向い風 7 (オヤジの小説・全9話)

向い風 7 (オヤジの小説・全9話)

2020年8月5日

 三回目の離婚調停も上手く行かなかった。山村も調停に疲れていた。自分の蒔いた種で疲れてしまっていた。しかし多佳子の方がもっといい迷惑だろう。望みもしない場所に引っ張り出されて精神的に苦しめられたのだから、拷問に近いかもしれない。
 お茶の水の広告代理店の契約期間も残す所一年に迫っている。安定したサラリーマン人生にいよいよおさらばだ。何か他に仕事を見つけなければ、まだまだ働かなければ──。夏海に生活費と養育費は送り続けた。それは扶養義務があるからではなく、夫として父親として二人を見守って行きたかったからだ。そして多佳子にも生活費を送っていた。多少多めにもらっていた今の給料でも三世帯を維持するには足りなかった。当然、マリーナのクラブも脱会し、ヨットも手放さなければならなかった。

 一ヶ月ぶりに夏海に連絡して見た。電話の向こうの夏海の声は神妙だった。
「どうしてるの?」
「今、茅ヶ崎のアパートで暮らしてるよ」
「そう、平塚のご自宅に帰ったかと思ったわ」
「まさか!帰れる訳ないだろう。それより美帆は元気か?」
「ええ、元気よ。あなたに会いたがってるわ」
「そうか、俺に会いたいって言ってるのか?」
「うん、コウたんに会いたいって言ってる」夏海の声がくぐもっている。
「なあ、美帆に会わせてくれないか?」
「そうね、私もそうした方がいいと思ってる」
「じゃあ、今度の日曜日、そっちに行くよ」
「ええ、いいわ。でもあなたをこの部屋には入れたくないわ。もし入れたらまた同じことになっちゃう。だから美帆をどこかに連れて行ってあげて」
 意志の強い夏海らしかった。

 日曜日に夏海のマンションに美帆を迎えに行く。夏海がドアを開けた。変わりなく元気そうに見えた。山村は縋り付くような目で見たが夏海は視線を逸らせた。足下には水玉模様が入った水色のワンピースを着た美帆が立っていた。
「夕方の五時までには連れて帰って来てね」
「分かった。じゃ」
 本当なら動物園か水族館にでも連れて行けば喜ぶのかもしれない。だが山村は美帆と邪魔されずに二人だけで一緒に過ごしたかった。
「美帆、今日はコウたんのおうちに行こうね」自分の住むアパートに誘った。
「うん、いいよ」明るい声が返って来た。
 二人でゲームをしたり、お昼には美帆の好きなホットケーキを作ってあげた。近くの公園で追いかけっこをしたりブランコで遊んだりした。一緒に暮らしていた時のこんな当たり前のことが掛け替えのないものだったのかと今になって気付かされた。あっという間に夕方になってしまった。茅ヶ崎から辻堂の電車の中で美帆が俯きながら山村に聞いた。
「コウたん、またみんな一緒に住めないの?」
「うん、だめなんだ。ごめんね」
「何でだめなの?」
「うーん、コウたん、遠い所でお仕事してるんだ」
「そう、つまんないね」
「でもまた一緒に遊ぼうね」
「うん、いいよ」
「じゃ、指切りしよう」
 美帆と指切りをした後、美帆の小さな手を取り山村はずっと握りしめていた。
 夏海のマンションまで美帆を送り届け、ドアが開くと夏海は「楽しかった?」と美帆に聞いた。「うん、楽しかったよ」と美帆は笑顔で答えている。
「なあ、今度三人で食事でもしないか?」夏海を誘って見た。
「そうね、考えておくわ。今日はどうもありがとう。じゃあね」
 そそくさとドアは閉められた。

「ごめんなさい。きついことばかり言って。私が悪かったわ。もう帰って来て……美帆が寂しがってるの。私もあなたに側にいて欲しい」
 こう言って夏海はそろそろ許してくれるかもしれない。
 あれから一ヶ月半後、そろそろいい潮時だろうと夏海に連絡した。
「なあ、三人で食事しないか?」精一杯優しい口調で切り出した。
「ごめんなさい。私、今は働いてるの。だから忙しくて…」
 どことなく夏海の口調がよそよそしい。
「どこで働いてるの?」
「ほら妊娠する前に働いていた横浜の貿易会社よ。職場復帰できたの」
「そうか。良かったな……じゃあ、また今度の日曜日、美帆を遊びに連れて行っていいかな?」
「…………」夏海の返事がなかった。
「もしもし、聞いてる?」
「ええ、聞いてるわ。実はね、最近、私、ある人とお付き合いしてるの」
「そう……」としか言えなかった。
「この前、その人にプロポーズされてね。美帆も彼のこと、気に入ってるの」
「………」何も言えなくなっていた。
「それでね、もしかしたらその人と結婚するかもしれないの」
「結婚?……結婚したらその男とお前と美帆が一緒に暮らすのか?」
「そう言うことになるわね」
「でも美帆に会うぐらい構わないだろう?」
「ごめんなさい。もう美帆には会って欲しくないの。彼が美帆のパパになるかもしれないから…」
「俺は美帆を認知してるんだぞ。だったら会う権利があるだろう」
「認知してくれたからって扶養義務はあるけどあなたに親権はないのよ」
「そんな……」
「ごめんなさいね」の言葉を最後に電話が切れた。

 夏海と美帆とまたいつか一緒に暮らせると思っていた。少しずつ問題が解決されて三人に何の支障のない日が来ると思っていた。いきなりその道は閉ざされてしまった。夏海が結婚してしまえば永遠に山村が入り込む余地はなくなる。夏海も考え抜いて出した答えに違いない。夏海を責めることはできない。多佳子と別れられなかった自分に責任があるのだ。いつの日か三人で世界の海を帆走する夢は跡形もなく壊れてしまった。
「ドリーム・カム・トゥルー」山村は二人の合い言葉をそっと呟いて見た。

丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

※批判的なコメントはご容赦願います。