない気がして来た。
「すみません……こんな私と食事なんて迷惑じゃなかったですか?」
 彼女の顔色を窺いながら自信なさげに小声で尋ねた。
「迷惑だったら来ないわ」立花は優しく人を包むような笑顔で言った
「でも立花さんはうちの会社の中でも男性社員に人気があるし、私なんかと付き合って頂けるとは思っていなかったので……」
「小河原さん、もう少しご自分に自信をお持ちになったら……私はあの会社の若い男性社員には余り興味はありません。それに小河原さんは優しくて結構素敵な男性だと私は思います」
「すみません………光栄です。女性からそんなこと言われたことがないので……」
「そんなに何度も謝らないで……何も悪いことしてないじゃないの?」
 彼女にそう指摘されて尚更頭を下げそうになった。謝ることが最善の防御策だと卑屈な考えが身に付いてしまった小河原には立花の真っ直ぐな視線が眩しかった。自分の正否を考えずとにかく謝りさえすれば最小のダメージでやり過ごせると思い込んでいた。
「つい謝ってしまうんです。根っから気が小さいんです……立花さんが羨ましいです」
「どこが羨ましいんですか?」意外そうな顔で訊く。
「しっかりしてるし、頭がいいし、魅力的だし、劣等感なんてないでしょう?」
「劣等感だらけよ。なんで生きているのかも分からない時があるわ」
「じゃ、死にたいなんて思ったことがあるんですか?」
 その時、ウェイトレスがコースに付いているグラスワインを持って来た。小河原はワインに口を付けたがこれが旨いか不味いかも分からなかった。立花は小首を傾げた後、二度程頷いてグラスを置いた。その彼女の仕草は如何にもワインに精通しているように見えた。
「毎日が辛かったわ……」彼女は過去を思い返しているような遠い目をしていた。
「えっ?」
「十八歳頃まで毎日死ぬことを考えていたわ…………あら、私、何言ってるのかしら?……冗談よ。本気で受け取らないでね」
「……ですよね」小河原は明るく受け流したが今の言葉は彼女の本心のような気がした。それ程思い詰めるようなことがあったのだろうか──。コースの一品目の前菜がテーブルに乗った。
「実を言うと私は今日の誘いを断られると思いました」
 小河原は素直な気持ちを言った。
「どうして?……さあ、頂きましょう」立花に促されて一番外側のフォークを手にして口にいれるとゼリーのような感触がして海老の味がした。今までに食べたことのないものだった。また一口食べて立花に訊いた。
「うちの若い社員たちから立花さんをデートに誘っては見るけど成功した試しがないと聞いたものですから……社員たちと少し距離を作っている様に見えるんですが……何か訳があるんですか?」
「派遣社員なんてそんなものよ。正社員じゃないし…いつ派遣切りに遭うか分からないでしょ?距離を置いた方が後腐れがなくていいからよ」
 彼女はフランスパンを手で小さく千切って口の中に入れた。食べ方が上品で小河原はそのふっくらした唇に見惚れていた。
「そうですね……じゃあなぜ私の誘いを断らなかったんですか?」
「うーん。多分、私も気が小さいから……小河原さんなら気が合うかなと思って」
「えっ?立花さんが気が小さい?……まさか!あの野村にあれだけ意見できたんですから気が小さいなんて……」
「あれは勇気を振り絞って言ったのよ。あの後、洗面所に行って膝が震えていたわ」
 立花が目を見開いてさも大変だったように言う。
「でも私にはあんな真似とてもできません」小河原にはあれ程の勇気はなかった。
「そう?……でも甘えた考えでいい加減に生きているあの若い社員が許せなかったの……もう一つは何も言えないあなたが自分を見ているみたいで悔しかったの」
 立花は急に真顔になって言った。
「すみません」またつい謝ってしまった。
「あ、ごめんなさい。ほんとに出過ぎた真似よね」今度は立花が謝った。
「いえ、そんなことありません。それにあれがきっかけで今日こうやって立花さんと食事ができたんですから」
 二品目のスープが運ばれて来た。スプーンで一口啜ると冷たくてジャガイモの味がした。これは誰かの結婚式で食べた記憶がある。自分の結婚式だったかもしれない──。
「立花さんは、今、誰かとお付き合いされているんですか?」
「いえ、誰とも」
「本当ですか?」
「はい、本当です。私、今まで男性と付き合ったことがないんです」
「まさか!信じられません。今まで、一度もですか?」
「ええ…」小河原の目を見据える彼女の目は真実を語っているように思えた。
「だって周りが放っておかなかったでしょう?」
「もうどうでもいいじゃないですか……お料理を楽しみましょう」
 肉料理、デザートとコースが進み、食事も一時間で終わろうとしていたが、小河原が彼女に関する情報は何も得られなかった。個人的なことになると旨くかわされ、いつの間にか小河原自身の話しに変っていた。小河原は幼少期、学生時代、新入社員時代を懐かしく語っていた。彼女に話しながら自分の若かった頃は夢と希望に溢れていたのだと思い出した。
