向い風 4 (オヤジの小説・全9話)

向い風 4 (オヤジの小説・全9話)

2020年6月19日
小説

 山村と夏海が深い仲になったのもさして長い時間は必要としなかった。過去のどの交際相手より肉体も感情もぴたりと重なり合った。そして生涯共に生きて行こうと誓い合った。
 夏海と出会って三ヶ月後、夏海は夫と別れた。離婚はほぼ決まっていたが、山村との出会いが夏海の背中を押した。夏海は辻堂のマンションに引っ越し、自活するため昼は横浜の貿易会社で働き始めた。
 山村の場合、夏海とは事情が違って、そう簡単に事は運ばなかった。夏海との関係を正直に打ち明けたが、多佳子は納得しなかった。多佳子はこれまで何度も山村の浮気を大目に見て来たが、別れようと思ったことは一度もなかった。こんな夫でも一生添い遂げる覚悟でいた。どんなに夫が外で女と遊んでいても、いずれこの家に戻って来ると信じていた。しかし今回はいつもと様子が違った。山村は面と向かって家を出て行くと言う。ここまで山村を真剣にさせた女性はよっぽど魅力的なのだろうと多佳子は顔も知らない女性に嫉妬した。だから多佳子は冷め切っていたつもりの自分の心にまだ嫉妬心が残っていたのに驚き、戸惑った。
「分かったわ。……でもいつか戻って来るんでしょう?」
 耐え忍んでやっと言えた言葉だった。
「いや、分からない。とにかく今日出て行くよ」
 山村が一度言い出したら聞かない性分だと多佳子は知り尽くしていた。多佳子は諦め、ただ俯いて座っていた。山村は自分でも残酷なことをしていると承知していた。だが夏海への深い愛を断ち切れる筈がなかった。友人にもヨットの仲間にも「考え直した方がいい」「あんな娘みたいな女と上手く行く訳がない」と諭されたが、余計なお世話だと聞く耳は持たなかった。許されない関係であってもこれは運命なのだ。二十三歳で出会った時、多佳子を運命の女性だと信じていたが、本当の運命の女性は妻ではなかった。夏海だったのだ。五十三にして初めて運命の女性と出会ったしまったのだ──。山村は自分にそう言い聞かせていた。
 自分の部屋に行き、トランクに差し当たり必要な物だけを放り込んだ。スーツ、普段着、数冊のヨットの本。山村は多佳子に声も掛けず静かに玄関を出て行った。

 二年が過ぎた。山村は幸せだった。夏海の辻堂のマンションで一緒に暮らしていた。多佳子のことを考えることも少なくなった。夏海を懸命に愛し、夏海も山村を真剣に愛してくれた。海が二人のいつもの遊び場所だった。船のオーナーはいつでもマリーナの中に入ることができて出入港は二十四時間、三六五日可能だ。ホテルに泊まるより安上がりでロマンチックだった。毎週週末は夏海とマリーナの側にあるショッピングモールで酒と食料を買い込みヨットで過ごした。気が向けばセーリングもした。富浦、館山、三浦港、油壺、ちょっと足を伸ばして大島へ。夏海と暮らしてやはりこの女が運命の女性だったと改めて感じていた。自分の娘と同じ歳にもかかわらずこんなに自分と馬が合うとは。もっと早く出会っていれば──。自分の運命と神を少し怨んだ。

 ある日、会社の会議中、夏海から携帯にメールが入った。
 ─今夜どこかで食事しませんか?話があります。
 ─じゃ、横浜の例のお店で八時に。
 ─了解
 夏海の話が気になったので七時には退社できるように仕事を早めにこなした。
 夏海が先にレストランに着いていた。
「どうした?」
「先に食事にしない?」
「勿体付けるなよ。気になるよ」
「でも聞いたら食欲なくなるかもよ」
「聞かせてくれよ」
 何を夏海から聞かされるのか不安だった。別れ話か?妻との離婚の話か?──
「じゃあ、言うわ」
「うむ」「あのね……」「うむ」「だからね……」
「頼む!焦らさないでくれ!」夏海に頭を下げた。
「実はね、できたの」
「できた?……」
「赤ちゃん」
「赤ちゃん?……」まだ言ってる意味が分からなかった。
「あなた、オウム?インコ?……私たち二人の赤ちゃんよ。今日、病院に行って来てはっきりしたの。妊娠三ヶ月目だって」
「なあ……酒、頼んでもいいか?」
「どうぞ」夏海は冷静だった。
 ウェイターに手招きしてウィスキーのストレートを注文した。
「それでどうする?」夏海が山村の顔を覗き込んで迫る。
「どうする?産んで欲しいに決まってるだろう」真顔で言った。
「本当?産んでもいいの?」
「当たり前だろ」即答した。
「でも言っておくけど、この子を父親のいない子にはしたくないの」
「認知するさ」
「シングルマザーも嫌よ」
「シングルマザーにもしない。ちゃんと家内とは別れる」
 驚いたが正直嬉しかった。この歳で若い女性との間に子供ができるなんて不安もあったが、それよりも喜びの方が大きかった。ウィスキーがテーブルの上に置かれると山村は一気に飲み干した。 
「それから来週、私の両親の家に一緒に行きましょうね」
 アルコールに咽せて涙目になった。行かねばなるまい──。

 次の週の日曜日に鎌倉に住む夏海の両親の家に訪れた。山村が夏海の両親に会うのは今回が初めてではない。この二年間、両親とはマリーナで、鎌倉のレストランで、幾度か顔を合わせている。
 夏海の両親は二人の交際を認めてくれている。そしていずれきちんと山村が離婚して夏海と一緒になるだろうと信じている。今日は正午に両親の家で昼食の約束をしている。鎌倉の駅から歩いて十分程に洋風の瀟洒な館が見えた。落ち着いた屋根や壁の色が辺りの鎌倉の山に溶け込んでいた。大きな暖炉のある居間に通され、ダイニングテーブルの上には見慣れない料理が並んでいた。
 夏海の父は山村と同年輩だった。つまり夏海の父子と山村の父子の年齢関係は同じだった。父が五十五で娘が三十一だ。しかし長身でスリムな山村と違って夏海の父は若い頃から実業家で恰幅も良くヤクザの親分を思わせる風貌だった。「お父さん」と呼ぶより「親分」と呼ぶ方が相応しかったが、今では何の違和感もなく山村は彼を「お父さん」と呼んでいる。母親は若い頃よりアパレルメーカーのファッションデザイナーで今では有名ブランドを立ち上げていた。売り上げも上々のようだ。部屋の装飾品も自分の着てる洋服もセンスが良くはっきりものを言う女性だった。夏海の社交性は外国暮らしのせいもあるだろうが母親に似たのだろう。山村はこの両親に友人のような親近感を持って接していた。
 食事になる前に山村は両親に改まって挨拶した。
「この度は、このようなことになり申し訳ありません。しかし…」
「いや、山村さん、謝らなくてもいいだろう。娘は喜んでいるんだし、私たちも子供ができるのを楽しみにしてるんだよ」
 父親が山村を制して言った。隣に座っている母親も笑顔で頷いている。
「まあ、乾杯しようじゃないか」
 四人は赤ワインで乾杯した。
「さ、いただきましょう」母親が料理に手を付けるよう勧めている。
「私がまだ四歳ぐらいの時、家族でギリシャ旅行に行ったの」
 夏海がチキンパスタを山村の取り皿に装いながら言った。
「四歳じゃ覚えていないだろう?」山村が聞くと
「そうね。飛行機に乗ったことぐらいしか覚えてないわね。それでね、その旅行でお母さんが覚えた料理がこの地中海料理なの。だから本場仕込みよ」
「へえ〜」料理に箔が付いた気がした。
 夏海の両親は微笑みながら聞いている。テーブルにはパスタの他にムサカと呼ばれる挽肉料理、たらこ入り野菜サラダ、唐辛子とニンニク入りのスープが並んでいた。それから世間話をしながら食事が進み、四人でワインを二本空けた。緊張もあって少し飲み過ぎてしまった。食事が終わり母親と夏海は後片付けをしている。
「今日の家内の料理、どうだった?」父親がワインを片手に聞く。
「ええ、美味しかったです……夏海さんも料理は上手ですね」
「ああ、何をするにもどこに行くにも三人一緒だったからね。母親の味に似るのは当然だろう。私からはヨットを、母親からは料理を…娘は私たちからいろんなことを学んで来た。片親じゃ子供はどこかいびつに育つよ……私の言ってること、分かるよね」
 鋭い眼光で射すくめられた。
「はい」たじろぎながら頭を下げた。
「あ、失敬、山村さんはもう二人の子供を育てていたんだよね」
 そう言いながら父親は口角が片方上がる笑いを浮かべていた。

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丹阿弥清次

1955年生まれ。広告デザイン会社退社後、デザイン会社を起業して三十数年。卓球歴は大学以来40年の空白状態。還暦前に再挑戦。しかし奮闘努力の甲斐もなく今日も涙のボールが落ちる。

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