 彼女は小河原に話をさせたくなるツボを心得ていた。しかもまた聞き上手だった。気持ちを和ませ喜ばせてくれる細かい心配りに感謝した。女性と会話をしてこんなに昂揚した気分になったのは小河原の半生で一度もなかった。しかしである。自分の話題になりそうになるとどうしても小河原に質問して話題を擦り替えてしまう。彼女の謎は深まるばかりで、彼女の出自、家族、交友関係、等々未だ何一つ掴めていなかった。ただはっきり自覚したことがある。遠巻きで眺めていた憧れの女性と距離が狭まって小河原は今まで以上に彼女に惹かれていることだった。

 世の男ならもう一軒と気の利いたバーにでも誘うのだろうが酔って遅くなると妻からどんな責め苦を負うか想像しただけでも身震いがした。支払いを済ませレストランを出ると生暖かい春の風が体を纏った。聞けば立花の住まいは巣鴨だと言う。
「新宿駅まで送ります」と伝えると「ありがとう」と微笑んだ。
「あら、もうあの映画、公開してるのね」
 立花がビルの壁面に掛かった恋愛物の映画の看板を興味深そうに見ていた。
「立花さんは映画がお好きなんですか?」
「ええ、学生の頃は映画ばかり見ていたわ」
 人付き合いが苦手で一人自宅の部屋に閉じこもりDVDばかり見ていたと言う。小遣いも少なかったからビデオを借りずにクラシック映画の廉価版のDVDを買って台詞を覚えるくらい鑑賞していたらしい。友達の少ない小河原にとっても映画鑑賞は学生の頃からの唯一の趣味で良く大学の側の弐番館に通ったものだった。しかし最近では映画の世界に全く遠のいてしまった。趣味に浸る心の余裕、楽しもうとする気持ちが失せていた。
「私も映画なんて最後に見たのはいつだったかな?」
 小河原は思い返してぽつりと言った。
「今度、映画にご一緒して頂けませんか?」意外にも立花の方から小河原を誘って来た。
「私で良ければいつでもお供します」
 まさか次のデートの約束までできるとは思わなかった。小河原は感動の余り涙が溢れそうだった。楽しい時間は直ぐに終わる。JRの新宿駅に着いて彼女を改札口まで見送った。別れ際、彼女は「今日はどうもごちそうさまでした。また明日」そう言って人ごみに紛れて小河原の視界から消えた。

 小河原はその足で西武新宿駅に向かい川越行きの電車に乗った。頭の中は立花の残像で占領されていた。キャンドルの明かりが瞳の奥で燃え、グロスを塗った唇は艶かしく煌めいている。彼女の甘い声と甘い香りまで蘇った。今直ぐにでもまた会いたいと思った。
 所沢に着くと池袋線に乗り換え二駅目の清瀬に向かった。清瀬に近付くにつれ夢から現実に戻されて行くようだった。彼女の顔が霧に包まれ薄れて行くと、代わりにぼやけた顔が現れ、それが次第にはっきりして妻の顔になった。駅に着いて改札口を抜けるとさらに足取りが重くなる。まるでパブロフの犬のように、絞首台に向かう死刑囚のように。歩いて十分後に自宅の門扉に辿り着く。毎晩、この陰鬱な拙宅に暗鬱な気持ちを引きずりながら帰って来る。帰る場所はここしかない。逃げる場所もどこにもなかった。ドアの鍵を開けてそっと家の中に入る。
 妻が目の前に立っていた。
「まさかまた自転車を盗んだんじゃないでしょうね?」
 由起は上から見下ろして威圧するように低い声で呟いた。小河原は小刻みに首を横に振った。酒の匂いを感付かれまいかと不安になった。由起は小河原をほんの一瞬睥睨したかと思うと無言でその場を離れて行った。今夜もどれだけ罵倒されるかと覚悟していたが余りの呆気なさに拍子抜けしてしまった。
 階段を上り二階の息子の部屋の前に立ちドアをノックした。ドアの下の隙間から暗い廊下に部屋の明かりが漏れていた。息子がいる筈だが返事はなかった。
「ただいま」呼び掛けてみたがそれでも返事はなかった。
「あなた、和也の勉強の邪魔しないでちょうだいね」
 由起が仁王立ちで後ろから釘を刺した。小河原はすごすごと一階の自分の書斎に退散した。陰気なこの家庭に小河原は絶望していた。幼少の頃から気が弱く寂しがりやの小河原には職場の辛さは我慢できるが冷め切った家庭には我慢できなかった。三十年ローンでこの家を購入した時、きっと明るい家庭を作るぞと固く決意していた。だが今では修正の利かない暗い家庭になってしまった。この家には色も音もなかった。花一つ飾ることもない殺風景な家だった。耳を峙てても無音でキーンと耳鳴りがしている。自分の書斎兼寝室の部屋に入ってスーツとズボンをクローゼットに仕舞った。下着姿になってソファで横になり机の上にあるデジタル時計に目をやるとまだ早い時間だったが、何とか眠りに付けそうだった。立花の夢でも見れますようにと神と仏に祈った。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。